ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

懐かしい風景(37) 別府町編(18) 別府町編終了

2021-12-02 07:29:42 | 懐かしい風景

        懐かしい風景(37) 別府町編(18) 

      別府町編終了

 別府町にお住いの呉田(ごでん)利明さんから懐かしい、貴重な写真の提供がありました。

 今では、想像さえできない別府町の写真がいっぱいでした。

 ありがとうございました。

 まだ多くの紹介したい写真がありますが、それらは後日紹介します。

    お願い 貴重な写真を保存しましょう

 他の地区でも、このような写真が多く眠っていると思います。そして、今その多くが処分されているようです。

 まとまった数でなくとも、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町で、残っているそんな写真をお知らせください。地域の財産として保存しましょう。

 貴重な歴史の証言です。

 *写真:いずれも昭和32年の撮影のようです。 

 

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懐かしい風景(36) 別府町編(17) 別府町大改造

2021-12-01 08:09:38 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(36) 別府町編(17) 別府町大改造

 加古川市南部地区をニューモデルタウンとする県営の加古川南部区画整理工事は急ピッチで進められました。

 この区画整理は37年度から4か年計画、総工費7億5千万円。

 神戸製鋼所の進出が予想される市別府、尾上両町を中心に臨海部を今のうちに計画開発するのが都市改造というものでした。

 北側は、山陽電鉄路線沿いに600㍍、南側は西へ別府港から約1キロに囲まれた、総面積は96万平方キロメートルの広大な改造計画です。

 計画では同地区の西部を住宅地区、中心部を商業地区、南部を工場地帯に、それぞれ大別されました。

 工場進出に伴う道路網は、「東西に池田~別府港線(幅20㍍)を新設、浜国道を幅6.5メートルから10メートルに広げる。

 また、南北には新しい幅16メートルを新設し、現神野別府港線を幅6メートルから16メートルに拡張、以上の幹線を軸に幅8メートルから4メートルの街路50余本を走らせる」という、まさに大改造計画でした。

 工事は、37年度はじまり別府町は大きくその姿を変えました。

 *写真は、別府町改造中の写真

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懐かしい風景(35) 別府町編(16) イトーヨーカ堂ができました

2021-11-30 11:01:31 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(35) 別府町編(16)

     イトーヨーカ堂ができました

 先に、山陽電車別府駅の新築中の写真を紹介しました。昭和63年撮影の写真です。

 きょうのキトーヨーカ堂の建設中の写真も昭和63年の写真です。

 ですから、別府駅界隈の風景が激変したのは、昭和63年のようです。

 神戸製鋼ができ、関連企業が増え、人口が増え、そしてイトーヨーカ堂ができ駅舎が完成しました。

 昭和42年に浜が消えてから20年ほどの年月が経ち、別府町は、全く違う街に生まれかわりました。

 *蛇足です。

 イトーヨーカ堂のある場所は、もと多木製肥所があった場所です。

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懐かしい風景(34) 別府町編(15) 別府鉄道(2)  そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

2021-11-29 07:39:46 | 懐かしい風景

 途中で急に常光寺(神野町)をとりあげましたが、神野町は別府辺の後に取り上げることにします。もうしばらく「懐かしい風景:別府町編」を続けます。お付き合いください。

  

     懐かしい風景(34) 別府町編(15) 別府鉄道(2)

      そこのけ、そこのけ別府鉄道が通る

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の月でした。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線でした。
 別府鉄道の主な役割は、別府の多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、肥料のほかに別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

 写真は、山電車別府駅の西の道を少し北へ行った街中を走る別府鉄道。

 不思議な光景のようですね。

 *写真:県道八幡-別線を横切って野口へ向かう別府鉄道

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懐かしい風景(33) 別府町編(14) 別府鉄道(1) 

2021-11-24 09:17:03 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(33) 別府町編(14)

         別府鉄道(1)
 

 別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の月です。
 現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。
 別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。
 最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。
 しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。
 モータリゼーションの波で乗客は激減し、さらに同59年月、土山駅での貨物取り扱いの停止が決定的な打撃になり、高砂線と同じ昭和59年に、63年の歴史を閉じました。

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懐かしい風景(32) 別府町編(13) 別府の浜(2) ノリづくり②

2021-11-23 10:34:34 | 懐かしい風景

 

     懐かしい風景(32) 別府町編(13)

      別府の浜(2)・ノリづくり②  

 「ノリづくり・①」の続きです

 特に説明はありません。

 昭和32年当時の、浜の日常の風景です。

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懐かしい風景(31) 別府町編(12)・別府の浜(1) ノリづくり①

2021-11-23 09:52:36 | 懐かしい風景

 

   

  懐かしい風景(31) 別府町編(12)

       別府の浜(1) ノリづくり①

 昭和26年、別府町が加古川市になって以来、別府の町の風景は、まさに激変でした。

 これが半世紀の間の変わりようかと思えないほどの変化でした。

 子どもたちは、想像ができないでしょうね。

 別府の子どもは、別府は海辺の町と思っていないのかもしれません。

 それほどの変わりようです。

 しばらくは、昔の別府の海辺を潮風に誘われて散策してみましょう。

 きょうは、別府の浜での「別府の浜:ノリづくり①」です。

 

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懐かしい風景(30) 別府町編(11)・浜が消える(3) 埋め立て

2021-11-22 07:58:55 | 懐かしい風景

       懐かしい風景(3) 別府町編(11)

           浜が消える(3)

 『加古川市史(第三巻)』の著者は、加古川市のウォーター・フロントが完全にまで企業のものになったことの異常さを指摘されています。

 およそ、市史らしくない感情をこめた表現で、次のように述べています。



 (『加古川市史・第三巻』896pより)

 ・・・かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名のもとに、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないのだろうか。(以下略)・・・



 「出来てしまったものは、仕方がない」ではすまされません。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 

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懐かしい風景(29) 別府町編(10)・浜が消える(2) 埋め立て

2021-11-21 09:39:52 | 懐かしい風景

 懐かしい風景(29) 別府町編(10)・

     消える海(2) 埋め立て

 『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目します。

 ・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

 このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・



 以下は「広報かこがわ」からの引用です。

 ・・・このしゅんせつで浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967415日号)

 (見出し) 「来春完成めざし  埋め立て始まる  尾上町・別府町地先の公有水面」

 ・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・(「広報かこがわ」1968515日号)



 かくして、別府・尾上町から海岸線が消え、市民のウオーターフロントはなくなりました。

 *写真:浜の埋め立て(昭和4243年)

 

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懐かしい風景(28) 別府町編(9)・浜が消える(1) 神戸製鋼所の建設始まる

2021-11-20 08:08:53 | 懐かしい風景

 

  懐かしい風景(28) 別府町編(9)

    浜が消える(1) 神戸製鋼所の建設始まる

 昭和36年(1961)2月、加古川市は、3億8000万円の赤字を抱えて、財政は火の車でした。

 この時(昭和37年)甘いささやきがありました。

 東は、明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受け、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

 神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

 この意味ではある程度評価できます。

 「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。

 でも、その後、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありませんでした。

 

 

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懐かしい風景(27) 別府町編(8)・山陽電車別府駅(3) 山陽電車駅舎改築

2021-11-19 09:03:38 | 懐かしい風景

   懐かしい風景(27) 別府町編(8)

       山陽電車別府駅(3)・山陽電車駅舎改築



 1970(昭和451月、臨海部の埋立てが完成し、いよいよ神戸製鋼所が別府に進出してきました。

 そして、昭和63年にイトウヨーカ堂の工事がに始まります。

 別府町の人口は急増し、別府駅周辺の風景は、激変します。

 それに伴い、山陽電車別府駅手狭になりました。大きく改築されました。

 写真は、昭和63年当時の山陽電車別府駅の改築のようすです。

 神戸製鋼所の別府町進出については、次回から少し述べてみましょう。

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懐かしい風景(26) 別府町編(7)・山陽電車別府駅(2) 山陽電車周辺

2021-11-18 12:50:06 | 懐かしい風景
 
 
  懐かしい風景(26) 別府町編(7)
    山陽電車別府駅(2)・山陽電車周辺
 
 前号の別府駅舎の写真をご覧ください。
 今日の写真は、昭和40年当時の別府駅周辺の風景です。
 駅舎のあたりは畑です。
 子どもたちにとっては、とっても想像できないでしょうね。
 風景は、激変しました。
 畑は、商店にかわり、駅周辺に「イトーヨーカ堂」ができ、神戸製鋼所が別府に進出し、人口は急増しました。
 別府駅は、現在の駅に改築されました。
 
  *写真:旧山陽電車周辺の風景(撮影年次不明)
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懐かしい風景(25) 別府町編(6)・山陽電車別府駅(1)

2021-11-18 10:27:26 | 懐かしい風景

  懐かしい風景(25) 別府町編(6)山陽電車別府駅(1)

 この駅舎は、以前にも紹介した写真です。昭和34年に撮られた懐かしい山陽電車の別府駅舎です。

 年配の方にとっては、たまらなく懐かしい写真だと思います。

 最初にクイズです。



 (クイズ)「考えたことがない」と答える人も多いのではないかと想像しますが、別府駅は、何故高架になっているのでしょう?。

  

 答えは、簡単ですね。

 山陽鉄道が姫路まで開通するのは、大正12年です。その時、別府鉄道がすでに営業をしていました。別府鉄道の開通は大正10年です。

 そのため、別府鉄道は高架にする必要がありました。

 もちろん、まだこのころに神戸製鋼所はありません。

 乗り降りの客も、少なかったのでしょうね。

 その後、神戸製鋼所ができ、イトーヨーカ堂もできました。

 山陽電車・別府駅の利用者が増え、手狭になり、別府駅は改築され、今日に至っています。

 *写真:旧山陽電車、昭和34年撮影(呉田利明氏提供)

 

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懐かしい風景(24) 別府町編(5)・多木肥料所のエントツ消える

2021-11-17 07:23:06 | 懐かしい風景


 懐かしい風景(24) 別府町編(5)

       多木肥料所のエントツ消える

 以下は、昭和43年2月23日の神戸新聞の記事の一部です。



 ・・・レンガ造りでは播州一を誇っていた加古川市別府町別府多木肥料所(多木隣太郎所長)の名物「多木のエントツ」二基の傷みが激しく、いよいよ姿を消すことになり、22日午後2時から解体作業が行われ、1基が姿を消しました。・・・



 このエントツは、高さ52㍍で、明治34年牛馬の骨を蒸すボイラー用として2基建設されました。

 大正にはいり、同工場が硫酸を作るようになってからは焙焼炉として使用さていました。(no24

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懐かしい風景(23) 別府町編(4)・多木製肥所

2021-11-16 11:29:11 | 懐かしい風景

 

  懐かしい風景(23) 別府町編(4)

       多木製肥所(1)

 多木久米次郎は、生年:安政6(1859)に生まれ、没年は、昭和17(1942)です。

 多木勝市郎の3男に生まれ、父の死後、20歳で家業を継ぎ、明治23(1890)年に獣骨を原料とした過燐酸肥料の製造を開始しました。

 肥料の原料に獣骨を使ったため、その悪臭は近隣の住人の非難にもなりました。

 その後、原料を燐鉱石に変え、さらにカリや窒素などの肥料を製造し、大正7(1918)年には、多木製肥所を株式会社多木製肥所に改め、社長に就任しています。

 また、明治41年に衆院議員に当選しました。

 その後、5回の当選を重ね、昭和14(1939)年には貴族院議員にもなっています。

 多木製肥所は、現在のイトーヨーカ堂のある場所で、写真の製肥所と煙突を確認しておいてください。次回のFBで紹介しましょう。(no23)

 *地図:大正12年の地図

 *写真:多木製肥所

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