彼岸花が咲いています
お彼岸の頃に彼岸花が咲く。
不思議なことではありませんが、なぜか落ち着きます。
まだ気温が高いですが、気持ちの良い本当の秋がそこまで来ているんですね。
写真は、お隣の空き地に咲いた彼岸花です。
(きょう、23日 10:30ごろの撮影)
彼岸花が咲いています
お彼岸の頃に彼岸花が咲く。
不思議なことではありませんが、なぜか落ち着きます。
まだ気温が高いですが、気持ちの良い本当の秋がそこまで来ているんですね。
写真は、お隣の空き地に咲いた彼岸花です。
(きょう、23日 10:30ごろの撮影)
加古川市の水風景(30) 消えた浜
加古川市の海岸が消えました。
昭和36年(1961)2月、加古川市は、3億8000万円の赤字を抱えて、財政は火の車でした。
この時(昭和37年)甘いささやきがありました。
東は、明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受け、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。
神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。
この意味ではある程度評価できます。
「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。
加古川市の水風景(29) 別府川防潮水門
今年の夏は、とにかく暑いかったですね。いかがおすごしでしたでしょうか。
加古川市の歴史シリーズを続けていましたが、この暑さで8月は話題を変えて加古川市の涼しい水景色をお届けしようと企画しました。
加古川には兵庫県一の大河・加古川があり、涼しい水風景は簡単に見つかるとか思っていましたが、案外見つかりませんでした。
その最大の原因は、加古川市の海岸からウォーターフロントが完全になくなったことでしょうね。
本当に取り返しのできない政治の貧困のせいです。
加古川の流れは、100年の歴史を考えて街づくりを考えましょう。
明日で「(シリーズ)加古川市の水風景」の最後とします。
別府川防潮水門
水門であるが、別府町は低い平地に位置しているために播磨灘の影響を受けてきました。
特に台風の時などは、海水が高潮となって別府川をさかのぼり「潮止枠樋門」に達し、しばしば付近の両岸の人家に侵入し、田んぼにも塩害をあたえました。
現在は、別府川の両岸も高く築かれています。
そして、「別府川防潮水門」が昭和44年に完成しました。
地元の人は「わくのくち水門」といって大切にしています。
加古川市の水風景(28) 土砂の激しい河口部
中世の頃、加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。
そこに、今津村という大集落があり、その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝正)から通達がありました。
内容は、「高砂へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。
中世に栄えた今津村も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失いつつあったのです。それも、予想を超える土砂の堆積でした。
姫路藩主は、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにしました。その時、今津村(現:尾上町)の住民は高砂に移住させられたのです。
結果、尾上町の今津村は慶長・元和の頃に消滅してしまいました。代わって、高砂の町に「今津村」が誕生しました。
昨日(8月28日)の浚渫作業
加古川の土砂の堆積は江戸時代だけの話でなく、土砂の堆積は現在進行形です。毎年、水底をさらって土砂を取り除く浚渫作業が行われます。
きのう高砂へ出かけましたが、浚渫船による作業(写真)が行われていました。
「なんだろう」と思われた方も多かったのでは・・・
加古川市の水風景(28) 七ツ池(東志方細工所)
七ツ池の位置図をご覧ください。
細工所から野尻の谷に沿って「七つ」の池が並んでいる「七ツ池」です。
七ツ池は絵に描いたような典型的な「重ね池」です。
「・・・七つ池の西から三つめは上ノ池で、七つ池の中で一番大きな池です。
「上の池」の堤は、西南隅の「うてみ」(越水洪水吐)のそばだけが特別に太くなっているのが目につきます。
この池は両側の山から大小いくつもの谷によって水が流れ込んでいます。
ここは、すぐ上の平池の「うてみ」のあるところで、うてみを落ちる水といっしょになって、雨の日などはすさまじい水勢いで上の池に流れこっます。
この水をまともに受けているところが堤のふとい部分になっています。
余話:「上の池」は兵庫県で一番早く旧石器が発見された場所です。
写真上:「上の池」と「平池」と堤防 下:「新池」、向こう池は「下の池」と堤防
図:七つ池
加古川市の水風景(26) 加古川を照らす夕日
きのう、淡路へ出かけ、メッチャ疲ました。今日は散歩に出かける元気が全然おきません。
もうすぐ昼です。先ほどおき出しました。眠くはないのですが、まだしんどいです。
でも、習慣なったブログ・FBはお休みにしたくないので、形だけになります2年前のきれいな加古川の夕日を書いて、きょうの「加古川市の水風景・26」としておきます。
加古川を照らす夕日
*今は、このような夕日を見ることはできません。季節限定の風景です。その時期になればお出かけください。
(2020・11・6、神戸新聞・三木版より)
夕日で加古川が黄金色に染まる景色を見ようと、正法寺山山頂にある展望広場(兵庫県三木市別所町正法寺)を多くの人が訪れている。
絶景は沈みゆく太陽と川が重なることで生み出され、見られるのはわずかな期間。
天候によっては見られないこともあり、貴重な瞬間を逃すまいと愛好家らがシャッターを切った。
*(写真の手前の橋は、加古川を横切る加古川線、その向こうの橋は上荘橋)
加古川市の水風景(25) 亀の井堰と亀の井用水
国包(くにかね・加古川市八幡町)は、5日も日照が続くと、ツルベで朝夕灌漑をしなければならず、他の村から嫁入りが嫌われていたといいます。
そんな窮状を救うため、文化13年(1816)、畑平左衛門が美嚢川(みのがわ・三木市)が加古川に出る手前から取水するための堰をつくりました。
この用水は、国包村、船町それに宗佐村の畑地(図の赤く塗りつぶした場所)を潤し、水田化するためのものでした。
井堰の構造が割石を亀の背中のように丸く積み上げたことから、堰は「亀の井堰」、用水は「亀の井用水」と呼ばれるようになりました。
現在、石組みはなくなり、写真のようなコンクリートの堰に変わっています。
取水方法も、「水がいる時期に風船が膨らみ川をせき止め水をためる」ように変わりました。
田畑に水が必要な田植え時期や、今の時期にゴム風船を膨らませたような堰を見ることができます。お出かけください。
*写真と図:亀の井堰と亀の井用水の受益地域(赤く塗った所)
加古川市の水風景(24) 古新堰堤(こしんえんてい)
きのう(24日)の午後、加古川の河口(西岸)をドライブしました。
前日の雨で、流れは古新(高砂市米田町)の堰堤のところで盛り上がり、勇壮な流れでした。
「加古川市の水風景」ではないのですが、対岸は加古川市の友沢あたり。まあ、いいでしょう。久しぶりで、涼しそうな夏風の景色でした。
土砂の堆積と塩害
加古川は大きな川ですが、特に米田町古新辺りから川幅を広げて、瀬戸内海に流れ込みます。
加古川は、大量の土砂が河口辺りで堆積させ、その流れを妨げてきました。
河口あたり水のもう一つの難題は、塩水が混じった気水域であることですした。
塩水を含んだ水は直接、田畑に利用できませんし、飲料水にも適しません。
河口から少し離れた米田町古新辺りでは塩も薄くなるのですが、大潮のときなどは、ここで塩水を防ぎ、水をその堰の上流から取水する必要がありました。
そのため、塩水を防ぐために「古新堰堤」がつくられています。
*写真:昨日の古新堰堤(高砂市米田町)の水風景
加古川市の水風景(23) 国包の河岸(かし)の跡
国包(八幡町)は、京都から伊丹、そして有馬・三木そして加古川市志方・姫路を通る街道「湯之山街道(ゆのやまかいどう)」と加古川の水運が交わる場所でした。
そのため、国包は、江戸時代は商工業が栄えました。
上流から米・炭等の生活用用品が舟(高瀬舟)で運ばれてきました。
そして、京都・大坂の産物が国包に集まりました。
国包は、ずいぶん栄えた河岸(かし:河の港)でした。当時の一大ターミナルだったのです。
今、その渡し場のあった繁栄跡は全くなくなりました。
渡し場のあった場所に説明板があったはずです。「ありました、ありました・・・」。
刺のある草に埋まっていました。
草をのけた時に、刺でやられました。
もう少し目立つようにして欲しいですね。
説明板のある近くでレガッタの練習をしていました。
河岸の風景は、歴史という時間の中で、とっくに消えてしまったようです。
*写真:江戸時代の国包の渡し場(河岸:かし)の説明板・現在の国包辺りの風景
加古川市の水風景(22) 権現ダムと遊歩道
権現ダムで嫌な事件がありました。
2018年8月、若い女性の死体の遺棄事件です。新聞でも大きく報道されました。
私は、それまで事件のあった近くをよく散策していましたが、事件以後、その辺の散歩をやめていました。
先日、事件があったの辺りを久しぶりで歩きました。
もっとも暑い3時ごろのためか誰も歩いておられません。
どことなく以前と雰囲気がちがいます。
気持ちのせいかな思いましたが、やはり違っていました。遊歩道沿いにそれまではなかった金網のフェンスが続いています。
*この遊歩道は志方町野尻と平荘町を結ぶ生活道路にもなっています。
権現ダムの水辺を歩いる雰囲気はまったくありません。
以前からあったガードレールに加えて、フェンスを設置されています。まるで、檻の中を散策しているようです。
死体遺棄事件に関連して設置されたようですが、これでは水辺の遊歩道になりようがありません。
何とか、いい工夫はありませんでしょうか。もったいない・・・・
加古川市の水風景(21) 住宅地のど真ん中で育つガマ
ここは、尾上町口里辺りです。車で別府へ運転していました。
オヤッと思ったのですがそのまま通り過ぎました。
気になりましたので、帰りに近くのコンビニの駐車場で車を止め、10メートルほどその場所へ歩きました。
新幹線の下の住宅の一角です。その不思議なもの(植物)を見つけりました。
ガマがいっぱい穂をつけているのです。
この時期、池にガマが育っていても何の不思議はないのですが、こんな住宅一角で大振りのガマが育っているのは何ともミスマッチな風景でした。
よく見ると、なぜかこの一角の土地は少し濡れています。
それにしても、水が流れ込む水路でもあるのかな探しましたがありません。
ガマのある懐かしい風景は少なくなりました。ましてや住宅地のど真ん中に池の周辺で育つガマを見つけました。
気になりましたので投稿します。
加古川市の水風景(20) 海洋センターのプール
久しぶりで別府の海洋センターに出けました。
元気な声があふれています。
お盆が終わりました。もうそろそろ秋の兆しがあってもよさそうですが、天気予報によれば、今年は、もうしばらく夏が居座るようです。
いい加減にしてほしい。
それにしても、海洋センターのジャブジャブ池の子どもは元気です。
孫が小学校低学年のころ、よく「海洋センターのジャブジャブプールに行こう」とねだられました。
暑かったですが楽しかったです。
孫は今でも水泳が大好きです。
その孫も今年は中学3年生になりました。
もっぱら友達と市民プールに出かけているようです。
寂しいね・・・
*写真:昨日(20日)の海洋センターのプール
加古川市の水風景(18) 旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台
加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分(写真上)が残っています。
この橋げたの土台と旧橋の話です。
明治時代になり、何回も橋が架けられるかけられたのですが、その都度流されてしまいました。
大水に流されない、がっちりとした鉄の橋が求められました。
そして、大正2年6月に、本格的な鉄の新橋が架設(写真下)が完成しました。
その鉄の橋の橋げたの土台が、今の国道2号線の北に点々と残っています。
その後、交通量が急増し、新しい本格的な橋が建設されました。
それが、現在の加古川大橋(大正13年8月15日)です。
いままた、4車線の大橋に改修工事中が行われています。
この旧加古川大橋は大正時代の橋です。
それにしても、当時の子どもは何と大胆な遊びをしていたんですね。
*写真:飛び込みの写真は『ふるさとの思い出写真集・加古川』玉岡松一郎編(国書刊行会)より
加古川市の水風景(18) 原の大池(西志方)の堤防を歩く
田植えシーズン前に、加古川市志方町原の大池で、農業用水を利用する西志方5集落に分水する神事「樋抜きの儀」が行われます。
原の大池は面積9ヘクタール、総貯水量24万6500立方メートルで、志方町最大級のため池です。
池を管理する横大路、原 、成井、永室、西牧の各集落に注ぎ、約水田など110ヘクタールを潤す恒例の伝統行事です。
大池のバルブを開けると、集落に配水する円筒形の施設「分水工」から水がごう音を立てて吹き出ます。勇壮な風景です。
池の洗濯場
きのうの午後(3時ごろ)大池に出かけました。曇っていましたが蒸し暑かったですね。
きのうは、大池の樋を撮影に出かけたのではく、大池に残されたの洗濯場を撮影に出かけました。
もっとも、この洗濯場は、役目を終えて久しくなりました。
昭和30年ぐらいまでは、お母さん方はここで洗濯をし、野菜などを洗った生活の場所でした。
子どもたちは、そのあたりで水泳もしたことでしょう。そんな風景は消えて久しくなりました。
この洗濯場を10メートルほど離れた場所から撮りました。撮影の足場が見つからず、良い写真が撮れませんでした。
この写真のアングルが目いっぱいで、これ以上は池にはまりそうです。
あんのじょう、撮影をして土手に引き返そうとする時少しすべってしまいまいた。
近くのオヒシバにつかまりセーフ。
お爺さんが池にはまっては笑いものです。クワバラ・クワバラ・・・
*写真:原の大池(西志方)の洗濯場跡
加古川市の水風景(17) 曇り川と別府川がつながる
日岡山の北を流れる曇り川は「雨の時だけ流れがある」 といわれ、ふだんは水の少ない川です。
そんな川ですが、ひとたび長雨が続くと濁流となり、加古川へ水を一挙に吐き出します。
加古川の本流への流れは、排水モーターがあるのですが、大雨の時は、しばしば排水能力をこえ、水は流路を南に変え五ヶ井用水に沿って加古川の中心街へと一気に流れ下りました。
昔から、そのため幾度となく大野をはじめ南部の平地部(中心部)に洪水を引きおこしました。
別府川は、もともと加古川バイパスのすぐ北の白ヶ池川の河口辺りから下流へ、そして瀬戸内海へ流れた川でした。
そのため、昭和33年ごろから別府川を延長し、曇り川の水を別府川に流す案が計画されました。
現在は、工事は完了し、曇り川と別府川は繋がり洪水の心配はあまりしなくてもよくなりました。
日岡駅のすぐ北あたりでつながり、五ケ井用水の分水所辺りの風景は一変しました。
「五ヶ井用水」も造りかえられ、コンクリートの広場のような場所が造られました。
大雨の時には、このコンクリートの広場のような場所を超えて水は別府川へ流れます。
先日、この場所の撮影に出かけました。
普段は、水が流れていませんので、若者はスケートボードに熱中していました。
暑くないのかな・・・
*写真上:別府川とコンクリートの広場のような場所
下:新しくなった五ヶ用水