ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

「石の宝殿の謎」終了

2022-01-20 07:51:02 | 石の宝殿の謎

      「石の宝殿の謎」終了

 石の宝殿研究会のフェイスブックを乗っ取ったようで申し訳ございませんでした。

 少し飽きて来られたでしょう

 この辺りで「シリーズ・石の宝殿の謎」を終了させます。

 最後に少しだけ蛇足です。 

   ① 『石の宝殿』は、動かせない。

 石の宝殿は、何となく「石棺ではないか」と想像されています。でも、こんなでかい石棺を地方の豪族は作るはずがありません。

 となれば、当然「都(明日香)」まで運ぶことになります。建設当時は、物部・蘇我氏の時代です。彼ら以外の権力者がつくったとは考えられません。

 でも、常識論者の私は「物部であれ、蘇我であれこんなバカでかい代物がはたして都まで運ぶことができると考えただろうか」と考えてしまいます。そして「いや絶対にだめだ・・・」という声がどこからともなく聞こえてきます。皆さんはどうですか。

 そして、「石の宝殿」は、岩盤からはがそうとして形跡はないようです。

 ということは「別の目的で作ろうとした」と想像した方がよさそうです。

   ② 高御位山~魚橋山峡~宝殿山はボーダー(防御)の地か? 

 では「別の目的」となると、たちまち思考停止になります。

 あえて考えました。石の宝殿は、石の魔力で西国の敵から都を守るために作ったと考えますが、次のような目的もあったのではないでしょうか。

 いま、地球はグローバルの時代です。中国発のコロナは、瞬く間に世界を席巻してしまいました。物部・蘇我の時代も「大陸から仏教をとり入れるか否か」の問題が巻き起こりました。『日本書紀』にも伝染病広がりを記しています。

 「目に見えない病魔の都への侵入を防ぐために、畿外と畿内のボーダーになるこの地にデンと設置したのではないか」と考えました。

 「はじめから移動を考えたのではなかったのではないか」と考えました。いかがでしょうか。 

   ③ NHKの大河ドラマに松右衛門と高田屋嘉兵衛を!

 時代は飛びます。江戸時代の終わりのころです。工楽松右衛門は竜山石を使って、箱館港を建設しました。

 高田屋嘉兵衛と松右衛門のみごとなコンビでした。このふたりは、箱館港だけではありません。外にも、日本史を動かすようなビックリするようなたくさんの仕事をしています。

 高田屋嘉兵衛は淡路出身の方です。そして地元では、「大河ドラマに高田屋嘉兵衛を」の運動をされています。

 高砂市も、高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門をNHKに売り込んでいただけないでしょうか。大河ドラマ「高田屋嘉兵衛と工楽松右衛門(仮称)」で取りあげてもらいたいですね。

 〈お詫び〉

 このシリーズを随分、かってな考えで書いています。多くの方から、お叱りを声が聞こえてきそうです。そのお叱りや感想をお聞かせいただければ嬉しいです。よろしくお願いします。

 *写真:石の宝殿(石の宝殿研究会提供)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(19)・工楽松右衛門(3) 松右衛門、竜山石で箱館港をつくる

2022-01-19 10:26:24 | 石の宝殿の謎

 

      石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(19)

        松右衛門、竜山石で箱館港をつくる

 (高田屋)嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開くが、これを契機として幕府は蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていきます。

 蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になて、松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じました。

 

 ・・・享和三年(1803)、箱館は、松右衛門の設計によって、地蔵町(函館山の麓)の浜に築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場(をつくりました。

 その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックにあたります。

 ドックの建設には比較的軟らかな石畳が必要です。

 松右衛門は、耐火力もある竜山石(たつやまいし)を、大量に箱館に運び、「船たで場」をつくりました。

 現在の函館の町づくりのはじまりは嘉兵衛が、そして、港をづくりは松右衛門が最初に手がけました。

 船食い虫については『菜の花の沖』で、司馬遼太郎は次のように説明しています。

 ・・・「舟の敵は船食い虫という白い紐状の虫である。(中略)管から海水を飲んだり吐いたりして、酸素を摂取しながら、船底の木を食べ続ける。ともかく、すべて退治するしかない」と・・・

 

 その後松右衛門は、エトロフ開発や蝦夷地交易に使ったこの箱館の地所を高田屋嘉兵衛に譲っています。

 *挿し絵:箱館真景図絵(文久2年・1862函館中央図書館蔵(挿し絵の上部の山は函館山)

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(18) ・工楽松右衛門(2) 松右衛門は港づくりの名人

2022-01-18 08:10:57 | 石の宝殿の謎

       石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(18)

     工楽松右衛門(2)・松右衛門は港づくりの名人

 高田屋嘉兵衛は、エトロフを探検した後、箱館へ帰ってきました。

 幕府の役人・三橋藤右衛門と箱館の港の件に及びました。一挙に具体的な話になります。・・・・・

 藤右衛門は「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねたのです。

 「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と。

 その時、嘉兵衛は、(工楽)松右衛門が港づくりの名人であることを、名前を出して言うのでした。

 ・・・・

 ところで、「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、藤右衛門はき尋ねました。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、およびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えました。

 嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰りました。

        嘉兵衛、松右衛門を説得

 さっそく、嘉兵衛は、松右衛門の店に寄ります。

 嘉兵衛は、松右衛門に箱館港建設について、について話しました。

 「なんじゃ、公儀御用かい」

 松右衛門旦那は、いやな顔で反問しました。が、最後に「わかった」と、返事をし、箱館港づくりに応じました。

 この時、松右衛門は61才でした。(次回へ続く)

 *写真:工松右衛門(高砂神社境内)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(17)・松前藩・松前藩は悪の組織・「場 所」

2022-01-17 08:58:35 | 石の宝殿の謎

 

 

 

 今日の噺は、「石の宝殿も高砂」も登場しません。次回の話題の都合上、江戸時代も終わりのころの蝦夷地(北海道)を取り上げます。ご辛抱ください。

      石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(17)・松前藩 

     松前藩は悪の組織・「場 所」

 「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという藩の縄張のこことです。

 松前藩は、蝦夷を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえました。

 「松前」という藩は、広大な採集の宝庫の一角を占め、その「場所」で働くアイヌに苛烈な支配を実施しました。多くのアイヌが命を失いました。松前藩は、まさに悪組織という外ではありませんでした。

 松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

いなかったのです。

         松 前 藩

 松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の松の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれでした。

 すでに、(高田屋)嘉兵衛は、「箱()館」という土地があることをきいていました。

 道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない土地のことです。

 それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠きません。

          松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

 しかし、松前藩はアイヌに対して苛烈な支配をしていました。

 野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになります。

 松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全です。

 かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利な土地でした。

 松前は、山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけだけの土地でした。

 当然「反抗があるかもしれない」と考えました。守備は十分ではありません。

 そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、この松前を城下にしていたのです。

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(16)・魚橋古窯跡

2022-01-16 09:18:54 | 石の宝殿の謎

 前号の「家紋石」を見学した帰りに、ボランティア方が作られたのでしょう。石の宝殿界隈の説明板を見つけました。

     石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(16)

         魚橋古窯跡

 高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。

 ・・・・  

 これらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。

 瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。

 つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、何を物語っているのでしょう。

       六勝寺

 京都・六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)は、京都東山の岡崎周辺に建てられた寺で、古代末期、時の専制者(天皇・上皇)の造寺等が思いのままであった時代の建造物です。

 六勝寺の研究は、昭和30年代に入って急速に進み、意外な事実が明らかとなりました。

 六勝寺の瓦には、魚橋窯跡から出土する瓦と全く模様の瓦が多数含まれていたのです。

 古瓦の研究者、魚橋窯で焼かれた瓦が六勝寺に供給されたのではないかと推測されました。

 魚橋瓦は、六勝寺だけではなく、さらに広く京都の大寺、宮殿に送られたようです。

 六勝寺自体が、古代末期の院政の象徴とも考えられる存在で、魚橋窯からこの地域は院政とよほど深く関係していたんですね。

 () 六勝寺:院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称されました。

 *写真:石の宝殿周辺の観光ガイド(説明板の一部)、現在、古窯跡に「東洋金属熱錬工業所」が建設され、古窯跡の面影は偲ぶことはできません。

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(15)・家紋石(かもんいし)

2022-01-15 08:53:28 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(15)

         家紋石(かもんいし)

 生石神社にお参りする時、山麓の急な石段からお上りください。

 すると、山ろくの石の鳥居の両脇に矢羽模様の家紋を刻んだ大きな石塊を見ることができます。

 「家紋石(紋所石とも)」と呼ばれています。

 一方は「違い矢」、もう一方は「三本矢」です。

 この家紋石は、初めからここに置かれていたのではなく、元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にありました。

 採石作業で崩れ落ちたため、昭和50年、ここに移されました。

 製作年代も制作者もはっきりしていません。何の目的で作られたのか定説はありません。

 ただ興味深いのは、姫路藩の竜山石専売制とかかわるものではないかと一いう説です。

 姫路藩の専売制といえば木綿が有名ですが、竜山石についても採掘に際して村々に、石切の許可を与える制度を敷いていました。

 寛延(1750)年と嘉永4(1851)年の石切鑑札が現存しています。

 「専売制になった象徴として作られたのでは」という説は説得力がありそうです。

   

  *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

  *写真:家紋石は、鳥居の前に左右に置かれていますが、写真の家紋石は鳥居に向かって右に置かれている家紋石です。

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(14)・マンガ『よつばと』より、生石神社の階段

2022-01-14 11:17:06 | 石の宝殿の謎

       石の宝殿の謎(2部) 生石神社神社界隈を歩く(14)

      マンガ『よつばと』より、生石神社の階段



 前回は、マンガ『よつばと』に描かれた宝殿山と生石神社の風景を紹介しました。

 さっそく神社へ参拝をしました。



     階段(150段)は、神社の山麓に

 散歩を兼ねますから、車を総合運動公園に留めて、生石神社の山麓まで歩きました。神社の鳥居までは、法華山谷川の橋を渡り、少し行くとすぐです。

 鳥居から神社神社へ続いています。本殿はその急な階段を登りつめたところです。それにしても、急な、長い階段です。

 ここから神社に登るルートが正式なんでしょうが、登るのには一大決心が必要です。

 その日は、私と同年配ぐらいのおじいさんと鳥居の前で出会い、「上がりましょうか・・・」声をかけると、決心されたようで「登りましょう」返事。

 途中「しんどいですね‥」の、一言だけ・・・

 階段の数を数えながら登りました。なんと150段です。(数え間違いかもしれません)

 一気に登れません。でも、登頂に成功しました。まさに「登頂」でした。

 絵馬堂で休憩。こんな時のコンビニで買ったお茶は最高です。

 でも、ダメですね。途中で足をひねったんです。悪いことは重なりました。向う脛を階段の角にぶつけてしまったんです。痛かったですよ・・・

 痛みはすぐに引きましたが、帰宅して見ると、パッチは広く血で汚れていました。 

 *挿し絵:まんが『よつばと(第11巻・73話・栗拾い)』(電撃コミックスより)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(13)・ マンガ、『よつばと』に生石神社が登場

2022-01-13 08:09:51 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(13)

                マンガ、『よつばと』に生石神社が登場

 読者の方(Hさん)から、下記のようなコメントとをいただきました。

 ・・・ひろかずさんの記事は地域のトピックということで非常に興味があり、もう年以上もまえから読ませていただいてます。
 (子供のころを思い出し)投稿しました。
 『よつばと』の作者・あずまきよひこ氏 は、高砂出身・加古川東高校出身の漫画家で、懐かしい高砂の風景がたくさん描写されています。ご覧ください・・・

 (以上、Hさんからの投稿)

 ふだん漫画はあまり読まないのですが、地域の風景が描かれているというので、さっそく『よつばと』の数巻を注文しました。

 読んでみると、生石神社が登場しています。

 マンガ『よつばと』の主人公は、お父さんらと栗拾いに出かけました。

 絵をご覧ください。

 「あれ」と、お父さんが指をさしている神社のある山は宝殿山で、神社はまさに「生石神社」です。

 マンガでは、そこを栗山としていますが、栗拾いのできる山ではありません。岩(凝灰岩)だらけのです。

 作者(あずまきよひこ氏)は、栗拾いの山として宝殿山を設定しています。『よつばと』の生石神社絵はリアルですが、生石神社の山麓にある鳥居を山の中腹に描いています。

 まあ、いいでしょう。 

 *挿し絵:生石神社のある宝殿山・生石神社。(マンガ『よつばと(あずまきよひこ著)・第1173話)』(電撃コミックス)より

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石の宝殿の謎(2部) 生石神社界隈を歩く(12)・生石神社絵馬堂の算額

2022-01-12 09:25:34 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部) 生石神社界隈を歩く(12)

          生石神社絵馬堂の算額



 この算額は、明治(1876)に奉納された算額で、高砂市の指定文化財となっています。

 絵馬堂の算額は、その複製です。

 算額とは、主に江戸時代に日本で発達した数学和算の愛好家が社寺に奉納した絵馬のことです。

 長く納屋に埋もれていたのですが、昭和52年文献をたよりに調査に来られた日本数学学会員の手で発見され、日の目を見ることになりました。

 絵馬に描かれるのは、今でいう幾何学の図形問題とその回答です。

 生石神社の算額(写真)に赤・白・黒の三色で描かれた図形は、モダンなデザインのようで、その色彩と形の美しさに思わず見入ってしまいます。

 この算額は、備中井原の佐藤善一郎貞次という高名な和算家が、播磨等の弟子5人に一問ずつ解かせたものです。

 例えば、「一辺が15寸の正六角形。交差する対角線が作る正三角形中に内接円を描く。その円心直径は・・・」とあります。

 こんな問題を見る時、数学に弱い私などは目がクラクラしてしまいます。

 全国に各地の残る算額の中でも水準の高さがきわだつそうです。

 加古郡国安に小山淳次という人が、生石神社への算額奉納の仲介者となっています。

 算額は他にも、国安天満宮や尾上神社に一門の算額が掲げられています。 

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:算額(生石神社)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(11)・天川橋は残った

2022-01-11 09:44:49 | 石の宝殿の謎

     石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(11)

     天川橋は残った

 前回の続きです。姫路市の御着まで足を延ばします。

 石工・仲右衛門は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としていました。

 天川橋(姫路市御着)も彼(石工・仲右衛門)の作品として知られています。

 天川橋の写真を撮りに出かけました。でも、現在の天川橋は、新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。

 以前に石工・仲右衛門の記事をしました。読者のNさんから「天川橋は、御着城跡に保存され、HPにも詳しく紹介されている・・・」と、ご連絡を頂きました。

 さっそく、探索に出かけました。

 りっぱな仲右衛門のつくった旧天川橋が御着城の裏側(北側)にありました。

 以下は、姫路市教育委員会の説明です。

 「・・・姫路藩が文政十一年(1828)に、この地(御着城跡)より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した。

 竜山石製の太鼓橋、全長26.6m、幅4.4m、高さ約5mで橋脚5本。

 印南郡石工、瀬肋・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。
 橋の東北詰めには高札場があった。
 昭和47年(1972日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和53年(1978)10月、現在地に移設保存した。

 高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御者城の濠跡。
    平成132月 姫路市教育委員会

 *写真:保存されている天川橋(御着城裏)

 

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 石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(10)・石工、仲右衛門

2022-01-10 09:05:49 | 石の宝殿の謎

       石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(10)

       石工、仲右衛門

 『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)で、石工・仲右衛門を紹介しています。

 その一部をお借りします。

 「・・・現在、観涛処へは加茂神社(伊保町)から登りますが、かつてはもっぱら生石神社の写真の場所から観涛処へ登りました。(現在、生石神社から観濤処への登山道は通行禁止です。危険すぎます。)

 かつての生石神社から観濤処への登山道の入口に大型の石碑に「生石村石工雲根室仲右衛門」と刻まれています。

 彼は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。

 これ以外にも、天川橋(姫路市御着)が彼の作品として知られています。

 天川橋の架橋は、文政11(1828)です。

 天川橋の紹介は、次回の「石の宝殿の謎」に紹介します。

 仲右衛門は、山から石を切り出す「山取」の技術に秀でていたといいます。

 天川橋の写真を撮りに出かけました。

 「天川橋」というのですから、天川の中心地に架かる橋のようです。

 御着城の西に天川が流れており、そのあたりで、西国街道と交差しています。

 たぶん、そこが天川橋だろうと見当をつけ車を止めました。バッチリでした。

 でも、そこには仲右衛門の影がありません。

 新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。

    多くの名工たち

 仲右衛門の他に名の知れた石工として、嶋村(高砂市米田町)の西邨(にしむら)一族がいます。

 生石神社拝殿前にある、宝暦8(1758)年の石灯籠もその作品の一つです。

 嶋村の石工の作品は、姫路にも散見されます。

 播磨国総社、射楯兵主神社にある宝暦12年の石灯籠も「石工嶋村平次郎」の作です。

 その他、近辺の神社等で、生石村の清兵衛、藤兵衛、塩市村の久七、米田村の捨吉の名を見ることができます。

 これら名前が伝わっている石工以外にも、生石神社周辺には、たくさんの名工が存在したに違いありません。

 *『はりま(埴岡真弓著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *写真:かつての「観涛処」への入口にある石碑

 

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石の宝殿の謎(2部)   石の宝殿界隈を歩く(9)・ 観涛処(かんとうしょ)

2022-01-09 09:31:22 | 石の宝殿の謎

    石の宝殿の謎(2部)   石の宝殿界隈を歩く(9)

        観涛処(かんとうしょ)

 標高70メートル程の通称加茂山の山頂近くの南面の崖に、左右10メートル程、上下メートルの大きさの岩肌に、「観涛処」の字が薬研彫(やげんぼり)されています。

 この「文字」は、永根文峰、19歳の書で、32歳で没した後、父・伍石が持参していたのを、姫路藩家老・河合寸翁(かわいすんのう)は、「藩主酒井候が〝眺望絶佳の地″として賞嘆しているこの地にふさわしい、として費用を出して刻させた」と読める跋文があます。

 その最後は、天保七年三月 伍石 七十二叟 永眠と記されています。

   そして、松と波のうねる風景は消えた

 説明には、次のようにあります。

    国指定史跡  観涛処

 「波のうねりを望む景勝地に、江戸時代後期、天保7(1836)年に姫路藩・永根文峰(ながねぶんぽう)の書を、河合寸翁(かわいすんのう)が刻ざませたもの」とその由来文が刻まれています。

 それにしても、ここから眺める「波のうねる風景(絶景)」が消えたのは遠い昔の話ではありません。

 いまは、工場とその煙突が海岸を埋めています。

 ちょっと寂しいね。

 *写真:観涛処(インターネットより)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(8)・肥 料  主 

2022-01-08 08:58:19 | 石の宝殿の謎

     石の宝殿の謎2部) 石の宝殿界隈を歩く(8)

         肥 料  

 全国には、「〇〇王」といわれる人は、たくさんおられます。

 謙虚さを尊ぶわが国では、これらの人々は、他人がそう呼んだのであり、自ら「〇〇王」と名乗ったのではありません。

 例外が加古川市にありました。多木久米次郎です。

 山陽電車の別府駅(加古川市別府町)の西の道を南にまっすぐに下り、別府川を渡って500mほど行けば港に出ます。

 その手前に多木の浜洋館(あかがね御殿)があります。

 あかがね御殿の横に「肥料」と刻んだ石碑があります。

 かつて、この石碑に堂々とした多木久米次郎の像がのっていました。

 もともとは、久米次郎は自分の像に「肥料王」と刻んでいました。

 時代は、戦前でした。

 天皇の時代に、周囲からいくらなんでも「マズカロウ」との声が上がりました。

 そこで、久米次郎は「王」の上に「チョン」を付け、「肥料主」とごまかしました。

 姑息なことを思いついたものです。

    玉垣に刻まれた「肥料主」 

 生石神社を訪ねたました。石の宝殿を囲む玉垣に「肥料主」(写真)の文字をみつけました。

 浮き石への入り口を左に行き、浮き石を巡る最初の玉垣です。

 彼は、よほど「肥料王」にこだわっていたようで、他のある場所(加古川市)の玉垣に「肥料王」の文字が残っているのを見つけました。

 *写真:玉垣に残る「肥料主」の文字(生石神社)

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(7)・竜山石で作られた「武蔵生誕の碑」

2022-01-07 10:25:45 | 石の宝殿の謎

 

石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(7) 

       竜山石で作られた「武蔵生誕の碑」

 米田神社の前に、日本一のでかい竜山石のモニュメントがりますので紹介しておきましょう。

 以下の記事は当時(平成2年)の神戸新聞よりの転載です。(一部省略しています)



 ・・・「武蔵誕生の地」のシンボルにと、宮本武蔵誕生説を唱える高砂市の武蔵・伊織顕彰会(松下石材店の松下歳和会長)が造った「生誕の碑」の設置作業が完了。

 (平成2年)6月3日に除幕式が行われる。

 碑の設置作業は同市米田町米田の武蔵の生家と言われる田原家の生家と言われる田原家の土地で進められた。

 碑は縦2.5㍍、幅7㍍、奥行き1.5㍍で、重さも100トンと石碑では「日本一」(同顕彰会)というスケールの大きさが特徴。

 市内の採石場で、宝殿石を用いて造られ4月下旬に設置場所へ運び込まれた。

 以来、重心の安定を図ったり、汚れを落として碑に磨きをかけたりと、懸命の作業が続けられた。

 武蔵は作州(岡山県)の生まれという説があるが、最近では、武蔵の「五輪書」や加古川・泊神社にある武蔵のおいの伊織の出生について書かれた棟札の記述、家系図などから高砂説の方が優勢。

 しかし、高砂市内には武蔵との結びつきをPRするものが乏しく、同顕彰会が「武蔵にふさわしい日本一の碑の建設を」と五年前から計画にかかっていた。

 設置場所は、田原家から申し出があった借地で、「宮本武蔵 伊織 生誕の碑」と刻まれた碑文も、武蔵が晩年仕えた熊本藩主の子孫・細川護貞さんが筆を執った。

 除幕式は(平成2年)6月3日の「第4回武蔵・伊織まつり」(神戸新聞社後援)のイベントの一つとして午前11時から行われる。

 場所は、JR宝殿駅から南0.8キロ。

 

 いま、「石の宝殿の謎」を連載中ですが、いつか「宮本武蔵 in 高砂(仮称)」で、再度、宮本武蔵についても報告したいですね。

 *写真:武蔵生誕の碑

 

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石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(6)・竜山石

2022-01-06 07:01:02 | 石の宝殿の謎

         石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(6)

     竜山石

 竜山周辺の山や丘陵の岩石は、竜山石と呼ばれており、この石は粒子が細かく、磨くとなめらかでスベスベになります。

 そのうえに加工と細工に適した硬さであるため、古くは古墳時代から石棺の材料として広く利用され、後には土木・建築用材として利用されてきました。

     竜山の凝灰岩は、「白亜紀」の火山灰の固まったもの  

 この岩石は、1億2000年前の白亜紀におきた噴火の灰が固まってできた岩です。

 これらの火山が形成された頃の多くの火山からのあいつぐ噴出はさぞや壮観であったことでしょう。

 あちらこちらの火山が爆発し、膨大な火山灰を放出し、溶岩を流し、放出された火山灰は水中で堆積してかたまり、凝灰岩になり地殻の変動におり隆起してできた岩です。

 しかし、今のところ、「そのような火山の噴出口がどこにあって、溶岩がどう流れたか」等について、ついては分かっていません。

  *『加古川市史(第一巻)』参照

  *写真(竜山石):インタ―ネット「高砂八景(竜山編)」(高砂市立図書館製作)より

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