ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

別府町をゆく(33) 瀧瓢水物語(25) 瀧瓢水、大坂に眠る

2022-10-31 09:10:52 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(33) 瀧瓢水物語(25) 瀧瓢水、大坂に眠る

  宝暦11年正月、瓢水の俳諧の師匠であった松木淡々(81歳)は、大坂で没しました。

 翌年の宝暦12年(1762)の春、瓢水は大坂に出かけ、そこで病気になり、師の後を追うかのように、5月17日波乱万丈の生涯を終えます。

 行年79歳。

 大阪市天王寺区生玉町の持明院に眠っています。

 墓碑は、門人筒井青瓦により建てられました。

 墓碑の銘を読んでおきましょう。

   (正面) 瓢水翁の墓

   (背面) 門人筒井青瓦建

   (側面) 宝暦十二午五月

   蜜印山持明院

 もう、8年がたちました。持明院へ出かけました。

 騒音の町も、涼しく、すっかり秋の一日でした。

 鶴橋駅で昼食をすませ、地下鉄に乗り換えて谷町九丁目駅で下車。

 そして、南へ少し歩くと、あたりに寺がたくさん集まっています。持明院は、地図を片手に行くと、すぐ見つかりました。

 持明院は、創建の頃は、生玉神社の生玉十坊の一つで現在の生玉神社内にあり、ずいぶん大きな規模を誇っていたようです。

 しかし、明治維新の廃仏毀釈のさいに、生玉神社を出て現在地に移転しました。その上に、戦災で焼け、その規模も小さくなり現在に至っています。

 瓢水の墓碑(写真)は、山門近くの境内にありすぐ見つけることができます。

 「瀧瓢物語」をお読みいただきありがとうございました。(完)

 *写真:瀧瓢水の墓碑(持明院・大阪市天王寺区生玉町)



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 別府町をゆく(32) 瀧瓢水物語(24) 瓢水の筆塚

2022-10-30 07:41:09 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(32) 瓢水物語(24) 瓢水の筆塚

 宝蔵寺(瀧家の菩提寺)境内に、瓢水の筆記用具の筆などの遺品を埋めた筆塚(写真)を子供の富春と俳句の門人・播陽が建立しています。

 場所は、本堂の西側です

 次の文字が刻まれています。

 <筆塚> 

    (右側面) 維時宝暦十二年壬午五月十五日 

    (正 面) 瀧瓢水翁自得居士筆塚

    (左側面)  

    (背 面) 銘はあるのですが摩滅して判読できません

  〈瓢水の位牌〉

 なお、寺には瓢水の位牌もあります。

   表 寛翁自得居士

     盛蓮栄照信女    (瓢水のこども・富春の継母)

   裏 宝暦十二年壬午五月十七日

 *(余話)なお、瓢水と関係はないのですが、筆塚の横に日本一古い大きなオリーブの木があります。

 オリーブの樹木といえば小豆島が有名ですが、宝蔵寺のオリーブは小豆島よりも20年数も早く植えられました。 

 *写真:宝蔵寺境内の瓢水の筆塚



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別府町をゆく(31)  瀧瓢水物語(23) 『近世畸人伝』より

2022-10-29 07:30:04 | 加古川市歴史探訪・別府町編

       別府町をゆく(31)  瀧瓢水物語(23) 『近世畸人伝』より

    (2) 小川に落ちた時の話

 近村の小川の橋を渡るとき、瓢水は足を踏みはずして、落ちてしまいました。

 近くにいた農夫は、瓢水が小川に落ちたことを知り、びっくりして助け上げようとして大騒ぎになりました。

 下を覗き込むと、腹が減っていたのか、彼は濡れながらも懐の餅を悠々と食べているのです。

 農民はあきれたといいます。

     蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな

 さらに、こんな話もあります。

 瓢水が60歳も半ばの頃でした。

 本宅が人手に渡ってしまって、別の家(別宅)に移り住んでいました。

 別宅とはいうものの、ちょっとした庭に蔵があります。

 そこには一面に牡丹の花が見事に咲いていました。

 見事な大輪の牡丹です。

 瓢水はそれ、それをぼんやり眺めていました。

 「この蔵も売れてしまったか・・・」と、つぶやくのでした。

 瓢水はあまり、それを気にする様子もありません。

 やがて、一句が出来上がりました。

     蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな

 瓢水には、上記のような話がいくつも伝えられています。

  *写真:牡丹の花



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別府町をゆく(30) 瀧瓢水物語(22) 藩主を残したままで(『近世畸人伝』より)

2022-10-28 09:01:11 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(30) 瀧瓢水物語(22) 

     藩主を残したままで(近世畸人伝より

 ある日、姫路藩主・酒井忠恭(さかいただずみ)が瓢水の風流を聞き、領地の巡覧の途中に瓢水の宅に籠を止め立ち寄ったことがありました。

 当日は、朝方雨が少し続いていたが、午後になるとすっかり晴れて、絶好の秋日和になりました。

 もちろん、前もって瓢水には藩主の訪問のことは伝えてありました。

 その日、忠恭一行は、加古川の泊りなので別府の瓢水の家に着いたのは遅く七つ時(五時頃)でした。

 忠恭は15万石の大名であり、かつては幕府の老中主席(現在の首相のような位)をつとめたこともありました。

 これほどの賓客を迎えるからには、いくら貧しくてもそれなりの礼儀というものが必要です。

 しかし、瓢水は特別なことはせず、いつも通りで、違うとすれば座布団が準備されている程度でした。

 忠恭の方が驚いたほどでした。

 瓢水は、背伸びしている様子もなく普段の調子で少しばかり俳諧について話をしました。

 秋の暮れは早く、すぐにあたりは暗くなります。

 瓢水には興が乗らず退屈になりました。

 しばらくして、瓢水は「厠に・・・」と告げ、そのままは藩主を置いたまま行方をくらましてしまったのです。

 その夜、瓢水は、ついに帰って来ませんでした。

 藩主は、カンカンになり姫路へ帰ったといいます。

 後日、瓢水が言うのには、その夜は月が殊に明るくて、須磨まで散歩したとのこと・・・

 『近世畸人伝』には、まず、こんな瓢水の奇行が紹介されています。

 蛇足です。もちろんこの話は事実ではありません。

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別府町をゆく(29) 瀧瓢水物語(21) 『続 近世畸人伝(二)』で瓢水を紹介

2022-10-27 06:51:44 | 加古川市歴史探訪・別府町編

   

   別府町をゆく(29) 瀧瓢水物語(21) 『続 近世畸人伝(二)』で瓢水を紹介

 『近世畸人伝(きんせいきじんでん)』は、近世の諸階層の特色ある人物百余名の伝記正続各5)です。

 その続編は、寛政10(1798) に刊行され、職業,貴賤を問わず、一芸一行にすぐれた者を奇として紹介しています。

 続編の(二)に、瀧瓢水を畸人(奇人の一人として取り上げています。

     『続 近世畸人伝』を読みましょう

 ・・・・(瓢水は)播磨加古郡別府村の人で、剃髪(仏門に入り)して自得といいました。

 瓢水は、俳諧に夢中になり、千石船艘も持っている富豪でしたが、遊蕩のため財産をすべて費やし、後に貧しい生活となってしまいました・・・・

 『近世畸人伝』には彼の数々のエピソードが紹介されています。

 『近世畸人伝』に描かれている瓢水は、本当の姿の紹介とは思えませ、瓢水といえば「奇人」とレッテルを張られ、広く知られていたようです。

 それでは、畸人伝に描かれた瓢水のエピソードを読むことにしましょう。 

*写真:『近世畸人伝 二』



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別府町をゆく(28) 瀧瓢水物語(20) 瓢水の妻の名前はヲトヨ

2022-10-26 08:55:42 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(28) 瀧瓢水物語(20) 瓢水の妻の名前はヲトヨ

  瓢水の奥さんについてあまり語られていません。知りたくなりました。 

      玉林寿光信女(ヲトヨの戒名)

 蔵寺に残る瀧家の過去帳に、わずかにその名前を知ることができます。

  (過去帳より)

   〇 玉林寿光信女 享保十三年戌申三月二十三日

            叶屋久次郎母

            西浜ニテ相果 ヲトヨ

 享保十三年(1728)瓢水45歳の時に妻・ヲトヨが亡くなっています。

 オトヨは、現在の高砂市北浜町西浜の藤家から嫁入りしています。

 そして、西浜で亡くなりました。

 妻・ヲトヨの死後年後に瓢水の母(参)が亡くなっています。

 母が亡くなったときは、母の死に目に間にあえず号泣して詫びています。

 さればと手 墓に布団も 着せられず

 これは、その時に詠んだ句です。 

 でも、オトヨについての特別な話は伝えられていません。

 ヲトヨと瓢水の生活は、幸せなものだったのでしょうか。

 ヲトヨは、瓢水の45歳時に亡くなっています。そして、何か事情があったのでしょうか。彼女は実家で息を引き取っています。

 *絵:ヲトヨのつもり(あるところで、稲美町のHさんが、ある女性の絵を描いてくださいました。少し寂しそうにも見える女性です。

 オトヨと関係ない絵ですが、ヲトヨのつもりで使わせていただきました) 

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別府町をゆく(27)  瀧瓢水物語(19) 瀧家寄進の手水鉢

2022-10-25 07:54:19 | 加古川市歴史探訪・別府町編

 

    別府町をゆく(27)  瀧瓢水物語(19) 瀧家寄進の手水鉢

 昔から、高砂市や加古川市の海岸は「松どころ」つまり、松の名所として知られていました。

 曾根の松・高砂の相生の松・尾上の松、それに別府の住吉神社の手枕の松(たまくらのまつ)等を見て歩く「播州めぐり」というハイキングコースもあり、「手枕の松」は、広く知られた松でした。

 江戸時代、松巡りの旅で、ここにたくさんの旅人もあったようです。

 茶店もありました。「(別府)住吉神社」を訪れた旅人は、茶店で一服し松を見学したといいます。

 どんな話をしたのでしょうか。

 心地よい潮風がありました。白い砂浜と松の風景が、はるかに続いていました。

      手水鉢の銘

 「手枕の松」のすぐ近くに、手水鉢(ちょうずばち)がありました。

 あまり古い話ではありません。不思議に思って、その手水鉢を探しました。

 ありました。社務所の裏に移動して、保存されています。

 この手水鉢は、瀧家の寄進による手水鉢です。

 銘は、次のようです。

   元禄八年

     奉寄進

      施主 瀧市良左衛門

        二月 吉日

 住吉神社へお参りの時は、この手水鉢も見学ください。

 *写真:瀧家寄進の手水鉢と手水鉢の銘

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別府町をゆく(26) 瀧瓢水物語(18) 瓢水、「手枕の松」と命名

2022-10-24 07:32:31 | 加古川市歴史探訪・別府町編

        別府町をゆく(26) 瀧瓢物語(18) 瓢水、「手枕の松(たまくらのまつ)」と命名

 江戸時代、手枕の松は、広く知られ、『播磨鑑(はりまかがみ)』にも「・・・この社(別府の神社のこと)に松の大木あり、一抱えばかりの太さに、地より一間ばかり上にて、横にこけたる長さ十間ばかり、枝繁茂して、年々青く茂りたり。 曽根の松に続き無双の霊松なり。 こけたる幹につか柱(支え棒)有り、廻りを石の垣にて隔つ・・」とあります。

 現在、手枕の松は、社殿に向かって左前にあるのですが、『播磨鑑』の挿絵を見ると、当時の手枕の松は社殿に向って右側にあったようです。

 この手枕の松は、ずいぶん昔からあったようで「一木(いちき)」と呼ばれ、このあたりの集落(別府村)も古くは「一木村」と呼ばれていました。

 室町時代の頃、村は別府村と呼ばれていたようです。

        瓢水、「手枕の松」と命名

 この霊松に「手枕の松」と命名したのは、(瀧)瓢水です。

 住吉神社には、前号でも紹介した「住吉太明神」の瓢水自筆の扁額があります。

 瀧家は、瓢水の代に衰えますが、住吉神社から歩いて西へ五分のところにあり、別府を代表する豪商でした。

 瀧家は、住吉神社にも大きな影響力をもっていました。

 そんな事情もあり、瓢水の「手枕の松」と名づける希望もかなえられたのでしょう。

 *写真:手枕の松(別府住吉神社)

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別府町をゆく(25) 瀧瓢水物語(17) 瓢水(瀧有恒)自筆の扁額

2022-10-23 06:16:52 | 加古川市歴史探訪・別府町編

         別府町をゆく(25) 瀧瓢水物語(17) 瓢水(瀧有恒自筆の扁額

 写真扁額を見に出かけました。

 浜の「あかがね御殿」の西にある住吉神社の社務所に掛けられています。

 以前扁額は、神社の拝殿に掛けられていたのですが、潮風の痛みを防ぐために社務所の玄関に移されています。

 この扁額は、瀧瓢水の筆によるもので雄渾な字体で書かれています。

 銘は、「瀧有恒書」とあります。

 瓢水は、富治斎(ふしゅんさい)・野橋斎(やぎょうさい)・一鷹舎(いちようしゃ)とも号し、剃髪してからは自得(じとく)と称していました。

 瀧有恒(たきありつね)は、彼の本名です。

 瓢水の家は、住吉神社の西、およそ300メートルの場所で、ここへはよく足をはこんだと想像します。

 ここから海の向こうに淡路島が横たわり、はるか右手に家島が、さらにその向こうに小豆島を見眺めることができました。

  *写真:住吉神社の瓢水(瀧有恒自筆の扁額



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別府町をゆく(24) 瀧瓢水物語(16) 手に取るな やはり野に置け 蓮華草

2022-10-22 08:22:10 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(24) 瀧瓢水物語(16) 

      手に取るな やはり野に置け 蓮華草

 

 この瓢水の句は、余分な解説は不要でしょう。少しだけ、蛇足を加えさせてください。

 写真の蓮華畑を見ながら、鑑賞ください。

    “やはり野に置け蓮華草・・・・”

 蓮華草は、野に群がって咲くから美しく見えるのであって、それを摘んで家の中に飾ってもあまりきれいではありません。

 このことから、大坂の俳諧仲間が遊女の身請相談にやってきたとき、彼に「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」の句をおくってたしなめたといいます。
 この句は、自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じように、遊女は色町にいてこそ美しく見えるということなんですね。



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別府町をゆく(23) 瀧瓢水物語(15) さてはあの 月が鳴いたか 時鳥(ほととぎす)

2022-10-21 07:49:25 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    別府町をゆく(23) 瀧瓢水物語(15) 

      さてはあの 月が鳴いたか 時鳥(ほととぎす)



 瓢水は、俳諧の名手としてその名は京都にも聞こえていました。

 ある時、御所へ招かれて,天皇より後徳大寺(藤原実定。定家のいとこ・歌人)の「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただありあけの月ぞ残れる」(百人一首で知られる)を俳諧に直せるかといわれ、即座に

    さてはあの 月が鳴いたか 時鳥(ほととぎす)

 と詠み、周りを絶句させました。

 天皇は、大いに喜ばれました。

 瓢水のエピソードは続きます。

 美味しかったのでしょう。

 瓢水は、ご馳走になり帰るとき、感想を

    けし炭も 柚味噌につきて 膳の上

 の句を膳の上に書き残こして去ったといいます。

 それがまた、御所の人々を唸らせたといいます。

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別府町をゆく(22)  瀧瓢水物語(14) 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

2022-10-20 06:34:42 | 加古川市歴史探訪・別府町編

     別府町をゆく(22) 瀧瓢水物語(14) 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

  瀧瓢水物語(1)で紹介した句ですがもう一度紹介しておきましょう。

 瓢水が、ある年の暮れ、風邪をひき籠っていたことがありました。

 ちょうどその時でした。

 一人の雲水(うんすい)が瓢水の噂を慕ってその葦屋に訪れました。

 あいにく、薬を取りに行くところだったので、「しばらく待っていてくだされ・・・・」と言い残して待たせておいて、一走り薬屋へ薬を取りに行きました。

 後に残された雲水は、「瓢水は生命の惜しくない人間と聞いていたが、案外な男だった・・・」と言い捨てて、そのまま立ち去っていきました。

 帰ってこの話を近所の人から聞いた瓢水は「(雲水は)まだそんなに遠くはゆくまい、どうかこれを渡してくだされ」と言って、一枚の短冊にさらさらと書いたのは、「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」の一句でした。

 (*生命は、固執するものではないが、最後まで大切にすべきものである)

 これを受け取った雲水は、非常にわが身の浅慮を後悔し、再び瓢水翁を訪れ一晩中語り明かしたといいます。

 この瓢水の句碑(写真)が、平成5年11月3日に宝蔵寺(瓢水の菩提寺)の境内に建てられました。 

 *『瓢水』(瀧瓢水句碑建設記念誌編集委員会)参照 

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別府町をゆく(21) 瀧瓢水物語(13) 本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉かな

2022-10-19 07:34:16 | 加古川市歴史探訪・別府町編

  別府をゆく(21) 瀧瓢水物語(13) 本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉かな

 瓢水のよく知られた句を23紹介しておきましょう。

 山陽電車板宿駅でおりて、商店街を通り抜け、滝川高等学校前を少し北へ少し歩き、西に折れて、妙法寺川に沿って道を約1km歩ほど北へ行くと、川むこうの高取山のふもとに禅昌寺が見えてきます。

 板宿の駅から山門までの道は、わずか1キロの距離でしたが、緩やかな上り勾配のためかしんどかったですね。

  禅昌寺は延文年間(13561361)に創建された寺と伝えられ、臨済宗南禅寺派の立派な寺で、本尊は十一面観音菩薩です。

 創建当時は「紅葉」が多く近隣の村人は「もみじの寺」と知られていたようですが、現在は、鐘楼前の竹やぶのあたりにわずかにみられるだけで、あまり目立ってはいません。

 この寺を瓢水が訪れ、その風情を次のように詠んでいます。

    本尊は 釈迦か 阿弥陀か 紅葉かな

 楽しい句ですね。この句碑が禅昌寺本堂の北西隅にあります。

 瓢水が訪れたときは、見事な紅葉の季節だったのでしょう。

 帰りは、緩やかな下り坂、腰痛もあまりなく、ルンルン気分で散歩を楽しみました。

 瓢水の頃は、このあたりから海の風景が楽しめたのでしょう。

 駅前で食事をとりました。ビール(金麦)は最高でしたよ。

 *写真:禅昌寺(神戸市須磨区)の庫裏



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別府町をゆく(20) 瀧瓢水物語(12) 仲春の供養の灯籠

2022-10-18 08:21:02 | 加古川市歴史探訪・別府町編

    

   別府町をゆく(20) 瀧瓢水物語(12) 仲春の供養の灯籠

 瓢水の父・仲春(新右衛門)の供養の碑を訪ねます。

 山電・別府駅の西の道を南へ真っ直ぐ行くと、別府川に突き当たります。

 そのあたりに、名刹・宝蔵寺(真言宗)があります。瀧家の菩提寺です。

 瓢水の父の亡くなったのは、元禄四年(1691)で瓢水8才の時でした。

 宝蔵寺の本堂の正面に写真のように二基の石燈籠があります。

 その石燈籠には、「元禄四年(1691)季辛未九月廿九日亥時」の紀年銘と「阿弥陀三尊を表す梵字」の下に「覚元浄法信士」とあります。

 紀年は、瓢水の父・仲春の没年時刻を記しています。

  (*亥時:午後9時~11時の間)

 新右衛門(仲春)の死後、妻・参ら親類一統で、仲春の菩提を弔うために寄進した石灯籠です。

 それにしても、本堂の正面に堂々とした二基の燈籠です。

 なみの檀家ではこうはいきません。

 宝蔵寺と瀧家は、よほど深い関係があったのでしょう。

 当時、瀧家は別府の豪商で、宝蔵寺の大スポンサーでした。

 瀧家の賑わいが伝わってきそうです。

 *写真:上、宝蔵寺本堂前の瓢水父(仲春)の二基の灯籠

 

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別府町をゆく(19) 瀧瓢水物語(11) 瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(4)「風樹の嘆」(ふうじゅのたん) ◇

2022-10-17 09:32:07 | 加古川市歴史探訪・別府町編
 
 
  ◇別府町をゆく(19) 瀧瓢水物語(11) 瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標(4) 「風樹の嘆」(ふうじゅのたん) ◇
 
 「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉をご存知でしょうか。
 私も、「さればとて 石に蒲団も きせられず」の瓢水の句を調べていて初めて知った言葉です。
 広辞苑では,「孝養をしようと思い立った時にはすでに親が死んでいて孝養をつくしえない嘆き」とあります。
 瓢水は、自分の「風樹の嘆」を句にしています。
 前漢の韓嬰(かんえい)の著で、「詩経」の解説書の外伝に、次のような物語があるそうです。
 さすが瓢水です。かれの教養の中のこの物語が、母の死に際して句にしたのでしょう。
 次の「風樹の嘆」の話はHPからの引用です。少し文章を変えて紹介させていただきます。
 
     風樹の嘆
 
 今から二千五百年前のことです。
 孔子が斉の国へ向かっていた時、前の方から、大きな泣き声が聞こえてきました。
 大層悲しそうでした。
 馬車をはやめると、号泣している男を発見しました。
 孔子は、彼に尋ねました。「あなたは、どなたですか」
 「丘吾子(きゅうごし)という者です」
 「なぜ、そんなに泣くのですか」
 「私は、大変な過ちを犯したのです。晩年になって気がついて後悔しましたが、今さらどうにもなりません」
 「どんな過ちか、聞かせていただけませんか」
 「若いころから、私は、学問が好きで、諸国を巡っておりました。
 ある日、学問の道にはキリがないので、これくらいで郷里へ帰ろうと思いました。年老いた父母のことが心配になってきたのです。
 しかし、家へ戻ってみると、両親は、すでに亡くなっておりました。
 子供が親を養おうと思っても、親はその時までは待っていてはくれません。
 過ぎた歳月は、二度と帰ってこないのです。
 二度と会うことができないのは親です」
 ここまで言って、男は、水中に身を投げて死んでしまいました。
 孔子は、「これは一人一人が教訓としなければならない大切なことだ」と弟子たちに諭しました。
  *写真:母の墓標(写真右の傘塔婆)と父の墓標(写真左の傘塔婆)


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