ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

野口町をゆく(63) 野口と戦争(6) 攻撃の目標は、高射砲隊?

2022-07-31 06:56:17 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(63) 野口と戦争(6) 攻撃の目標は、高射砲隊?

 戦争も終わりの頃です。神戸・明石は大規模な空襲を受けました。

 そして、7日(昭和20)、姫路が空襲を受け、加古川町も空襲が近いとの流説が飛び交い、疎開が続出しました。

 ついに、23日にグラマン戦闘機が加古川駅を機銃掃射しました。

 続いて、翌24日アメリカ機三機が、門口(加古川町)に爆弾を投下し、加古川駅に停車中の急行列車を銃撃し、死者1名、負傷者名の犠牲者がでました。 しかし、実際の被害はさらに大きかったようです。

 写真は、水足の集落の中心部にある歌碑です。注意してご覧ください。上部が小さく欠けています。

 この欠けた部分は、昭和2030日、連合軍の戦闘機が加古川地域を機銃掃射した時、弾丸が当たり欠けたものです。

 この日の加古川小学校の沿革誌には、「加古川町に第二回目の米機の来襲あり被害軽微」と記していますが、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾十数個が落下し、死者名・負傷者数名がでたと記録しています。

 ともかく、加古川は神戸・明石・姫路等に比べ、幸いにも大規模な空襲を免れることができました。

 *写真:(加古川市野口町水足)の米谷十三郎の歌碑。

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野口町をゆく(62) 野口と戦争(5) 高射砲隊の門(ハリマ化成の門)

2022-07-30 07:51:57 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(62) 野口と戦争(5) 高射砲隊の門(ハリマ化成の門

 二枚の写真をご覧下さい

 播磨化成(野口町水足)の正門()裏門(西)です

 これらの門は高射砲隊の門です

 今回は特に説明がありません「野口町をゆく(59) 野口の戦争(1) 高射砲隊」の付録としてご覧ください

 現在戦争遺跡がドンドン失われています播磨化成この高射砲隊の門を戦争の遺跡として保存されるそうです

 写真:上=播磨化成(野口町水足)の正門()下=裏門(西)

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野口町をゆく(61) 野口と戦争(4) 高射砲道

2022-07-29 09:08:27 | 加古川市歴史探訪・野口町編

         野口町をゆく(61) 野口と戦争(4) 高射砲道

 復習をしておきます昭和12・1年頃、水足に高射砲隊が創設され、同じ頃尾上に加古川飛行場が、そして今の加古川刑務所の場所に神野弾薬庫が建設されたました。

 加古川駅と神野弾薬庫は水足経由で鉄道で結ばれました

 水足の高射砲隊と尾上の(陸軍)加古川飛行場は道路でつながりました

 その道は現在「播磨化成」の西をまっすぐ南へ伸びる道です浜国道をこえて、飛行場につながりました

 いまでも年配の方はこの道を「高射砲道」と呼んでいます

 現在この道は「県道野口尾上線(386号線)」で海岸部と中部を結ぶ重要な産業道路としての役割を果しています

 加古川は「小軍都化」でした。「もし」戦争がもう少し長引いていたら加古川も大規模な空襲を経験することになっていたことでしょう

 *写真:旧高射砲道路(現・県道野口尾上線386号線=洋服の青山の横を南北に走る道、手前の東西の道は、国道2号線

 



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野口町をゆく(60) 野口と戦争(3) 幻の鉄道  

2022-07-28 07:10:27 | 加古川市歴史探訪・野口町編

       野口町をゆく(60) 野口と戦争() 幻の鉄道

 地図で、不思議な鉄道を探してください。

 加古川駅から溝ノ口(加古川町)を通り東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えている鉄道です。

 地図は、昭和25年のものです。

 この鉄道について、水足の方に聞いてみました。

 「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりませんでした。

 以前に小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いたことがあります。

 「・・・日岡山にある加古川刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。

 もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を“尾上飛行場(加古川飛行場)”建設に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれると大変だったのでしょう。憲兵や秘密の警察による警戒が厳しくてね・・・」

(小林さんに聞き取りをしたのは1994年)

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野口町をゆく(59) 野口と戦争(2) 高射砲隊炎上 

2022-07-27 08:35:52 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

         野口町をゆく(59) 野口と戦争(2) 高射砲隊炎上 

 写真は播磨化成(野口町水足)の西を流れる新井用水にかかる橋「くれんばし」と「聯隊橋」です

 現在は播磨化成陵南中学校のある場所に戦前は陸軍の高射砲隊が置かれておりこれらの橋の名前は当時の高射砲隊から名づけられました

 この高射砲隊の火事について『水足史誌』(水足史誌編纂委員会)から引用します



 「・・・(昭和17427日)当日は部隊への応召による入営式がありその者らを集めて担当将校が何か訓示を与えていたところ入隊者の一人が「教官殿兵舎が燃えています」と指した

 ・・・兵舎の猛火は猛り狂い火の粉は特に屋根瓦下に敷かれた黒く厚い紙ルーフィングが赤い熱火となって2~300mも離れた水足の民家に飛び散り藁屋根に落下すると吹きつける風にあおられて瞬く間に屋根が燃え上がる

 当時40軒ばかりあった藁葺きの家は次々と燃え盛っていた・・・」



 (高射砲隊は)軽油庫、弾薬庫、砲車庫等を残し2階建ての連隊部棟2階建ての兵舎2棟、その他ほとんどを全焼しました

 これ程の大事件も軍の機密保持のため翌28日の新聞には、営舎火事は一切発表されませんでした

  

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野口町をゆく(58) 野口と戦争(1) 高射砲隊

2022-07-26 08:37:09 | 加古川市歴史探訪・野口町編

              野口町をゆく(58) 野口と戦争(1) 高射砲隊

 昭和11年のことでした

 水足(加古川市野口町)に高射砲隊の施設が、設置することに決定しました。村人にとっては寝耳に水でした

 しかし住民の意見などが認められる時代ではありません。

 相手はなく子も黙る陸軍です。

 形ばかりの話し合いがもたれましたこの場では、地元から水足村に決まった説明を求めました。主な理由は、次の3点でした

  (1)既に活動している尾上飛行場との距離が近い

  (2)工事が行いやすく、国道に近い

  (3)土地の買収が一つの村で好都合である

 土地の買い上げについては、軍も村の実情をくみとったのか若干高く買い上げています

 しかしこれは地主に対しての配慮であり小作には何の保障もありませんでした

 水足経由で加古川駅と神野倉庫(弾薬庫:今の加古川刑務所はその跡地)とを結ぶ鉄道も敷設され村人も利用できるとのことでしたがその事実はありませんでした

 注:高射砲隊が設置された場所に、現在、播磨化成・陵南中学校・大規模スーパーマーケットとなっています

 *『水足史誌』参照、写真は『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

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だらけきっています

2022-07-25 17:10:24 | できごと

 

       だらけきっています

 退院して3日目、でも気分はまだ入院中。

 明日で手術から1週間目。ぼちぼち声を出してよいようです。

 きょうも、まだ外出もしていません。

 6時を過ぎたら、少し散歩をすることにします。

 気分も体も写真のようにだらけていますから。

 娘が写真を撮ったらしい・・・・

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野口町をゆく(57) みごとなマリーゴールド

2022-07-25 07:55:52 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

       野口町をゆく(57) みごとなマリーゴールド

 きのう、ハリマ化成(野口)の近くへ出かけました。 

 710日の神戸新聞(東播版)で紹介されていたマリーゴールがきれいでした転載させていただきます

 なお「野口をゆく(歴史編)は、明日から再開します



 ハリマ化成加古川製造所(兵庫県加古川市野口町水足)北側の歩道沿いの敷地でマリーゴールドが見頃を迎えている

 鮮やかなオレンジ色の花が咲き誇り、通りかかった人たちが足を止めて眺めている

 マリーゴールドはキク科の一年草(一部品種を除く)

 同社は近隣住民らに楽しんでもらおうと約1900平方メートルの所有地に花畑を整備し2019年から毎年マリーゴールドを植えている

 5月12日に種をまき社員が草引きや水やりなどの世話をしてきた

 花が枯れても次々と別の花をつけるので11月ごろまで楽しめるという

 記事:神戸新聞より(写真:724日撮影)

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人生90歳

2022-07-24 06:51:34 | できごと

            人生90歳

 入院中はとにかく退屈でした。

 週刊誌新聞を読むぐらいの生活です。夜は10時の消灯です昼間運動をしてないせいで、疲れていません

 なかなか寝つけません長い長い夜になりました

 こんな時は、つまらない事を考えます



 今79もうすぐ80

 医者に言われました「この癌が悪性だったら再発するかもしれませんこの度の手術で光を当てたので次回の手術では光は使えませんその時は声帯の切除か薬での治療になります」と脅かされました

 考えてみれば、5年後に再発してもその時は、85歳。その時は体はともかく頭の方はお花畑状態の入り口になるでしょうね。 

 ですから8085歳の間に「生きていた証」を残しておきたいですね。頑張らなくっちゃ。

 そんな状態が5年ほど続けば90歳です

 90歳になれば多分この世ともお別れです。私の家系90歳まで長生きした者はいません

 人生設計ができました

 *写真:前回のカードの裏の孫からのメッセージ



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入院してしまいました

2022-07-23 10:52:39 | できごと

     入院してしまいました

 ブログとFBをとつぜんお休みとました。というのは、入院してしましました。

 声がやたらかすれて、だみ声になっていました。

 これも、歳のせいかなとあきらめていたんです。

 娘が「病院でみてもらっては・・・」というので近所の病院へいったら、加古川市民病院を紹介されました。市民病院へ行くと今度は明石のガンセンターを紹介されたんです。

 「ヒョットシテ癌では・・・」との不吉な予感です。

 ガンセンターでも、はっきりしませんが癌の可能性を指摘されました。

 とにかく、声帯の付近に嫌なものが映っています。「開いてみなければ分かりませんが手術が必要です」と宣告され、19日(火)手術になりました。開いた結果やはり癌でした。

 幸い手術は成功したのですが、しばらく声を出すことを禁止されました。

 昨日、退院したのですが、自宅で火曜日ごろまで「発声禁止」です。おとなしくしておきます。



 手術の前日、孫からカードとメッセージが届きました。嬉しかったね。

 *写真:カードの表



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野口町をゆく(56) 西国街道(8) 野口神社と野口廃寺

2022-07-14 08:20:45 | 加古川市歴史探訪・野口町編

       野口町をゆく(56) 西国街道(8) 野口神社と野口廃寺

 明治初期に「五社宮(ごしやのみや)」は、野口神社と改称されましたが地元では今でも「五社宮」と呼ぶ人が多くおられます

 野口神社は、五柱の主神を祭っています。その五柱の神々は、速玉男命(はやたまおのみこと)・品陀別命(ほんだわけのみこと)・大山昨命(おおやまぐひのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)の五柱です

 氏子は、水足・坂元・北野・北野新田(以上野口町)・新在家・西谷・高畑・土山(以上平岡町)・和田(稲美町)の11町内会です

 以上のように、この五柱を祭る「五社宮」の氏子は、平岡町・稲美町にも広がっているます

 これは、昔、印南野台地の開拓に当たった野口の農民の開拓の歴史を物語るものでしょう

         野口廃寺(白鳳時代)

 野口廃寺(白鳳時代・645710)跡についても付け加えておきましょう

 野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明しています(文章を若干変えています)

 「・・・古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています

 野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした

 いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません

 ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する」と説明しています

           日岡豪族は、野口に氏寺を築いたのか?

 日岡山には多くの古墳があるが、これは豪族の墓地であり、彼らの住居跡ではありません

 古墳時代、溝口(加古川市加古川町)が、彼らの居住地と考えられています

 しかし、溝口あたりは欠点が一つあります。水に弱い低地にあるということです

 「彼らは、水害のない野口(野口神社のある場所)に、氏寺を建てた」と想像したいのですが・・・・

 写真:野口神社

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野口町をゆく(55) 西国街道(7)  後醍醐天皇、加古川を行く

2022-07-13 07:19:46 | 加古川市歴史探訪・野口町編

    野口町をゆく(55) 西国街道(7) 後醍醐天皇、加古川を行く

 正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制は大いに乱れました。

 先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。

 この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。

 しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。

 元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。

 俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。

 そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。

 京都を出発した天皇一行は、712日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。流罪地(隠岐の島)への旅でした。

 加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。

 その時のようすが「増鏡(ますかがみ)」にあります。

 残念なことに、後醍醐天皇一行は確かに教信寺の前の道を通り加古川の町で宿をとっているのですが、野口を通過した時の記録は残していません。

 少し残念です。

 <増鏡大約>

 12日、後醍醐天皇が加古川の宿に着いたとき、讃岐(四国)に流される子どもの宗良(むねなが)が少し遅れて加古川の東の野口に着きました。

 後醍醐天皇は宗良に会いたかったのですが、警護の武士は、それを許しませんでした。その夜は、後醍醐天皇はもんもんと一夜を過ごしました。

 *写真:後醍醐天皇の流罪の道(教信寺の前の道)

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野口町をゆく(54) 西国街道(6) 古代山陽道にバイパスはあったか?◇

2022-07-12 07:57:04 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町をゆく(54) 西国街道(6) 古代山陽道にバイパスはあったか?◇ 

「野口町をゆく(11)」で、古代山陽道を説明した最後に、「・・・奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨られ、多くの場合、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・橋というコースをとっています・・・」と言う山陽道のバイパス説を紹介しました。

 なにせ、加古川は古代から、暴れ川で洪水に悩まされた地域でした。そのため、野口まできた旅人は、先を急ぐ旅を邪魔されたことも、しばしばだったことでしょう。

 そのため、「図のように、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとった・・・」と想像されるのです。

 もちろん、西から加古川を渡る旅人も同じです。

 でも、この歴史は史料により実証されていません。



 今、西国街道(旧山陽道)を歩いています。

 野口小学校辺りから北へ折れて旅した古代の人々の記録はありません。

 でも、私は図のように「古代においては、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとった旅人も多かった」とする説を信じたいですね。自然な感じがします。

 あなたは、どう思われますか・・・

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野口町をゆく(53) 西国街道(5)  かわいそうな道標

2022-07-11 06:09:52 | 加古川市歴史探訪・野口町編

             野口をゆく(53) 西国街道(5)  かわいそうな道標

 この道標については、2006617日のブログでも紹介しました。

 その時は、「草が生い茂ると見えなくなってしまいそうな道標である・・・」と書いています。

 先日、写真を撮りに行くと、コンクリートに埋まりながらも残っていました。

 いとおし姿の道標です。

          道標から南への道は鶴林寺・浜街道へ

 野口町の旧西国街道沿いの小さな道標の前にいます。洋服の店「はるやま」の裏あたりです。

 近所の人もほとんど知られていない道標です。

 小学生・中学生の通学路にもなっていますが、この壊れかけの道標を気にとめる人は誰もいないようです。

 コンクリートから、ちょこんと顔を出したような道標です。壊れかけた道標ですから、当然かもしれません。

 この場所は、西国街道に面しています。

 南の海岸部にも、比較的大きな街道がありました。「浜街道」です。

 浜街道は別府・尾上・高砂・曾根そして姫路へと通じ、東は明石に至る道です。

 西国街道は、所々で浜街道と結ばれていました。この道標の文字は「□田山尾上」と読めます。欠けている□には「刀」の文字が入ります。

 刀田山(とたさん)とは鶴林寺のことで、道標は、ここから南に行けば鶴林寺・尾上へと通じて、浜街道に続くことを教えています。

 今では、何の変哲もない村中の小さな道ですが、この道標から南への道は重要な役割をになった道でした。

 鶴林寺への途中に大きな造り酒屋さんがあります。この道は賑わいのある道だったのですね。

 誇らしい役割を担ってきた道標です。満身創痍の道標です。でも、末永く歴史をとどめてほしいですね。この道標は、れっきとした歴史の証人です。

 

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野口町を行く(52) 西国街道(4) 和泉式部の墓 

2022-07-10 07:27:14 | 加古川市歴史探訪・野口町編

    野口町を行く(52) 西国街道(4) 和泉式部の墓  

 次の百人一首を声に出して、お詠みください。

 和泉式部の詠んだ歌です。

 

     あらざらむ この世のほかの思ひ出に

         いまひとたびの あふこともがな

 

  (訳)

 生きてはいないかも知れない。死後のあの世での思い出のために、もう一度、あなたにおあいしたいものです。

 この時代(平安時代)に、こんなにも自分の気持をそのままに表現した歌人は他にはありません。

 彼女は病床にありました。

 病気にいためられた心と肉体でありながら、この多情な歌人の歌は現代人の心にも迫るものがあります。

 彼女は多情な人、軽薄な人といろいろ悪口を言われてきました。

 しかし、紫式都、清少納言とならんで平安時代の代表的な文学者です。

 彼女は平安中期10世紀から11世紀にかけての歌人ですが、生まれた年、また没した年は分かっておりません。

 彼女の代表作『和泉式部日記』が書かれたのは、寛弘元年(1004)で恋愛生活の歌を中心に書きつづっています。

 当時、式部は20才前後であったと思われます。

 旧山陽道筋(教信寺の前を走っている道)に沿って坂元の北側の宝篋印塔(ほうきよういんとう)が和泉式部の墓だと伝えられています。

 これは、地元としては楽しい話なのです。が、彼女の墓は全国各地に多く存在しています。坂元の墓がそれだという確かな証拠はありません。

 また、彼女がこの地を訪れたことがあるかもわかっていません。

夢を壊したようで申し訳ありません。

 *写真:和泉式部の墓だと伝えられている宝篋印塔(野口町坂元)

 

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