平荘町・上荘町をゆく(16) 国包(4) 湯乃山街道
聖武天皇の時代、一時衰えていた温泉を行基が復興して以来、有馬温泉は有名になり、都からはるばる貴族たちも入湯に来るようになりました。
湯乃山街道は、湯治客ばかりでなく一般の旅人も盛んに利用した道でした。
南北朝の時代には、播磨と西摂津を制圧した赤松氏がこの道を重要視し、有馬、生瀬(なまぜ)などに役所を設けて京都への軍用路として整備します。
さらに、天正八年(1580)に別所氏の三木城攻めに成功した豊臣秀吉が有馬温泉を愛し、淡河(おうご)や生瀬に宿場を設けて有馬への道を整備するにおよんで、有馬温泉はますます栄え、それとともに往来する湯治客や旅人も多くなって、やがて湯乃山(ゆのやま)街道と呼ぶようになりました。
有馬千軒
その間、有馬温泉は、承徳元年(1097)の山津波で潰れたり、文禄五年(1596)の大地震で壊滅したりしますが、そのつど復活し、文化・文政期(1804~29)には「有馬千軒」といわれるほどに繁盛するようになりました。
承徳元年の山津波で潰れ、百年余りもさびれていた有馬温泉を復興させたのは仁西(にんさい)でした。
現在でも有馬温泉に「~坊」と名のつく旅館が多いのは、仁西が薬師如来を守る十二神将になぞらえて十二の坊社を建てたのが始まりだと伝えられています。
上荘・平荘は湯の湯乃山街道沿いの集落
湯乃山街道は、京都から有馬・三木そして加古川へ、そこで加古川を渡り、西井ノ口・都染(つそめ)・薬栗(くすくり)・山角(やまかど)の各村を、それから志方町・姫路へと湯乃山街道は通じます。
上荘・平荘の村々は、基本的に湯乃山街道沿いに発達集落で、湯乃山街道を人々は行き交かい、物資や情報が動きました。
この街道沿いに、三木城・志方城、そして名刹・報恩寺(現:平荘町)があるのも頷けます。
兵(つわもの)の道
信長・秀吉の時代、東播磨の各地の城主の多くは、三木・別所氏の支配下でした。
三木合戦では、街道沿いの村々は、兵(つわもの)の喧騒で満ちました。
古代から上荘・平荘の村々は、鄙の村ではなかったのです。
*写真:加古川川東の土手の手前の湯乃山街道。電柱の上荘町の文字に注目ください。国包は上荘町です。八幡町ではありません。