ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(15) 国包(3) 国包の夜

2024-03-31 08:10:58 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

  

    平荘町・上荘町をゆく(15) 国包(3) 国包の夜


 川筋の最大の難所は国包(くにかね)のすぐ上手にありました。
 美嚢川(みのがわ)が加古川と合流し、国包の北あたりは、全体が岩盤でミオ(水路)らしいものがありませんでした。
 これは、またオヤジ(船頭)の腕の見せどころでした。
 ここをすぎると、大きな難所は少なく、高砂までは帆走ができ、天気のよい日には鼻歌も出たといいます。
 やがて、高砂につきました。

 帰りは、帰りの荷物を積み、オヤジ(船頭)は荷の受け渡しのために居残のこり、中乗りと艫のりは、国包でオヤジ(船頭)を待ちました。
 オヤジは、国包までは陸路を帰ります。
 その日は、国包での泊がほとんどでした。
 そんな時、オヤジは秋ごろは、イワシかサイラ。冬は、ナゴヤ(小形のふぐ)買ってきました。
 すこしばかりの酒とナゴヤの臓物を抜き、野菜を加えての鍋はこたえられませんでした。
 国包の夜は、苦しい労働を忘れる楽しみがありました。


(注)加古川は、農業用水の水源でもあったため、田畑に水を必要とする期間は加古川の各所に堰がつくられ、高瀬舟の運行はできませんでした。
 高瀬舟の運行は、9月の彼岸から翌年5月の八十八夜までと限られていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(14) 国包(2) 国包の河岸(1)

2024-03-30 08:25:19 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

      平荘町・上荘町をゆく(14) 国包(2) 国包の河岸(1)


 河岸(かし)は、河舟の港のことです。
 河岸には船持・問屋・船乗りが居住し、また近隣の村々の生活物資購入の場所として町場を形成していました。
 河岸として栄えた国包村(くにかねむら)の元文二年(1737)の集落構成は、次のようでした。
  家数:125軒(うち百姓、74軒 水呑、50軒・・・計算違いか)
  人数:670人
  大工4、桶屋2、医師3、木挽1、材木屋3、陸塩売4、旅籠屋5、河船宿6、殺生(川漁師)6、蚕種商2(村明細帳より)
 戸数に比して水呑が多ようですが、これは行商や小商いを含んでいるのでしょう。
 また、宗佐(現:加古川市八幡町)は、国包の土地を借りて河岸を開いて、宗佐や周辺の米などを運んでいまし。
 国包の河岸(かし)は、湯山街道との交差点でもあり、物流の一集散地で町場の性格を持っていました。湯山街道については後日説明します。
 *絵:「国包浜実況図」(国包畑家所蔵)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(13) 国包は上荘町

2024-03-29 07:09:25 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

           平荘町・上荘町をゆく(13) 国包は上荘町


 シリーズ「平荘町・上荘町をゆく」ですが、上荘町について触れていません。しばらく上荘町を歩くことにします。

 図は、「元禄播磨図会(部分)読解図」から、さらに現代の八幡町付近を残したものです。
 郡堺が描かれています。
 国包(くにかね)に注目してください。
 国包は、加古川東岸にありますが、八幡町ではありません。不思議なことに加古川市上荘町に属しています。
 その昔、郡堺が決められた時、「ここを加古川が流れ、印南郡と加古郡の堺にしたのではないか」と考えられます。
 記録によると、むかし国包は元加古川の西岸の村でした。
 村が移動したのではありません。
 嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲いました。そのため国包村は流され、あとは一面の河原となってしまいました。
 この洪水で、村の一部は川西へ移っています。
 古代より、加古川は暴れ川であり、嘉禄元年以前も、以後も加古川はしばしば流路を変えています。
  そのため、『風土記』の時代(奈良時代)と嘉禄元年(鎌倉時代)の以前の村と現在の風景は同じではなく、古代の加古川の流れは、国包・八幡地区あたりで、大きく湾曲していようです。
 (蛇足)
 『風土記』の時代(奈良時代)、八幡地区は望理里(まがりのさと)と呼ばれていました。
 つまり、郡堺が語るように美嚢川と加古川が交わるあたりから加古川の流路は、大きく湾曲して流れていました。
 望理里(まがりのさと)は、湾曲した加古川に沿った村々でした。
 国包には、洪水の時の避難所である築山(つきやま)が、今でも残っています。
 築山については、後日予定をしている「八幡町をゆく」で取り上げます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(12) 権現ダム(5) 中山1号墳

2024-03-28 07:48:53 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

             平荘町・上荘町をゆく(12) 権現ダム(5) 中山1号墳 
 
 加古川市文化センターの歴史博物館へお出かけください。
 展示室の中央に大きな古墳があります。
 「精巧に造られているな・・・」と思われるかもしれません。
 これはデプリカ(模型)ではなく、本物の古墳です。
 中山1号墳は、加古川市平荘町中山にありましたが、権現ダムで水没したため、現在横穴式石室が加古川総合文化センター博物館の中に移築された全長12m、玄室幅約2m、高さ約2.5mの両袖式の古墳です。
〈注:両袖式の古墳〉
 日本の古墳の一種であり、主に古墳時代後期から終末期にかけて築造されました。
 形状はその名の通り、両側に袖を持つような形をしており、中央部がくびれているのが特徴です。この形状は、前方後円墳と円墳の特徴を併せ持つとされています。 
 博物館の庭に石室が移築されるのはよくありますが、全長10m以上の大型石室を建物の中に移築するのは珍しい展示方法です。
 もともと、中山集落の西側に、3基の古墳が確認されていました。その1号墳が文化センターに移築されています。
 *写真:文化センターに移された中山 1号古墳とその内部(インターネットより

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(11) 権現ダム(4)  中山熊野権現社の伝承

2024-03-27 08:41:49 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   平荘町・上荘町をゆく(11) 権現ダム(4) 

           中山熊野権現社の伝承

 むかしむかし、三人の木こりが山奥で薪を集めていました。
 とつぜん、目の前がボーとなり鬼神が現れました。
 「わしは、この山に住んでいる熊野権現じゃ。きょうからこの地は幸せで、豊かな暮らしができるであろう・・・私が守ってやろう・・・」
 そう言うと、スーッとうす暗い朝もやの中に鬼神の姿は消えていきました。
 三人の木こりは、呆然とするばかりでした。
 我にかえった木こりたちは、後ろも見ないで一目散に村へとんで帰りました。
 そして、村人に鬼神に会ったこと、お告げのあったことを話しました。
 村人は「山で寝ていて夢でも見たのだろう・・・」と誰も信じてくれません。
 その日は、きれいな月の夜でした。
 そんな空が急に曇り、地をさくような雷が鳴り響きました。
 村人は「こんな日に雷がなるのは・・・」と不思議がりました。
 やがて、嵐もおさまり、もとの静かな月夜になりました。
 あくる朝です。村人はみな、三人の木こりが会ったという鬼神の夢を見ていたのです。
 そして、村人はみな鬼神の同じお告げを聞いたと話しあいました。
 それからの中山の村は、幸せな豊かな生活がいつまでも続いたと言います。
 村人は、鬼神に感謝して熊野権現社を建てて大切にお祭をしました。
 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所編)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(10) 権現ダム(3) 中山集落(2) 熊野権現社

2024-03-26 06:39:24 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(10) 権現ダム(3) 中山集落(2) 熊野権現社


    昭和50年ごろ、中山集落の一部と集落の熊野権現社神社は権現ダムの建設により水没しました。
 それに伴い、中山集落と熊野神社は平荘町神木(こうぎ)の東に移動し、新しい集落は「新中山」と命名された。
 中山にあった熊野神社は、うっそうとした木立の間にあり、石段を登りつめたところにある荘厳なお宮でした。
 権現ダムの呼称は、権現社からそう呼ばれています。
 新中山集落について少し紹介します。
 湖の底に沈んだ集落は、もとは、元の中山新村で、成立は報恩寺の古記録などから江戸時代の初め、それも1600年ごろと推定されています。
 これは近世の村の成立であり、この地に人間が生活を始めたのは、近くに後期古墳(6世紀)もあり、かなり古いと考えられます。
 中山新村は、昭和30年平荘村が加古川市への合併に伴い平荘町中山になり、昭和48年現在の地に移り新中山となりました。
 権現社も新中山に移転しました。


 *写真:中山新村に移転した権現社。
 湖底の熊野権現神社には民話の伝承があります。次回のブログで紹介しまます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(9) 権現ダム(2) 中山集落(1)

2024-03-25 10:30:21 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(10) 権現ダム(2) 中山集落(2) 
 2022年、『加古川・高砂の100年』(樹林舎)が出版されました。
 その本に貴重な、今は権現ダムの底に沈んだ写真が紹介されています。
 紹介しておきます。
 友達もいましたから集落の名前だけは聞いていたですが、訪ねたこともありません。まさに、桃源郷のようなイメージしか残っていません。
 写真の1枚は、湖底に沈んだ中山集落でもう一枚は中山集落で生活の一場面です。
 写真の解説を読んでみます。
     写真(1) 湖底に沈む前の中山集落
 権現ダムによって水没した中山集落の姿です。28軒余りの家屋がありました。
 集落に道路はバスも往来する県道につながっていました。
(写真:昭和45年・提供、竹中計夫氏提供)

      写真(2) 中山集落の人々
 のどかな人々の暮らしがあったころの一枚です。その後、権現ダムの南に位置する新中山地に移住しました。
(写真:昭和45年・提供、竹中計夫氏)


◇お願い◇
中山集落について、写真等をお持ちの方はご一報ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(8) 権現ダム(1) 難航した交渉

2024-03-24 06:48:00 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

     平荘町・上荘町をゆく(8) 権現ダム(1) 難航した交渉

 平荘湖ダムは完成しましたが、東播磨工業地帯の建設は急速に進み、平荘湖ダムからの送水だけでは工業用水の需要に応じることはできませんでした。
 兵庫県は、第二の貯水ダムを計画しました。
 場所は、平荘町中山。
 総工費は90億円で、3つの山を3本の堰堤で結び、豊水期に加古川からポンプアップして貯水するという計画でした。
 「通称、権現池(ごんげんいけ)を利用して貯水量1,000万トンの湖をつくる」というものでした。
 このダム建設により、中山地区を中心に平荘町磐(いわお)と志方町野尻地区の一部が水没することになります。
 兵庫県は、地元および加古川市の協力が不可欠と市に協力を要請しました。
 委員会は、平荘湖ダム建設の用地買収の難航の苦い経験もあり、熱心に動きません。

        難航する移転・保障問題

 (昭和45年)5月17日の夜、ようやく、県・市による第1回目の説明会が行われ、地元への協力要請をしました。
 5月25日、中山町内会は、次のような回答書を市長に提出しました。
 「中山地区町内会は、権現ダム建設に伴う水没計画には絶対反対である」とし、その理由として、「住みなれた土地を離れ、他に移住することは大きな苦痛である。この土地での現在の生活に不自由なく、離れる必要を感じない。
 なぜ、企業のために我々が犠牲を払わねばならないのか。
 過去の例を見ると、他に移住した人々の実情は余りにも気の毒なケースが多く、我々としても大きな不安を感じる」などをあげました。
 平荘湖ダムの場合と異なり、地元の反対や市会での当初の冷淡な対応もあり、ダム建設は難航し、ほとんど進展を見ないまま年を越しました。
 この段階でも加古川市は、むしろ県と地元との交渉を見守るという姿勢でした。
 しかし、県の担当者は、地元の対策委員会の委員長と非公式の交渉をかさね、昭和45年12月にいたり、ついに了解点にたっしました。
 計画は、さらに遅れ、結局さまざまな問題が解決したのは、昭和53年1月こことでした。
 権現ダムの建設は、最初の計画からじつに10年ぶりにようやく着工の運びとなりました。
 *『加古川市議会史(記述編)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(7) 今春新設の「両荘みらい学園」 図書館スペース地域住民に開放

2024-03-23 10:29:21 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     平荘町・上荘町をゆく(7) 

        今春新設の「両荘みらい学園」 図書館スペース地域住民に開放

   
 *以下神戸新聞(24日)より転載
 加古川市は、4月に新設される小中一貫の義務教育学校「両荘みらい学園」の図書館を市民に開放する。生涯学習の拠点づくり、地域住民への読書機会の提供が目的。学校の活動に影響が出ない範囲で、年末年始や特定の曜日以外は広く利用できるようにするという。(宮崎真彦)

 同市は、両荘地区の児童数減少を受けて、上荘小、平荘小、両荘中を統合し2024年度から同学園を開校する方針を20年に決定していた。現在の両荘中に設置し、一部校舎も利用する。教室棟などは新築し、体育館や武道場も改修する。地域住民との交流を進めるため、校内に公民館も新築することが決まっている。

 新設される図書館は、木目調の落ち着きのある空間が特徴。児童らが本を読んだり、イベントスペースとして活用できる大階段を設けている。2階部分が地域開放スペースとして利用できるようにする。蔵書は1、2階合わせて約3万3千冊。毎月第1、3、5月曜や祝休日、年末年始など以外は、年間を通じて開放する予定。
1階は主に学校の教育活動スペースで、土日曜や夏休みなど学校の休業日に地域に開放する。
*図:両荘みらい学園図書館(イメージ図)=加古川市教育委員会提供

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(6)   平荘湖(5) 慰霊之碑

2024-03-23 08:37:18 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

     

   平荘町・上荘町をゆく(6)   平荘湖(5) 慰霊之碑
 弁天社のすぐ横に「鴨塚」があります。平荘湖のこのあたりに鴨の飛来はありません。
 先に紹介したように、平荘湖の真ん中に又平新田・鴨池があり、冬場には多くの鴨が捕獲され料理されていました。
 平荘湖建設に伴い又平新田・鴨池、弁天社は湖の底に沈んでしまいました。
 そして、前号で紹介したように弁天社は現在の場所に移転し、「鴨池」は「鴨塚」として、その名前を残しています。
      慰霊之碑

 鴨塚の碑のそばに「慰霊之碑」があります。少し説明しておきましょう。 
 昭和41年5月4日早朝、湖底のカンス塚古墳の最終調査に向かう途中に湖上で水難にあい、20歳の若さで短い人生を終わらせしまった加藤進一郎さんの慰霊碑です。
 加藤さんは、昭和39年には京都の龍谷大学史学科へ進み、考古学を専攻しました。
 春休みを利用して数名の友人と共に湖面の南側に位置するカンス塚古墳の最終調査へ向かう途中に悲劇が起こりました。
 10数mの湖底へ沈んでしまったのです。
 地元の消防団や住民、警察などが捜索しました。
 翌日の日没ごろになって遺体が引き揚げられました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上荘町・平荘町をゆく(5) 平荘湖(4) (民話)又平新田村の弁天さん

2024-03-22 08:47:43 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

 

    上荘町・平荘町をゆく(5) 平荘湖(4) (民話)又平新田村の弁天さん

 平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。
 この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。
 むかし、この村に彦衛門という人がいました。
 池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。
 ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。
 「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の者をみんなよそへやってもらえんやろか・・・」
 彦衛門は、うれしくなって、急いで家に帰りました。
 何とか口実をつくり、おかみさんに親類へ行くよう言いつけました。
 おかみさんは、「きっと何かあるぞ」と疑いました。
 村はずれまで行き、途中で引き返えすと、案の定、家の中から女の人の声が聞こえてきます。
 彦衛門が、綺麗な着物を着た美しい娘と話しているのでした。
 おかみさんが、のぞいているのを見つけた弁天さんは、「下界の人に見られては、ここに居ることはできません」といって立ちあがりました。
 彦衛門は、袖を持って、もどそうとした拍子に、袖がちぎれ、ちぎれた錦の片袖だけが残りました。
 島に帰った弁天さんは、「ひとところに長くいては、なじみができていけない」と、淡路島へ行ってしまったということです。
 弁天さんがいなくなった又平新村では、それから、この片袖をご神体としてお祭しているといわれています。
 又平新田村の弁天社は、平荘湖の建設により、現在、湖の南東の堤防に新しく移築(写真)されています。
 *『ふるさとの民話』(加古川青年会議所編)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(4) 平荘湖(3) 稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳

2024-03-21 07:58:04 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      平荘町・上荘町をゆく(4) 平荘湖(3) 稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳

 平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟(ちごがくつ)古墳と呼ばれた池尻16号墳がありました。
 この古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例です。


       稚児ヶ窟古墳石棺の身
  石棺の身は、志方町の投松(ねじまつ)公会堂の庭に置かれています。
 長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の堂々とした大型石棺です。
 内部は土が詰まっています。
 石棺の前に立つと、その大きさが実感できます。
 この石棺に身の部分について、石棺の側に次のような説明(加古川市教育委員会)があるので読んでおきます。

 ・・・この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置した・・・という記録があります。
 昭和11年、県道拡張の時、ここに運んできたと言われています。

      稚児ヶ窟古墳石棺の蓋
 この古墳は、前回紹介した又平新田の弁天社にあったものです。
 石棺の蓋は、平荘湖建設出水没するため、現在平荘湖畔の弁天社の広場に移し替えられています。
 とにかく、デカイ石棺の蓋です。
 被葬者は、在地系豪族と考えるよりも畿内から移ってきた有力豪族の墳墓と考えたほうがよいのかもしれません。
 *写真:稚洞ヶ窟古墳の石棺の蓋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(3) 平荘湖(2) 又平新田と鴨池

2024-03-20 08:22:57 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

      

     平荘町・上荘町をゆく(3) 平荘湖(2)・又平新田と鴨池 
 いま、子供のころの風景を探しています。たしかに、昭和29年ころでした。
 遠足で(又平新田の)鴨池に出かけました。
 鴨池と古墳のまわりで、走り回りました。でも、思い出は、それだけで、それ以上はカスミの向こうです。
 この古墳については、次号で紹介します。

 いま「樹林舎」から発刊された『加古川・高砂の100年』を見ながら、霞の向こうの鴨池集落の風景をさがしています。
 ・・・・
 平荘町の内田忠氏は、又平新田にあった鴨の料理店と鴨の捕獲場の写真を提供されています。
 平荘湖の中央部の湖底に、又平新田という集落があり、その集落の池には毎年冬には鴨がたくさん飛来していたそうです。
 村人は、その鴨池で捕れた鴨を調理して提供する「鴨場」という高級料亭があったことを説明されています。
 客層は、役人や軍人層であり一般の人が利用することは殆どなかったため、看板も必要のない料亭だったそうです。
*写真:鴨の捕獲場と看板も無い「鴨場」いう料理店(写真提供:平田内田忠氏)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平荘町・上荘町をゆく(2) 平荘湖ダム(1)

2024-03-19 08:53:14 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

     平荘町・上荘町をゆく(2)  平荘湖ダム(1)

 昭和30年代、加古川市は、工業誘致に積極的に取り組み、工業都市としての発展をめざしましたが、そのための多くのインフラが未整備でした。
  特に、工業用水の確保は急を要しました。
  昭和32年11月には、加古川市工業地帯整備促進協議会が発足し、市会においても工業用水ダムの必要性が認識され、同年10月、議員総会で「加古川上流に一ヵ所代表的なダムを建設する」案が提出されました。

  ダム建設に向けて具体的に動き出したのは、国庫補助が確定し、昭和35年1月に入ってからです。
 35年9月には神戸製鋼所誘致が本決まりとなりました。
 「平荘町又平新田の升田山など4つの山を土手で環状につなぎ、水面積1.3平方キロメートルのダムで、総工費31億5000万円、貯水量88万トン、加古川よりポンプアップする」という計画でした。

      難航した保障交渉

 ダム建設によって100万平方メートルが水没します。
 又平新田にある市立養老院と約30戸が水没しました。
 地元民は、将来に対す生活に対する不安はぬぐえず、誠意ある県の対応を求めましたが、交渉は難航しました。

 37年3月11日付けの神戸新聞は、「東播工業地帯の工業用水を確保する加古川県営工業用水ダムは既に着工の段階に入っているが、10日、残っていた地元又平新田地区の保障要求がまとまり加古川工業用水建設事務所に提出した・・・同案では、県の案と大きなへだたりがあり、今後の交渉にくらい影を投げかけている」と報じました。
   ◇昭和44年7月1日、平荘湖ダム完成
 市会ダム対策特別委員会は補償交渉の解決に向けて両者の斡旋に乗り出し、 37年12月、難産の末、県と地元との最終合意がまとまり、昭和38年に入り、本格着工がはじまりました。
 44月、待望の貯水がはじまり、7月1日ダムは完成しました。
 *『加古川市議会史(記述編)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 平荘町・上荘町をゆく(1) へいそう・かみそう

2024-03-18 09:48:46 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

     平荘町・上荘町をゆく(1) へいそう・かみそう

 最初にお断りです。「シリーズ加古川をゆく」では各町ごとに紹介しています。今回に限り二つ地区(上荘町・平荘町)に限り、纏めて紹介します。
 他意はありませんが、共通した性格を持っている地域と思えるからです。
 お読みいただいているうちに、だんだんそんな感想を持っていただけると思います。
 季節は春です。上荘・平荘は自然がいっぱいの町です。気持ちの良い里山を散歩しみませんか。

     平荘町・上荘町の名称


 今日は、「上荘町・平荘町をゆく(1)」です。上荘町・平荘町の名称を考えてみます。
 正和5年(1316)の「報恩寺の文書」に、「播磨国印南荘屏村(へいむら)」とあります。
 印南荘(奈良・西大寺の荘園)には屏・都染・益田などが含まれており、屏とは平で、後に平之荘(へいのしょう)と呼ばれ、平荘町の語源にもなっています。
 とすれば、平荘は「へい(の)しょう」と読むのが自然です。
 交差点の案内板(写真)を見てください。ローマ字で「Heisocho」とあり、「へいそうちょう」と読ませています。
 市役所で正式な読み方を訊ねてみました。
 読み方は、「日本行政区画便覧によって、それぞれ、へいそう・かみそうと読むのが正式である」との応えでした。
 平荘小学校に訊ねると学校名は「へいそうしょうがっこう」であり、上荘小学校に問い合わせると「かみしょうしょうがっこう」で、校歌も「かみしょうしょうがっこう」と歌っているとのことです。
 住民の方に尋ねても、どちらともはっきりしません。
 原因は、昔「かみしょう」「へいしょう」と呼んでいましたが、行政が書類・刊行物で「へいそう」「かみそう」と読ませて、徹底しないまま今に至っているというのが真相のようです。
 私は、歴史的「へいしょう」「かみしょう」と読ませてほしかったですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする