平荘町・上荘町をゆく(15) 国包(3) 国包の夜
川筋の最大の難所は国包(くにかね)のすぐ上手にありました。
美嚢川(みのがわ)が加古川と合流し、国包の北あたりは、全体が岩盤でミオ(水路)らしいものがありませんでした。
これは、またオヤジ(船頭)の腕の見せどころでした。
ここをすぎると、大きな難所は少なく、高砂までは帆走ができ、天気のよい日には鼻歌も出たといいます。
やがて、高砂につきました。
帰りは、帰りの荷物を積み、オヤジ(船頭)は荷の受け渡しのために居残のこり、中乗りと艫のりは、国包でオヤジ(船頭)を待ちました。
オヤジは、国包までは陸路を帰ります。
その日は、国包での泊がほとんどでした。
そんな時、オヤジは秋ごろは、イワシかサイラ。冬は、ナゴヤ(小形のふぐ)買ってきました。
すこしばかりの酒とナゴヤの臓物を抜き、野菜を加えての鍋はこたえられませんでした。
国包の夜は、苦しい労働を忘れる楽しみがありました。
(注)加古川は、農業用水の水源でもあったため、田畑に水を必要とする期間は加古川の各所に堰がつくられ、高瀬舟の運行はできませんでした。
高瀬舟の運行は、9月の彼岸から翌年5月の八十八夜までと限られていました。