芥川賞受賞作品の『終の住処』を読んでみました。
中編くらいの長さなので、数時間で読み切ることができます。
文書は、時折、純文学らしい表現とか、比喩もあるのですが、比較的読み安いと思われます。
ただ、段落が少ないです。
もっと、段落があれば、さらに読みやすくなります。
この物語は、現実感が乏しく、ひとつのファンタジーとして読めば、まあなんとか最後まで読めるのですが、多くの読者は途中でやめてしまうでしょう。
登場人物のキャラクターの描写が少なく、彼の妻すら、まるで、存在感がなくて、彼も含めて、登場人物は空気のように希薄です。
妻と、11年間も口をきかなかったなどということは、別居していないのに、現実的には、起こる確率は天文学的確率だろうと思われます。
ふつうは、そうなると、別居するか、あっさりと離婚します。
彼には、次から次へと、簡単に、密通の相手が現れます。
家族との会話も心の交流もなく、別居しているわけでもないのに、自分がアメリカに赴任している間に、自分の娘がアメリカに留学していることすら知らないなどということはあり得ないし、設計士の手が屋根の上まで伸びるなんてこともあり得ないし、村上春樹氏のようにパラレルワールドを描いたわけでもないし、物語というものがフィクションだとしても、作者は、言葉の力でフィクションにリアリティを与えるものだけれど、この物語は、徹頭徹尾、現離れしていて、まるで、現実逃避の異世界です。
主人公の彼は、単純に病気なのかもしれません。
作者は、『人生とは、流れゆく時間、そのものなのだ』ということを言いたいようですが、そんな当たり前のことを今更、声を大にしていうべきことでもないと思われます。
人生とか、人の一生というものは、脳のどこかの部分で記憶されているデータの蓄積です。
もっと端的にいえば、人生とは、脳の中の記憶です。
当たり前ですが、記憶を失うと、その間の人生などという概念には、その人にはないわけですから、もっと厳密にいえば、人生とは、今この瞬間のことだと言えばいいのでしょう。
未来のことは分からないし、過去のことは脳の中の記憶として、データとして残ってはいるのですが、思い出せるのは、すべてのデータの中のごく一部で、脳の中のデータを外的な要因で、改ざんしたり、消し去ることもできます。
ということは、人生とは、まさに、今この瞬間なのだと考えるのが妥当だということでしょう。
では、この瞬間とは、どれくらいの長さかというと、せいぜい、今日1日程度の長さと理解しておけばいいのではないかと思います。
それにしても、芥川賞とかの作品はふつうの精神構造をした者が普通の日本語の言葉で普通に理解できる物語を書いては、受賞できないものなのでしょうか。
とにかく、『終の住処』は、おすすめできるものではありません。
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