幕末の志士といえば、高知県では、坂本龍馬と中岡慎太郎ですが、室戸市にも志士はいました。
室戸市といっても、昭和34年に室戸市になる以前は、安芸郡でした。
安芸郡の羽根に、志士が2名いました。
現在でも、室戸市はけっこうな田舎ですが、幕末はさらに、田舎だっただろうと思われます。
そういう場所から志士出たということに、少し、驚きを感じます。
まず、島村省吾を紹介します。
島村省吾は弘化6年(1849年)11月に羽根に生まれ、15才で京都に上り、天誅組に参画したということです。
彦根藩本陣を夜襲したあと捕らえられ、元治元年(1864年)2月16日処刑されました。天誅組38名中18名が土佐藩の者ということです。
島村省吾は郷士だったのか、庄屋だったのかは資料が不足していて、分かりません。
島村省吾の墓は国道沿いの羽根のJAのガソリンスタンド前の海側にあります。
それで、天誅組とはどういうものか、簡単に説明します。
天誅組の首謀者は、土佐藩の浪士、吉村寅太郎です。
吉村寅太郎らは、攘夷派の志士で、攘夷とは簡単に言えば、幕末に日本にやってきていた外国勢を排除して、天皇を中心とした国造りをしようという政治理念です。
一般的にいわれる、『尊皇攘夷』ですが、これも一枚岩ではなくて、過激な理念を持っているものもいたわけで、その過激な理念を持っていた集団が『天誅組』で、自分たちの理念を実力行使したというわけです。
『尊皇攘夷』に対しては、『公武合体』という理念があって。『公武合体』は、武士階級と、公家が融合することによって、新しい日本の国造りをするという理念です。
これは『尊皇攘夷』よりは、急進的ではなくて、新しい日本国の国造りにむけては、ふたつの大きな理念の対立があったと理解していいと思います。
歴史的に見れば、『公武合体』に向かうわけですが、それも、いわゆる『8月18日の政変』以前は、京都の政治の中枢では、『尊皇攘夷』派が勢力を強めていたわけで、1863年の8月13日の孝明天皇の大和行幸の詔勅が発せられた時が、『尊皇攘夷』派がもっとも気勢をあげた時だと思います。
この孝明天皇の大和行幸に先立って、吉村寺太郎らが率いる天誅組が8月17日に、大和の国の五条代官所を襲撃して、その場所を『御政府』と称しました。つまり、新政府だと宣言したのでしょうか。
ところが、翌日、『8月18日の政変』が起こり、孝明天皇の大和行幸は中止となって、京都にいた攘夷派は失脚して、天誅組は、時の政府からすれば、単なる暴徒になってしまい、追討されることになり、天誅組は、一ヶ月あまりで、壊滅することになります。
歴史的にみれば、天誅組は、破壊工作をした、ただの過激な暴徒とみればいいのか、あるいは、彼らの行動には、大きな意義があったのか、どう解釈すればいいのでしょうか。
もし、『8月18日の政変』がなかったら、天誅組のその後がどうなっていたのか、そして、日本の国がどうなっていたのかは、分かりません。
二十三士の事件は、天誅組の事件の一年後に起こるのですが、この事件も、『8月18日の政変』がターニングポイントだったと思います。
二十三士事件に関しては、後日レポートします。
幕末の志士たちの動きは、いろいろとリンクしていて、誰がどこで、いつ何をしていたのかは、複雑に絡み合っています。
その部分がわかれば、幕末が理解できるのですが、まだまだ、勉強不足で、よくは分かりません。
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