きまぐれ日記

高知県室戸市の地域情報と写真などの趣味の話。時々エッセイ風に。

室戸市展にむけて準備

2008年09月30日 12時49分05秒 | イベント・祭り・コンサート

そろそろ、室戸市展の準備をする必要があるのですが、とりあえず、三枚、ワイド四つ切クリスタルプリントにしてみました。

できるだけ、他の方が出品しないようなものを出品しようと思うのですが、テーマは、ポートレートです。

昨年から、今まで、どれほどの写真を撮影しているのか、ほとんど記憶がなくて、CDとか、DVDの画像を見直しているのですが、どうも、絶対にこれがいいという作品ありません。

だいたい、今年は、ポートレートは、『内原野つつじ祭りモデル撮影会』のみですから、選ぶ作品候補の数が少なくなります。

スナップ的に、撮影したものもあるのですが、どうも、“これなら上位入賞まちがいなし”という作品はありません。

一年に一度のモデル撮影会で、一年分の作品作りをする必要があるということが悲しいです。 

モデル撮影会といえば、以前から、いやというほど言っているのですが、ジオパークの室戸岬で、ぜひ、モデル撮影会を開催してほしいものです。

『室戸ジオパークフォトコンテスト』は、予想通り作品が集まっていないようです。

これではコンテストにはなりません。

企画倒れになりそうです。

企画倒れになる原因は、『室戸ジオパークフォトコン』の告知を応募締切の数か月前から行っていなかったこと。

フォトコンの情報が室戸市のHPには全く掲載されなかったこと。

撮影期間が8月20日から9月20日という、異常に短い期間だったこと。

撮影対象が何なのかはっきりとは分からなかったこと。

撮影範囲が広すぎること。など。 

要するに、主催する側がフォトコンテストがどういうものか分かっていなかったということでしょう。

そもそも、岩だけを撮っても作品にはなりません。

県外とか、市外から、室戸周辺に、岩だけを撮りに来るカメラマンはいないはずです。

テレビドラマとか映画とかのロケーションとしては、室戸岬は抜群です。

室戸岬のロケーションを100パーセント生かすためには、モデル撮影会以外にはありません。

絶対に、室戸岬でモデル撮影会を開催するべきだということは、室戸市の企画財政課に強く要請しておきました。

室戸岬でモデル撮影会を開催すれば、全国からカメラマンが集まるはずです。

全国から注目されることをしなければ人は集まりません。

日本では、『世界ジオパーク』の認定を目指している場所はいくつかあるのですが、その中で、日本八景は、室戸岬だけで、モデル撮影会を開催できる条件が整っているのは、室戸岬だけです。

国内の他のジオパークに比べて圧倒的なアドバンテージがあるのに、そのアドバンテージを生かさない手はないはずです。

今回の『室戸ジオパークフォトン』の企画の失敗を踏まえて、室戸岬でのモデル撮影会の開催を強く希望します。




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寺田屋 ③

2008年09月30日 09時01分54秒 | 観光スポット

刀の傷の跡ですが、よくは分かりません



この写真は、はじめて見ました。神戸の海軍操練所です。龍馬はここで塾頭となっています。




1866年、1月23日(薩長同盟締結の二日後)に寺田屋で龍馬が伏見奉行所配下の捕り方と戦っている様子。龍馬はピストルで応戦。三吉慎蔵は、槍で応戦。この時、龍馬は左手の親指を怪我しています。




この写真も初めて見ました。龍馬は、捕り方の手から逃れるために、寺田屋の裏手から逃げて、この材木小屋の2階に隠れました。




寺田屋の2階には、いくつか部屋があます。龍馬が利用していたのは、『梅』という名称の部屋です。

この部屋以外では、宿泊できます。

部屋はけっこう狭くて、四畳半程度です。

天井も低いので、こういう部屋で、刀を振り回すと、天井に刀が当たって、戦いにくいはずです。

それに、一度に、大勢が部屋に入り込んでくることはできないと思います。

2階の部屋で迎い討つほうが優勢だったのではないかと思います。

仮に、寺田屋が幕末の建物でないとしても、なかなか、雰囲気はあります。

寺田屋で泊まってみたい気がします。

訪れた日が連休の土曜日だったので、大勢の観光客が訪れていて、じっくりと、部屋を眺めることもできませんでした。

とくに、龍馬が利用していた『梅』の部屋は観光客が多くて、部屋全体を撮影することができませんでした。





寺田屋 ②

2008年09月29日 12時38分41秒 | 観光スポット

寺田屋の東側の庭にある龍馬の像



二階への階段の下にある龍馬の写真。寺田屋には龍馬の写真がたくさんあります。



慎太郎の写真もあります






向って、左から、龍馬の妻の“お龍”さんの若い頃、晩年のお龍さん、寺田屋の女将さんの、お登勢さん。



寺田屋には、龍馬の写真とか、慎太郎、竜馬の妻のお竜さんの写真などがいくつも飾られています。寺田屋の内部は、いかにも、幕末の雰囲気があります。


私が、寺田屋を訪れた時は、まだ、京都市は、寺田屋の建てられた年代については、結論を出していませんでした。

実際は、幕末の建物ではないとしても、雰囲気は充分にあります。

大勢の観光客が訪れていましした。


龍馬ファンには、たまらない場所だと思います。

画像は、まだまだあります。





寺田屋 ①

2008年09月28日 12時18分20秒 | 観光スポット

寺田屋全景



東側の庭




寺田屋の前を流れる宇治川の支流



今回の旅でのもっとも重要な目的地だった『寺田屋』に向かいます。

今年は、何かと話題の寺田屋ですが、たとえ、京都市が幕末の建物ではないと結論しても、『寺田屋』の龍馬の史跡としての価値が下がることはないと思います。 

薩摩藩邸跡の烏丸今出川から、伏見区の寺田屋までは、かなりの距離があります。

地下鉄烏丸線と、東西線と、京阪本線を乗り継いで京阪本線の『中書島(ちゅうしょじま)』の駅を目指します。

地下鉄の今出川駅から、御池駅まで行って、東西線に乗り換えて、『三条京阪』の駅で降ります。

駅の改札を通って、西側の方向に、地下の連絡路で、京阪本線の『三条駅』と連絡しています。

京阪の三条駅から、中書島まで、特急とか、急行で向かうと、17分程度で着きます。

地下鉄の今出川駅から、京阪の中書島駅までは、乗り換えのタイミングがうまくいけば、47分ほどで到着します。 

中書島の駅では、北側の出口からでます。

出口を出て、そのまま、少し、西方向に歩くと、寺田屋への案内板があります。それを参考にして、北側の方向に、商店街のような細い道を歩きます。

途中で、道がL字のように曲がっているところがありますが、とにかく、北の方向に進みます。

すぐに、小さい川に架かる橋が見えてきます。その橋を渡って左側に『寺田屋』があります。

中書島の駅からは、徒歩で10分程度です。
 

寺田屋の画像はたくさんあるので、少しずつ掲載していきます。




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薩長同盟締結の場所 近衛邸跡

2008年09月27日 08時54分02秒 | 観光スポット

同志社大学の新町キャンパス



分かりにくい場所にある『近衛家邸址」の石碑



正門からすぐ近くある説明板


いよいよ、今回の旅での重要な場所に向かいます。

その場所とは、『薩長同盟』締結の場所です。

薩長同盟は、1866年、1月21日に、小松帯刀の邸宅にて、龍馬立ち会いのもとに締結されました。

この歴史的な重要な場所がどこであるのかということは、あまり研究されていないのですが、ある方の研究によると、薩摩藩邸から、西の方向にある、『近衛殿』とか、『桜御所』とか呼ばれていた場所で、『近衛邸』が江戸時代以前にあった場所だということです。

今回の旅では、ぜひ、この場所を確認したいと思っていました。

薩摩藩邸跡のある、烏丸今出川の交差点から、今出川通りを西に進んで、新町通りと交差する場所から、(上京区区役所を過ぎたところの南北の道路)北の方向に進むと、左手に学校のような建物が見えてきます。

ここが、江戸期以前まで、近衛殿のあった場所である、同志社大学の新町キャンパスです。

同志社大学は、今出川と、新町にキャンパスがあって、二つのキャンパスとも、薩長同盟に関しては、大変に重要な歴史的な場所にあります。

小松帯刀は、この新町の近衛殿の屋敷の一部を借りていたのか、敷地内に邸宅を建てていのかは分かりませんが、近衛殿のあった場所に小松帯刀の邸宅があったのではないかと思われます。

薩摩の島津家と、近衛家は、縁戚関係にあったと思われるので、薩摩藩の老中である小松帯刀が近衛殿のあった場所に邸宅を構えたのは、納得できるところです。

小松帯刀は、あまり、歴史の表舞台には登場しないのですが、龍馬とは、同い年で、仲もよかったようですから、薩長同盟の締結に関しては、小松帯刀の尽力によるところも大きかったのではないかと、個人的には、推察します。 

同志社大学の新町キャンパスが『近衛殿址地』であるならば、何かその証拠があるはずです。

ネット上での情報では、大学の正門を入ったところに、『近衛家址』の石碑があるはずですが、どうもそういうものは見当たりません。

同志社の新町キャンパスも出入りは自由にできるようでした。

目的のものが見つからないので、門衛の方に、近衛邸址の石碑の場所を尋ねてみました。

少し、不審に思われたかもしれないのですが、そんなこと気にしていられません。

「どちらさんですか」と、門衛の方にきかれたので、素直に名前を答えました。

かといって、相手は、こちらが何者か分かるはずもないのですが、石碑のある場所を教えてくれました。

正門からまっすぐに奥に進んで、左手の建物の階段の下にありました。

この場所だったら、ふつうに、このキャンパスに入っても分からないと思います。

どうも、もともとは、正門の近くにあったものが、こういう分かりにくい場所に移されたものと思われます。

このキャンパスは、発掘調査が行われていたようで、校舎の建物も一部建て直されているようでした。

とにかく、目的のものを見つけることができて、よかったと思います。門衛の方にきかなければ、なかなか、『近衛家址』の石碑は見つけることができなかったと思います。

同志社大学の新町キャンパスの建物は重要文化財でもなくて、観光スポットでもないし、『近衛家址』の石碑をわざわざ見に来る方はいないと思います。 


薩長同盟が締結された歴史的な場所に立って、しばし感慨にふけってみたいのですが、旅は先を急ぎます。

薩長同盟の締結の場に立ち会った龍馬は、伏見区の寺田屋に向かいます。そして、そこで、二日後に事件が起こります。 

龍馬の足跡を追って、旅は、伏見区の寺田屋へと続きます。

実際には、その途中で、『上七軒』と、北野天満宮に立ち寄ったのですが、それは後ほどレポートします。






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御所の近衛邸跡

2008年09月26日 13時16分13秒 | 観光スポット

同志社大学の正門の向かい側にある御所の今出川門



東側に近衛池があります






平成の『寺田屋騒動』とでもいう事態が起こっています。

高知新聞の今朝の朝刊にも記事が掲載されていました。

京都市伏見区の寺田屋は、幕末当時の建物ではなくて、明治以降に再建されたものではないかということで、京都市は調査をして、一応の結論は出しています。

現在の寺田屋は、鳥羽伏見の戦いで焼失したあとに、再建されたものだと、京都市は結論しています。

しかし、寺田屋は、一部は焼失したかもしれないが、ほとんどの部分は、当時のままだと反論しているということです。

龍馬ファンは、寺田屋が幕末の当時の建物ではないかもしれないということも踏まえて、寺田屋には訪れているはずです。

しかし、『篤姫』が放送されているこの時期にどうして、京都市が調査したのか、少し疑問です。

大きな影響力のあるメディアから指摘されたから、京都市も調査する必要に迫られたのでしょうか。

寺田屋はのちほどたっぷりと、紹介します。 

今回は、薩摩藩邸跡に続いて、『近衛邸跡』に向かいます。

以前にも、書いたように、『薩長同盟』の締結の場所は、京都二本松の『薩摩藩邸』ではなくて、薩摩藩の老中、小松帯刀の京都での別宅で締結されています。

それで、小松帯刀(たてわき)の私邸はどこにあったのかということですが、このことに関しての情報はネット上ではあまりないのですが、その場所について研究をされている方もいるようです。

少ない情報から推察すると、『近衛殿』とか、『桜御所』とか呼ばれていた、『近衛邸』のあった場所ではないかと思われます。

近衛家とは、藤原基実を祖とする摂関家の一系です。

一般的に、『近衛邸』というと、現在の御所の北西の角あたりにあったということになりますが、御所の北西の角あたりにあった邸宅は、江戸期以降に建てられたもので、それ以前は、別の場所にありました。

この別の場所こそ、薩長同盟の締結の場所ではないかと推測される場所です。

その場所はのちほど、紹介するとして、まず、江戸期以降の近衛邸のあった場所を訪れます。 

京都御所には出入りの門がいくつかあります。『近衛邸跡』にもっとも近いのは、同志社大学の正門の向かい側にある今出川門です。

この門を入ると御所の案内板があるのですが、案内板の、『近衛池』のある場所の近くに、『近衛邸跡』があります。

御所の北西の角のあたりにあるのですが、今出川門を入ってから、すぐに右手の方向に、散歩ができる脇道があります。

その脇道を進んで、池が左側にみえたら、脇道から左方向に進むと、『近衛邸跡』という木製の碑と、説明板があります。

この場所を最初から知っていれば、今出川門から最短の距離で『近衛邸跡』に到着できたのですが、事前の、ネット上で詳しい情報を入手することなく、御所の北西の角あたりに行けば分かるものと思って、雨が降るなか、今出川門からまっすぐ進んで突き当りの交差する通りを右方向に進みました。

北西の角あたりには、児童公園があるので、その中に、『近衛邸跡』があるのだと思いこんでいました。

ところが、いくら探しても、『近衛邸跡』は見当たりません。

こういう時は、そのへんを歩いている誰かに訊いてみるべきでしょう。

犬の散歩をしている女性の方がいたので、近衛邸跡がどこにあるのか訊いてみました。

その方もどうもよくは分からないということで、門衛の方に訊いてくださいとの返事でした。

たぶん、もっと東の方向にあるのではないかということでした。

今出川の門にも門衛の方はいませんでした。

少し東の方向に移動すると、今度は、男性の方がいたので、訊いてみました。

やはり、場所は分からないということでした。地元の方でも、近衛邸跡など気にしていないということでしょう。

御所には、幕末では、公家の屋敷が多くあったのですが、明治維新のあとは、東京に移って、御所を公園のようにして整備するために、公家の屋敷は取り壊されたということです。

冷泉家は御所の外にあったので、取り壊すことなく、現在まで残っているというわけです。

これは、ある意味、奇跡的な幸いだったわけです。

太平洋戦争では、東京は空襲されたのですが、京都は空襲をされず、そのおかげで、冷泉家の蔵には、貴重な文化的資料が現在まで、保存されたわけです。 

ここまで来て、近衛邸跡を見ずしてこの場所を去るのはあまりにも口惜しいと思い、もう一度児童公園の中を探してみました。

やはり、見つけることはできませんでした。

こういう時は、自分の“勘”に頼るしかありません。

ほんとに、自分がその場所を見る必要があるのであれば、必ずその場所に導かれるのだと信じました。

今出川門の方向にあるのだろうということは何となく分かったので、今出川門から来た道を引き返えしました。

しかし、同じルートでは、見つからないだろうと思って、枝垂れ桜の木が何本かあるところの中の散歩道を歩いてみました。

とにかく道がなくなるところまで歩こうと思いました。

しかし、近衛邸跡の碑は見当たりません。

道を間違えたのかと思いつ、ほとんど道がなくなりかけた突き当りに何やら杭のようなものが立っているのが見えました。

これだろうかと、期待しつつ近づくと、その場所が『近衛邸跡』でした。

周りは、枝垂れ桜の木があり、近衛池が東側にありました。

自分が見なければならないものの場所には必ず導かれていくのだとつくづく思いました。

旅をしていて、道が分からなくなった場合は、誰かに尋ねるのが基本ですが、それでも分からない場合は、最後は、自分の“勘”が頼りです。

御所では、予定よりも10分はタイムロスをしました。

旅は時間との勝負ですから、事前にきちんと場所の確認をしておくべきでした。 

御所はいたるところに、しだれ桜の木があって、桜の名所で、同時に紅葉の名所でもあります。

京都に訪れるなら、桜の時期か、紅葉の時期がいいと思います。



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勇魚づくし御膳

2008年09月26日 09時41分52秒 | 地元の特産・名物

室戸調理師会の季節の御膳メニュー、「勇魚(いさな)づくし御膳」を紹介します。

室戸調理師会に加盟している、市内の料理店17店が実施している年3回の季節のメニュー、2月の「春つげ御膳」、4月の「海のまつたけ御膳」に続く10月限定の季節のメニューは、クジラをたっぷり使った「勇魚(いさな)づくし御膳」です。

クジラを使った刺身・タタキ・煮付け・竜田揚げ等の様々なクジラ料理が一度に味わえるという贅沢な御膳です。

クジラという統一食材を使うことをテーマに、各店舗が趣向を凝らした味付けや盛付けを行っています。

価格は3,000円と、少し高いのですが、食事された方には、前回の「海のまつたけ御膳」でも大好評だった、バーデハウス・ドルフィンセンター・キラメッセ鯨館の割引券と、更に抽選で深層水商品のプレゼントもあります。

食事の後は室戸岬・室津港周辺・とろむ等の室戸散策をどうぞ。

昔なつかしい町や自然の中を歩けば身も心も癒されます。

詳細は下記のアドレスで確認してください。

http://www.city.muroto.kochi.jp/hopweb/joho/html/joho00000268.htm


【申込先】 室戸調理師会各店舗 問:TEL0887-22-0574(室戸市観光協会)




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薩摩藩邸跡

2008年09月25日 09時43分15秒 | 観光スポット

同志社大学の烏丸通りに面した西門の前に『薩摩藩邸跡』の石碑があります。






キャンパス内



同志社大学の今出川に面した正門前。信号のずっと奥に、『相国寺』があります。




今出川通りに面した冷泉家の門。敷地がキャンパスの中に入り込んでいます。



京都二本松の薩摩藩邸で、『薩長同盟』が締結されたのだと一般的には言われています。

確かに、1866年1月10日から、薩摩藩と長州藩の首脳による会談は、京都二本松の薩摩藩邸で始まっています。

しかし、『薩長同盟』が締結されたのは、この場所ではありません。

4日後には、会談の場所は移動されています。

龍馬同席のもとで、薩長同盟が締結された場所は、小松帯刀の別宅です。

その場所がどこであったのかは、あまり、注目され、研究されることはないようですが、場所を特定している研究者の方もいるようです。

その場所はのちほど紹介します。 

京都二本松の薩摩藩邸は、現在でいうと、御所の北側の烏丸今出川の同社大学のキャンパスです。(地下鉄 烏丸線 今出川駅下車)

この大学の烏丸通りに面した門(西門)の前に、『薩摩藩邸跡』の石碑が建っています。

キャンパスの中には、一般の方でも自由に入ることができます。

校舎の建物の多くは、国の重要文化財となっています。

ほとんど、大学のキャンパスというよりは、観光スポットになっていて、在学生によるキャンパス内を案内する『キャンパスツアー』も行われています。

大河ドラマ『篤姫』の影響で、観光客が増えているのではないかと思われます。

おそらく、『篤姫』でも、『薩長同盟』の場面は登場するのではないかと思われます。

この大学のキャンパスは、不思議な構造になっていて、キャンパス内に、藤原定家の末裔の冷泉家の屋敷があります。

現存する日本で唯一の公家の屋敷です。

もちろん、冷泉家には、キャンパスからは出入りできません。

冷泉家は一般に公開される日もあるようですが、よくは分かりません。 

このあとは、御所の近衛邸跡に向かいます。




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武市半平太、吉村寅太郎寓居跡

2008年09月24日 09時48分31秒 | 観光スポット













池田屋跡地から少し三条大橋の方向に向かうと、『三条小橋』があります。

そこを渡って、やや、曲がりくねった道を北の方向の御池通りに向かって歩きます。

その途中の道路の東側に、土佐勤王党の首領の『武市瑞山(半平太)寓居跡』の石碑と、天誅組の首領の『吉村寅太郎寓居跡』の石碑が並んで立っています。

注意していないと見落としてしまう石碑です。

龍馬と慎太郎の寓居跡は、河原町四条と、河原町三条という、繁華街にあって、比較的、その場所も知られているのですが、武市半平太と、吉村寅太郎の寓居跡は、繁華街から、少し外れた場所にあるので、気づかない方も多いかと思います。

これで、土佐四天王といわれた、四人(龍馬・慎太郎・武市半平太・吉村寅太郎)の寓居跡の紹介は終わりました。

これから、御池通りに向かって歩いて、地下鉄の東西線と烏丸線を乗り継いで、今回の旅の目的の一つである、京都二本松(烏丸今出川)の薩摩藩邸跡地に向かいます。


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池田屋騒動跡

2008年09月23日 10時11分46秒 | 観光スポット










三条河原町東入る北側(三条木屋町西入る北側)に、『池田屋跡』の石碑があります。

『三条小橋』に至る途中のパチンコ店の前にあるので、分かりやすいと思います。

『池田屋』とは、歴史上で、新撰組の名前が大きく出てくる、“池田屋騒動”のあった現場です。

この事件がなければ、新撰組は歴史の中に埋もれてしまっていただろうと思います。 

『池田屋騒動』とはどういう事件だったのか、少し説明します。

幕末には、いろいろと、時世を動かすような事件が起こります。1863年の八月十八日に薩摩藩と会津藩によるクーデターが起こり、京都の政治の中枢からは、尊王攘夷派が一掃されました。

その中心であった長州藩は、京を追われましたが、勢力挽回の機会を狙っていました。

翌年の1864年、長州藩を中心とする尊皇攘夷派は、祇園祭りの前の日に、御所に火を放って、中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、会津藩の松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去るという計画を立てました。

新撰組の探索により、不審人物として、古高俊太郎が捕らえられました。

古高俊太郎は、備前藩御用達商人、桝屋右衛門と名乗っていたのですが、裏では、尊皇攘夷派の長州や土佐藩の浪士に援助をしていました。 

古高俊太郎が捕縛されたとことを知った尊王攘夷派の浪士たちは、御所を焼き払う、一連の計画を中止するかどうか話し合うために、1864年の新暦の7月8日に、『池田屋』に集結していました。

この集会には、桂小五郎も参加予定でしたが、池田屋に到着が早すぎたので、一度池田屋から本拠地に戻っていたために、難を逃れたということです。 

古高俊太郎の自白から、尊王攘夷派の浪士たちが、その日に集結することを知った新撰組は、近藤隊と、土方隊のふた手に分かれて、捜索をして、近藤隊が『池田屋』で、尊王攘夷派の浪士が集結をしていることを突き止めました。

この時の近藤隊は、10名でした。集結していた、尊王攘夷派の浪士は20人名でした。

20名の浪士の中に、近藤と沖田のわずか2名で斬り込んでいったのです。

この事件が、後々、新撰組の武勇を後世に伝えることになるわけです。

この事件で、土佐藩の浪士も死亡しています。北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太の3名です。

この事件の1ヶ月後には、『禁門の変』が起こります。

一般的には、この『池田屋騒動』のために、明治維新が2年は遅れたとも言われていますが、逆に、明治維新が早まったとも言われます。




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