自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

学校のほんまもんは意識改革から

2013-02-23 | 随想

辛口の話をしようと思います。極めて主観的な立場から書きますが,これはわたしの教育観の流れに沿ったものです。

いじめ問題,体罰問題,学力向上対策,駆け込み退職,対教師暴力,精神疾患による休職等々いろんな点で,今,学校受難の時代を迎えています。これでもかこれでもか,といった感がします。法で『全体の奉仕者』と明記されている立場にある人は概ね,謙虚な人であればあるほど,気苦労の多い現実かと想像します。教職に携わっていらっしゃる皆さんはとりわけその度合いが強いと思われます。

気苦労が多いというのは,ほんとうはそれだけ人間らしい感覚が誠実なかたちではたらいている証拠だとわたしは感じています。世間並みの,あるいはそれ以上の感覚を日頃から注いでいる人はどこかセンスが違っているように思えます。

そしてそういうものがちらっと見える瞬間というものがあります。そんなとき,「わぁーっ! これが“教職員ならでは”だな」と感じ入ります。

先日の朝日新聞朝刊の片隅にもそんな例(購読者からのミニ便り)が掲載されていました。貴重な資料なのでそのまま引用しましょう。題は『地域の支えこそ』です。

「中学教師です。先日三階の教室から外を眺めていると,男性が用水路に入って次々とボールを拾ってはグラウンドに戻し,何事もなかったかのように立ち去りました。学校は地域の方から応援して頂いているんだと実感し,胸が熱くなりました」(男性/57歳)

これに対するコメンテーターの道上洋三さんのことばはこうです。「そう思う先生も,すてきですよ」。

わたしの印象に残ったことばは「頂いている」というひとことです。学校に身をおく人の謙虚さを見る思いがしたからなのです。道上さんもまた,そこに新鮮さを感じられたのではないでしょうか。

学校の内にある人は,往々にして世間と感覚がズレていると揶揄されることがあります。自分の経験からも思い当たる節があります。現職のときそんなことを思いながら自戒に努めたものです。学校ということば自体が内と外との間にこころの垣根をつくってきた歴史がありますから,歴史の成せる所産なのですが。

ところで,現実問題として,学校の内にある人が感覚の古さを省みて修正することは可能でしょうか。結論からいえば,できうるにしても至難でしょう。染み込んだ垢を意識できるか,どうか。まず,そのことに気づかなくてはなりません。体罰を“愛の鞭”式に美化し続けるようでは,お先は暗闇です。子らの前で自分のことを「先生」と呼んでおかしさを感じないようでは,とてもとても。

そういうことからすれば,投書子のように地域の人を「応援して頂いている」と心底思える感覚に立てるのはスゴイことです。この感覚は垣根を低くするきっかけになりうるのです。さらにいえば,たいへんな意識変革を伴なうことばです。だって,この方,57歳という大ベテランなのですから。ベテランの眼が職場において,若くって頼もしい職員に伝わるかどうか。伝われば,学校は変わっていくはずです。

しかし,現実はそうそう期待できません。わたしの不安はこうです。多くの場合,実態が見える,見えないにかかわらず,学校がお世話になっている人のことを「ありがたい存在」と感じつつも,せいぜい「地域の人材」程度に受けとめているのではないか,というものです。田舎に住んでいても,内の目が外に向かって見開かれているという印象はありません。足りないのは住民感覚に立つという点。我が身の改革に努めない限り,垣根は残り続けるのではないでしょうか。

たぶん,これからも全体としては学校は変われないでしょう。何事についてもいえるのですが,ほんまもんに生まれ変わることはなかなか難儀なことです。学校が本質的に変わるためにはカンフル剤がいるのかもしれません。

ただ,厳しい世相にあっても,“流行”に流されず地域と一体となりながら真摯に学校づくりに汗を流す教師集団が存在することも見逃せません。名は挙げませんが,彼らは,成るようにしか成らない外(上)からの改革に身を委ねることなく,共同して創造を旨とする改革を着実に進めています。そこでは,フレッシュな原動力が湧き上がっているのです。こころ強いお手本だと感じます。

(注)写真は本文と関係ありません。