古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

加瀬俊一『評伝 アドルフ ヒトラー』を読んでいます。

2015年05月21日 02時39分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 加瀬俊一の『評伝 アドルフ ヒトラー』は1978年(昭和53年)発行の古い本です。出版された頃に入手して、ときどき思い出したように数回読み返し、多くの本を処分してしまったいまも手元にあります。
 本棚をながめているうちに「最後にもう一度読み返してみよう」という気になり、半分読んだところです。
 なぜこの本に惹かれるか。
 加瀬俊一はここに登場する、ヒトラー/ゲーリング/チェンバレン/チャーチル/スターリン/ルーズベルト/ などと日本の外交官として実際に出会い、交流のあった人です。彼はこうした人物と会ったときの相手の印象やその場の様子を、よく伝わる文章で書いてくれてます。敗戦後も101歳まで生きて、膨大で貴重な、戦前・戦中・戦後の証言を著述し、日本の国連加盟に尽力しました。
 ヒトラーには「引き込まれるような瞳」を感じ、「俗物のゲーリングに親しみを感じた」というような描写は、実際に会った人だから書けたことで、後世の歴史研究家の著述では出会えない文です。
 ヒトラーは「映画(に撮られ、映像として残される)大好き人間」でした。大衆の前でポーズする自分を、多くの器材とスタッフで撮らせました。いまも迫力あるドキュメントとして見ることができます。そのフィルムでは、少年・少女・青年・淑女たちがヒトラーの車を追い掛け、花を投げ、右手を高く挙げて「ハイル ヒトラー!」と精いっぱいの声で叫んでいます。その手は指先まで「ピーン」と伸びて、熱狂が指先からほとばしっています。
 この映像は嘘ではない。ヤラセではない。演出なしの大衆の熱狂です。
 ヒトラーの命令でナチス・ドイツのやった戦争。それを反省し、全面否定し、全体主義を封じ込めるドイツの姿勢ととりくみ。
 多くの大衆は、自分が一度はあの熱狂の出演者だったことを、忘れないようにして敗戦後の70年が経過しました。
 
 何度も何度も書きますが、昭和12年(1937年)生まれのぼくは、もし10年早く生まれていたら、真珠湾攻撃のとき14歳だったら、じっとしれおれないほど熱狂したでしょう。すぐにでも鉄砲かついで戦争に行きたいと興奮したでしょう。
 そしてどうなったか。上官たちは、参謀本部で/前線で/どのように振る舞ったか。無茶な命令をした上官たちは敗戦後なんといったか。物資を隠匿したり「一億総ざんげ」という言葉に隠れて口をぬぐってしまった大人たちと、それを許した日本の精神的風土に、いまも怒りをもっています。
 自分の正義感が、ちゃんと成り立つためには、大人たちの「おわび」がどうしても要ると思っています。自分があのとき大人だったとしたら、何にもできなかったでしょうが、それでも。
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