古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『思い出』とどう付き合うか思案しています。

2015年08月26日 02時55分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 10月5日でこのブログを終了すると言い出して、ブログを書籍化しようと編集にとりかかりました。1500回以上書いていますから、全部を書籍にするのは無理です。毎日の出来事を書いているのですから、過ぎてしまえばまとめて書籍化する意味もありません。
「あー、こんなことがあったなー」と思い出すだけです。反省したり今後の参考にすることがあるかもしれませんが、思案するときは、ブログという手がかりがなくても「いまどうするのがいいか」考えればいい。
 実は「田舎暮らしをしよう」と9年前の2006年に神戸の家を片付けたとき、学生の頃のアルバム、勤めてからの写真などは全部処分しました。家族のアルバム、自分の旅のアルバムを数冊を手もとに残しただけです。それもここに引っ越してから9年間、見ていません。
 『思い出』に生きるときが、さらに高齢になるとあるかもしれません。「思い出す」というこころの働きが認知症に効き目があるかもしれません。その大事な手がかりとして、アルバムや書籍化したブログが役立つかもしれません。
 母・妙子さんは「本の虫」の文学少女で、94歳で三木に引っ越してからも図書館で本を選んで借りていました。そのうち大型活字本だけになり、ぼくが選んで借りてくるようになっても、本読みはつづけていました。ところが100歳を越えて2年ほど前から本を読まなくなりました。「ショートステイ中に何か読むものがあればいいかも」と考えて、ノートに写真を貼って、解説文を横に書く様式で「思い出ノート」をつくりました。三木に引っ越してから訪ねてきた人、子どもや孫やひ孫の写真などを貼り、当時の状況を思い出せるようなノートにしました。またもっとむかしの写真を貼って、30年間の神戸時代(64歳 ~ 94歳)より前の山陰の片田舎での思い出を書いたノートをつくりました。
 そんなノートを見ているかもしれませんがこころは働いてないようです。思い出というのは、もっとこころの奥から自然に流れ出すもので、他人がコントロールできるものではない。引き金になる文や写真があるかもしれないけれど、なくても流れ出るときは流れ出る。
 そういうことを考えると「思い出の材料づくり」にはあまり手をかけないほうがいいかも。
コメント
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