古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

大塚国際美術館に行きました。

2010年06月13日 02時00分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 一度行ってみたいと思っていた『大塚国際美術館』に行きました。日帰りバスツアーで行くところですが、骨休めが目的なので一泊します。イチゴ畑とタマネギ収穫の慰労会のつもりです。鳴門のホテルに泊り鯛のコース料理を食べて、翌日美術館を見学しました。
 鳴門までは車で一時間余りです。午前中に鳴門市に着いてしまいました。まず訪れたのは大麻比古神社でした。観光地を訪ねたいのでなくゆっくりしたいのですから、心休まるところがいいと思って選びました。阿波一ノ宮になっている大きな神社で、吹きぬける風がさわやかでした。
 昼食のあと四国八十八カ所巡りの一番霊山寺から四番大日寺までドライブしました。一つ一つのお寺に車を止めて、参拝しながらのドライブです。四国巡礼は、父が米寿を祝い誕生日を前に亡くなった1997年に車で行きました。
 三番の金泉寺の裏で大きな顕頌碑を見て、いろんなことを考えました。これはお寺のある板野町東地区の戦死した出征兵士の碑です。一番上の欄のはじめの数名が日清戦争、日露戦争、そして支那事変の戦死者です。『支那事変』というのは1937年に(昭和12年……ぼくが生れた年)日本が中国で起こした戦争ですが、『戦争』といえば聞こえがわるいので小規模の争いという意味で『事変』と呼びました。軍部は「弱い支那なんかすぐにやっつける」つもりだったでしょうが、大東亜戦争にまで拡大して負けました。
 碑の1段目の終りから6段目の最後まで大東亜戦争で戦死した兵士です。この小さな村からどれだけの人たちが出征し、どれだけの人たちが戦死したでしょう。元気盛りの若者や一家の大黒柱の父親が南の島に行かされ、飢餓に苦しみ、マラリアに苦しみ、密林に倒れたのでしょうか。ビルマ戦記、ニューギニア戦記、ルソン島レイテ島に行かされた一兵卆の苦しみを伝える戦記などを読んでいますので、碑の前に立つとそんな場面を想像してつらい。
 大塚国際美術館のことはまた書きます。
 
 
 
 
コメント
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