古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

母のこと

2010年06月01日 04時11分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ぼくが二十二歳でしたからもう50年も前になります。家に帰った弟から、母の手紙を渡されました。当時弟とぼくは、いっしょに下宿して通学していました。
 母は「体調がよくないので医者に診てもらった。胃下垂で体は衰弱しており、肝硬変になっている。一年を越えて生きるのはむずかしいと医者に宣告された」と伝えたあとに、「親としてなにもしてやれなかった。員数外の家族になってしまった」と書いてありました。
 胸に石の詰まったような時間が過ぎていき、ぼくは母に手紙を書こうとしました。しかし何も言葉が出てきません。長い時間そのまま机に向かっていました。突然嗚咽が突き上げ、声をあげて泣きました。
 夕方の薄暗い下宿の部屋と「員数外」という手紙の文字は、いまも強く残っています。あれから50年たちました。体調を崩して道子さんのつくったおかゆで、慎重に、ゆっくりと、体力を回復したことが何度もありますが、母はいま元気に生きています。
 寿命というのはわからない。弱かったはずの母は97歳になり自分の足で歩いて裏山に行き、竹の枝を切っています。こんなに生きるとはだれも思いませんでした。二十二歳のとき一度は達観しようとしたはずの母の死は、お預けになったままです。
 ある知人は母親を十ヵ月間介護して「ちょうどいい加減の世話ができた」と話していました。別の知人は十六年間母親を介護したそうで、その重さは想像の域を越えます。自分も一年一年年齢を重ねていくのです。どんな思いが凝集されていくのでしょう。
 一昨日、昨日載せたぼくの作文ですが、いまはそんな心境になれません。離れたところから見ています。母の思いは幼いときから帝王のように子の心に君臨します。人はそれと格闘して生きることになる。そのことは機会があればまた書きます。
 母の思いを卒業するのに70年かかったのか。なにが言いたかったのでもありませんが、いつか母のことを書こうと思いっていました。やはりまとまりませんでした。
 
  
 
 
コメント
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