智恵子は東京に空がないといふ。
ほんとうの空が見たいといふ。
これはご存知、高村光太郎の「智恵子抄」のなかの
「あどけない話」の冒頭
これを知ったのは高校生の時
訳もわからず好きだった。
今、
ことあるごとに私はこれを思う。
今朝11時ごろ。
所用で出かけて戻る時
私は空を見た。
我が家は
昔、山だった所が切り開かれて住宅街になった、その頂上あたりにある。
したがって
家に戻る時
結構急な坂を上ることになるのだが
もうすぐ家というところに公園があり
その手前は池になっていて
そこだけ
空がひろいのだ。
今日の空は美しかった。
夏らしい入道雲(?)が白く立ち上りながらも
わずかに秋の気配を漂わせて
青く澄み渡っていた。
さっき
洗濯物を取り込みに行った二階のベランダから眺めれば
山も随分近くにはっきりと美しい。
けれども
悲しいかな。
その空はあまりにも狭いのだ。
私が記憶している“空”とは数段の差がある。
生まれ育った福井は越前の
白山連邦の上に広がる空は
もっと広く
もっと雄大だった。
智恵子抄は続く。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
学生の頃には文面でしか理解できなかったこの詩を
今、私は実感する。
ここに住んで二十余年
切り開かれた丘陵は
あっというまに家が建ち並び
空き地一つなくなってしまった。
同時に
空も
どんどん狭くなっていった。
私の中にある空。
雄大な山々の上に広がり
広くて堂々として
全てを知って
静かに見降ろしているような
美しく大きな空。
そんな空を毎日見て暮らしたいと願うのは
けっして
「あどけない話」どころではないだろう。
今ではとても難しい、
けれど
それができている人には気づかれもしない、
小さくて大きな幸せの概念だ。
ほんとうの空が見たいといふ。
これはご存知、高村光太郎の「智恵子抄」のなかの
「あどけない話」の冒頭
これを知ったのは高校生の時
訳もわからず好きだった。
今、
ことあるごとに私はこれを思う。
今朝11時ごろ。
所用で出かけて戻る時
私は空を見た。
我が家は
昔、山だった所が切り開かれて住宅街になった、その頂上あたりにある。
したがって
家に戻る時
結構急な坂を上ることになるのだが
もうすぐ家というところに公園があり
その手前は池になっていて
そこだけ
空がひろいのだ。
今日の空は美しかった。
夏らしい入道雲(?)が白く立ち上りながらも
わずかに秋の気配を漂わせて
青く澄み渡っていた。
さっき
洗濯物を取り込みに行った二階のベランダから眺めれば
山も随分近くにはっきりと美しい。
けれども
悲しいかな。
その空はあまりにも狭いのだ。
私が記憶している“空”とは数段の差がある。
生まれ育った福井は越前の
白山連邦の上に広がる空は
もっと広く
もっと雄大だった。
智恵子抄は続く。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
学生の頃には文面でしか理解できなかったこの詩を
今、私は実感する。
ここに住んで二十余年
切り開かれた丘陵は
あっというまに家が建ち並び
空き地一つなくなってしまった。
同時に
空も
どんどん狭くなっていった。
私の中にある空。
雄大な山々の上に広がり
広くて堂々として
全てを知って
静かに見降ろしているような
美しく大きな空。
そんな空を毎日見て暮らしたいと願うのは
けっして
「あどけない話」どころではないだろう。
今ではとても難しい、
けれど
それができている人には気づかれもしない、
小さくて大きな幸せの概念だ。
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