虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿に思いを寄せる人

2008-02-24 | 宇和島藩
宇和島の草莽の志士であり、明治の農民の裁判闘争(無役地事件)の代表となった市村敏麿。しかし、宇和島の草莽の志士なんてだれの関心もひかない。主役はやっぱり薩摩、長州、土佐。あの多摩草莽である新選組さえ大河になったのになあ。

いや地元宇和島でも知る人はほとんど皆無に近い。地元宇和島の市史にすら一切記入されていないのではなかろうか。宇和島に縁のあるわたしは、以前から市村敏麿には関心があった。だが、共に語れる人がいないのをさびしく思ってきた。ところが、大阪に、この市村敏麿に強い関心を持ち、評伝を書くことを志している人がいることを知った。

脇田憲一氏。1935年宇和島生まれ。
脇田氏は、2004年に「朝鮮戦争と吹田・枚方事件ー戦後史の空白を埋めるー」(明石書店)という立派な本を出版した。大正デモクラシー等の著作での有名な松尾尊充(京大)はこの本を2004年のベスト5の1冊にあげている。

枚方・吹田事件なんてだれも知らないだろう。わたしも知らなかった。日本共産党の軍事行動時代の事件だ。説明は省く。脇田氏は、1952年、17歳で枚方事件に参加(何もわからずに参加したそうだが)、検挙される、釈放後は、日本共産党の山村工作隊員として奈良奥吉野に入りこんで活動。日本共産党がそれまでの方針を「極左冒険主義」として否定したあと、日本共産党を離党。その後は、鉄鋼労働者として、労働組合運動に従事し、高槻生協理事長、高槻市議などを経て、現在は、労働運動史、社会運動史を研究されている。

「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」という本は、著者の青春期の痛烈な体験をふりかえり、あの事件はなんだったのだろうと、検証したものであるらしい(実は読んではいない)。ただ、前章だけ読んだ。前章の見出しが「四国山地からー野村騒動異聞」だ。

脇田氏は、市村敏麿の故郷愛媛県城川町を「第二の古里」といっている。昭和18年、脇田家は大阪にすんでいたが、空襲が激しくなったため、ご両親の古里宇和島に疎開したらしい。しかし、宇和島も昭和20年7月末の大空襲で焼け出され、山奥の現城川町(旧土居村)に疎開し、この土地で、国民学校の5年生から新制中学卒業までの5年間を過ごす。思春期の5年間は第二の古里にちがいない。

1976年、土居村にいる旧友から突然「土居郷土誌」(1976年発行)を送られ、そこに書かれている、「野村騒動」「無役地事件」を知り、衝撃を受ける。こんな事件があり、こんな人々がいたのか、と。
前章は、2003年、脇田氏が古里土居村を訪ね、野村騒動の首謀者塩崎鶴太郎の子孫や城川町史談会を訪ねて市村敏麿に思いを寄せるという探索の旅の報告になっている。

戦後史に興味を持ってこの本を手にした人は前章の130年前以上の百姓一揆の話をどのように受け取ったのだろうか。しかし、脇田氏としては、是が非でも前章に、この話を持ってきたかったにちがいない。それほど、市村敏麿に強い関心を持っている。四国の僻遠の土地、あそこに、こんな人物がいて、こんな事件があった、しかし、だれもそれを知らない。抹殺されてきた。抹殺されてきた歴史という意味では、脇田氏にとっては、ご自身が体験された枚方事件も同じかもしれない。一人でも多くの人に、かつてこんな事件があって、こんな人々がいた、ということを知ってもらい、掘り起こしてもらいたい。思いはわたしも同じだ。

過日、脇田氏と歓談する機会を得た。野村騒動や無役地事件を話題にして話ができたのは、初めてで、楽しかった。脇田氏は、山村工作隊として、奈良の奥に入ったときは、村の人から「昭和の天誅組」といわれたと大笑い。戦後の作家では花田清輝が好きなようだが、「若い人もよい書き手がいる。白井聡の「未完のレーニン」はよい本だった」、といっていた。まだまだお若い。