柳生宗矩の「兵法家伝書」(岩波文庫)には、兵法は1対1の剣の試合だけでなく、大軍を率いた戦争から国の治め方、家臣の操縦、議論のしかた、人間関係など万事に通じると説く。そして、兵法の達人とは、自分の心が何かに(敵の動きや自分の意志などに)とらわれず、常に無心で自由の境地にいることだという。
これは、わかる。自分にばかりとらわれていると、相手の気持ちや動きが見えなくなるし、機敏で適切な言動はできない。しかし、これは理屈の上だけでわかること。実際の場面では、敵から理不尽に斬りつけられると、もう頭に血がのぼり、無心どころではなくなる。常に余裕綽綽、無心で自由な達人の境地なんて、柳生宗矩でも宮本武蔵でも無理だったのではないか。
ただ、歴史上に一人だけこうした兵法の達人はいたと思う。秀吉だ。
秀吉は、最高最大の兵法家ではないか。晩年、耄碌した秀吉は別にして、天下を統一するまでの秀吉は、自分では兵法家だとは決して思わなかっただろうけど、秀吉の人々へのあざやかな姿勢、機敏さ、知恵の深さは、まさに兵法の究極の達人を思わせる。司馬は1000年に一人といったけど、あの人間像は史上、飛びぬけている。どうして、あのような人間が出てきたのか実に興味がある。
ただ、秀吉に学ぼうとか、兵法を身につけようとも思わない。
負ける戦だとわかっていても、戦いにいどむ、兵法家からしたら無益なことをした人々も多数いる。家康にいどんだ三成、スターリン批判をやめなかったトロツキー、政府に戦いをいどんだ田中正造、大塩平八郎などなど、彼らは、なにかにとらわれ、敗残の身になった。兵法に拙かった者だろうか。
どうも、今日の文はうまくまとまらない。何を言いたいのかわからない。
兵法につたなく、いつも失敗ばかりしているので、なんとかしようと反省しつつも、どうにも本性は変えがたく、どうしたらいいのか、と思っている。
大塩平八郎は政治について話すときは、怒りで全身をふるわし、魚を頭からバリバリ噛み砕いたそうだが、そんな短気なところに共感してしまう。
これは、わかる。自分にばかりとらわれていると、相手の気持ちや動きが見えなくなるし、機敏で適切な言動はできない。しかし、これは理屈の上だけでわかること。実際の場面では、敵から理不尽に斬りつけられると、もう頭に血がのぼり、無心どころではなくなる。常に余裕綽綽、無心で自由な達人の境地なんて、柳生宗矩でも宮本武蔵でも無理だったのではないか。
ただ、歴史上に一人だけこうした兵法の達人はいたと思う。秀吉だ。
秀吉は、最高最大の兵法家ではないか。晩年、耄碌した秀吉は別にして、天下を統一するまでの秀吉は、自分では兵法家だとは決して思わなかっただろうけど、秀吉の人々へのあざやかな姿勢、機敏さ、知恵の深さは、まさに兵法の究極の達人を思わせる。司馬は1000年に一人といったけど、あの人間像は史上、飛びぬけている。どうして、あのような人間が出てきたのか実に興味がある。
ただ、秀吉に学ぼうとか、兵法を身につけようとも思わない。
負ける戦だとわかっていても、戦いにいどむ、兵法家からしたら無益なことをした人々も多数いる。家康にいどんだ三成、スターリン批判をやめなかったトロツキー、政府に戦いをいどんだ田中正造、大塩平八郎などなど、彼らは、なにかにとらわれ、敗残の身になった。兵法に拙かった者だろうか。
どうも、今日の文はうまくまとまらない。何を言いたいのかわからない。
兵法につたなく、いつも失敗ばかりしているので、なんとかしようと反省しつつも、どうにも本性は変えがたく、どうしたらいいのか、と思っている。
大塩平八郎は政治について話すときは、怒りで全身をふるわし、魚を頭からバリバリ噛み砕いたそうだが、そんな短気なところに共感してしまう。