虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

兵法について思うこと

2006-12-24 | 読書
柳生宗矩の「兵法家伝書」(岩波文庫)には、兵法は1対1の剣の試合だけでなく、大軍を率いた戦争から国の治め方、家臣の操縦、議論のしかた、人間関係など万事に通じると説く。そして、兵法の達人とは、自分の心が何かに(敵の動きや自分の意志などに)とらわれず、常に無心で自由の境地にいることだという。

これは、わかる。自分にばかりとらわれていると、相手の気持ちや動きが見えなくなるし、機敏で適切な言動はできない。しかし、これは理屈の上だけでわかること。実際の場面では、敵から理不尽に斬りつけられると、もう頭に血がのぼり、無心どころではなくなる。常に余裕綽綽、無心で自由な達人の境地なんて、柳生宗矩でも宮本武蔵でも無理だったのではないか。

ただ、歴史上に一人だけこうした兵法の達人はいたと思う。秀吉だ。
秀吉は、最高最大の兵法家ではないか。晩年、耄碌した秀吉は別にして、天下を統一するまでの秀吉は、自分では兵法家だとは決して思わなかっただろうけど、秀吉の人々へのあざやかな姿勢、機敏さ、知恵の深さは、まさに兵法の究極の達人を思わせる。司馬は1000年に一人といったけど、あの人間像は史上、飛びぬけている。どうして、あのような人間が出てきたのか実に興味がある。

ただ、秀吉に学ぼうとか、兵法を身につけようとも思わない。
負ける戦だとわかっていても、戦いにいどむ、兵法家からしたら無益なことをした人々も多数いる。家康にいどんだ三成、スターリン批判をやめなかったトロツキー、政府に戦いをいどんだ田中正造、大塩平八郎などなど、彼らは、なにかにとらわれ、敗残の身になった。兵法に拙かった者だろうか。

どうも、今日の文はうまくまとまらない。何を言いたいのかわからない。
兵法につたなく、いつも失敗ばかりしているので、なんとかしようと反省しつつも、どうにも本性は変えがたく、どうしたらいいのか、と思っている。

大塩平八郎は政治について話すときは、怒りで全身をふるわし、魚を頭からバリバリ噛み砕いたそうだが、そんな短気なところに共感してしまう。









鞍馬天狗とは何者か

2006-12-24 | 読書
小川和也「鞍馬天狗とは何者か」(藤原書店)を図書館で借りた。
この本は、鞍馬天狗や「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」を書いた大仏次郎の戦中から戦後までの軌跡に特に焦点をあて、鞍馬天狗、すなわち大仏次郎とは何者か、を追求した本だ。

鞍馬天狗は1924年から1965年までの40年間に47作の話を書いてあるそうだ。

この序章で、鞍馬天狗にはモデルがいた、といっている。
それは、坂本龍馬という意見だ。

鞍馬天狗シリーズの話には、西郷隆盛、桂小五郎、勝海舟、近藤勇など、幕末の実在のスターが出てくるが、坂本龍馬だけはでてこない。なぜか。鞍馬天狗は龍馬とキャラクターの重なる人物だから避けたのではないか。龍馬が鞍馬天狗に登場するのは、鞍馬天狗の最終作「地獄太平記」(1965年)においてだけだそうな。そこでは、旧知の仲の龍馬が「天狗さん!」と鞍馬天狗によびかける場面があるそうな。

ちなみに、筆者の小川氏があげる鞍馬天狗の特徴は次の通り。
1、鞍馬天狗は、幕末維新の倒幕派の志士である。(ただし、勝とも通じているように、観念性はあまり出さず、目的のために手段を選ぶ)。
2、鞍馬天狗は、常に「独り」である。
3、鞍馬天狗は、武士身分を否定する武士である。
4、鞍馬天狗は、人道主義者である。
5、鞍馬天狗の「個」は社会化されたものである。(つまり、社会に関心を持つ個だということ)。
6、鞍馬天狗は、不死身である。(どんな苦境にあっても、希望を捨てず、明るい精神を失わず、闊達)

たしかに坂本龍馬と重なる部分はある。