(承前)
道立旭川美術館での「一ノ戸ヨシノリ展」の会場に1枚のモノクロ写真が飾ってあった。
男性3人がギャラリーの中ですわって話している。
説明には、こうある。
'73連鎖展(12稜空間)序展(大丸画廊、札幌、1973年)、一ノ戸は右端
1970年代前半は、さまざまなグループ展が開かれ、既存の美術展に対抗した。
'73連鎖展(12稜空間)は、いわゆるグループ展というよりも、最初に「序展」と題したグループ展を開催したあと、毎月メンバーの個展を続けていくというスタイルをとった。
メンバーは、阿部典英、一ノ戸ヨシノリ、岡部昌生、柿崎煕、後藤和子、杉山留美子、田村宏、野崎嘉男、丸藤信也、矢崎勝美、米谷雄平の12氏と、企画の吉田豪介氏。まさに、その後の北海道美術を30年以上にわたって担ってきている豪華メンバーである。
なお、言うまでもないが、「大丸画廊」は現在のスカイホールの前身であり、札幌最古のギャラリーである。
ちなみに、若者たちが公園でジャンプしている写真もあるが、そこに写っているのが上に挙げた顔ぶれである。
田村、米谷の両氏はすでに鬼籍に入った。
キャプションには、一ノ戸さんの名前しか挙げられていないが、おそらく、中央は彫刻や絵画など幅広く活躍するベテラン作家の阿部典英さん、左は美術評論家の吉田豪介さんであろう。
この写真を前にして、吉田豪介さんが先日、一ノ戸展について読売新聞に寄稿していた文章のことを思い出した。
12稜空間の発足にあたってメンバー全員が吉田家に宿泊した、というのだ。
若手美術評論家と新進作家たちが有していた往時の熱気が伝わってくる文章だった。
ひるがえって考える。
大先輩にわが身をくらべるのもおこがましいのだが、じぶんは作家たちとこれほど濃密な付き合いをしているかどうかと自らを振り返ってみると、とうていイエス、とはいえない。すくなくても、わが家に泊まった作家は存在しない。
吉田豪介さんはHBC(北海道放送)に勤めていたが、筆者の会社にくらべて格段にヒマだったとは思えない。「仕事が忙しい」なんていうのは、理由にならないのだ。
筆者はふらりとギャラリーに現れるだけで、それぞれの作家の精神のありかについては、なにも知らないうちにここまできてしまっているように思われてならない。
反省するけれど、でも今後どうしていけばいいのだろうか。
道立旭川美術館での「一ノ戸ヨシノリ展」の会場に1枚のモノクロ写真が飾ってあった。
男性3人がギャラリーの中ですわって話している。
説明には、こうある。
'73連鎖展(12稜空間)序展(大丸画廊、札幌、1973年)、一ノ戸は右端
1970年代前半は、さまざまなグループ展が開かれ、既存の美術展に対抗した。
'73連鎖展(12稜空間)は、いわゆるグループ展というよりも、最初に「序展」と題したグループ展を開催したあと、毎月メンバーの個展を続けていくというスタイルをとった。
メンバーは、阿部典英、一ノ戸ヨシノリ、岡部昌生、柿崎煕、後藤和子、杉山留美子、田村宏、野崎嘉男、丸藤信也、矢崎勝美、米谷雄平の12氏と、企画の吉田豪介氏。まさに、その後の北海道美術を30年以上にわたって担ってきている豪華メンバーである。
なお、言うまでもないが、「大丸画廊」は現在のスカイホールの前身であり、札幌最古のギャラリーである。
ちなみに、若者たちが公園でジャンプしている写真もあるが、そこに写っているのが上に挙げた顔ぶれである。
田村、米谷の両氏はすでに鬼籍に入った。
キャプションには、一ノ戸さんの名前しか挙げられていないが、おそらく、中央は彫刻や絵画など幅広く活躍するベテラン作家の阿部典英さん、左は美術評論家の吉田豪介さんであろう。
この写真を前にして、吉田豪介さんが先日、一ノ戸展について読売新聞に寄稿していた文章のことを思い出した。
12稜空間の発足にあたってメンバー全員が吉田家に宿泊した、というのだ。
若手美術評論家と新進作家たちが有していた往時の熱気が伝わってくる文章だった。
ひるがえって考える。
大先輩にわが身をくらべるのもおこがましいのだが、じぶんは作家たちとこれほど濃密な付き合いをしているかどうかと自らを振り返ってみると、とうていイエス、とはいえない。すくなくても、わが家に泊まった作家は存在しない。
吉田豪介さんはHBC(北海道放送)に勤めていたが、筆者の会社にくらべて格段にヒマだったとは思えない。「仕事が忙しい」なんていうのは、理由にならないのだ。
筆者はふらりとギャラリーに現れるだけで、それぞれの作家の精神のありかについては、なにも知らないうちにここまできてしまっているように思われてならない。
反省するけれど、でも今後どうしていけばいいのだろうか。