散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

幻想の中の紙芝居~「語り」と「絵」が引き起こす物語

2017年01月02日 | 回想
小学校へ上がる前は目黒駅から少し離れた処の親戚の家に一家で間借して生活していた。近くに空地があって子どもたちの溜まり場、遊び場になっていた。紙芝居屋のおじさんが来るときがあって、そのときは遊び仲間からひとり離れてその紙芝居を見ないようにした。実は見たくてしかたなかったのだが。

家ではおやつの時間が決められていた、母が買い置きを分け、家で食べるように仕付けられていたのだ。何も買えないから見るわけにはいかない。小銭をもらっての買い食いはさせてもらえない。

おじさんは自転車できて、拍子木を打ち、子どもたちに来たことを気づかせる。もちろん、子どもたちもそれっとばかりに集まる。エビセンのような薄くて軽いせんべい、あんず、ジャム、水飴などを先ずは売る。

この売り買いで即興の“紙芝居劇場”ができあがる。
それは特にうらやましくはなかった。しかし、紙芝居屋のおじさんが空地に来たときは、何も買えないから見るわけにはいかない。遊び仲間からひとり離れて見ないようにした。だが、話は聞える、実は聴き耳は立てていた。

絵を見ていなくても話は面白い。
おじさんが絵の登場人物になりきって、オーバーなセリフ回しで演じながら、ナレーターにもなって話を盛り上げていく。その盛り上げ方がドキドキさせるのだ。ただ、絵を切り替える処はわからないから、その瞬間に何が起こったのかは話が再び始まってからわかるだけだ。

ある時、おじさんが「こっちへおいで」と云ったら、仲間のひとりが「外での買い食いはダメなの」と答えてくれた。親切なおじさんは、「こっちへきて見てもいいよ」と云ってくれた。何しろ、話は面白かったから聞えるだけでなく、集中して聴きたかった。近寄って、後ろの脇から絵を見ながら聴いた。

実際の絵を見ながら話を聴いていると、絵を離れて登場人物の気持ちになって話の盛り上がりについていけるのだ。いま考えると、おじさんの「語り」と「絵」がシンクロナイズして互いに繋がっていく。変わらない「絵」が、変わっていく「話」を支える様に、見る人のイメージを変える働きをして、“物語”へと導くのだ。

家には絵本があって、それはそれで興味を持ったが、イソップ物語みたいなもので、ドキドキするような、あるいは笑い出すような物語性のある内容のものではなかった。漫画はダメで、朝日新聞の「サザエさん」「クリちゃん」しか見ることのできる漫画はなかった。

話の中味は覚えていないが、“正義の味方”が活躍するのがやっぱり面白かった。「黄金バット」が流行っていたらしいので、それも含まれていたかもしれない。おじさんが大きな声で抑揚を作る話し方は、親、幼稚園の先生がときたま話す「お話」の話し方とは全く違っていた。

その後、子どもたちがその年頃になったとき、夜寝る前に絵本を読むことがあった。確か「三びきのやぎのがらがらどん」(福音館)だったと思う。やぎが登場する場面、一番大きなやぎの処で、紙芝居屋のおじさん流に一段と大きな声を張り上げて、「おれだ!おおきいやぎのがらがらどんだ!」と、セリフを怒鳴るようにしたら、キャーと云って喜んでいた。
自分も結構、面白がって何度も試みたのだ。