散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

空襲による死亡者・被害者たちの象徴、トト姉ちゃん~花森安治の視座

2016年09月13日 | 歴史/戦後日本
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのにひどい目にあった」(「花森安治伝」津野海太郎(新潮社)P14)。大橋鎭子へいったという花森の言葉は、『序章』の〈百万部雑誌の始まり〉で紹介され、キーワードでもある。それは、朝ドラでも印象的なシーンの一つとして放映されたと思う。

第二次大戦に関して、それぞれがその言葉だけでは言い表せない事柄について、花森らしく、ズバリと「女の人」、「責任がない」、「ひどい目」と表現する、その意味するところは何であろうか。

筆者は花森の詩「戦場」を紹介し、空襲されたその場を〈戦場〉ではなく、〈焼け跡〉と、死者を〈戦死者〉ではなく〈罹災者〉と表現し、一篇の詩に仕立てたのは、花森の創造力のなせる技であると述べた。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」~花森安治の創造力130815』

そして、「戦場はいつでも海の向うにあった」と書き出し、続いて、今は、「ここが、みんなの町が戦場だった」との表現の中に、生活の場が戦場になることによって、「ひどい目にあった」一般人の姿を描き出したのだ。
 『〈戦場〉はいつでも海の向うにあった~戦後マイホーム思想の原点110815』

町にいるのは、兵士以外の人たちであって、女では必ずしもないが、女は戦争には行かなかった。戦争の責任は男すべてではないが、少なくとも責任ある人間は男だった。だから、「女の人」との言葉に象徴させて、戦場ではない生活空間において、空襲という戦争行為に晒された人たちの悲劇を、花森は自らの責任の中に織り込んだと筆者は想像する。
少なくとも花森は戦争を推進する立場から兵士として戦場へ赴き、大政翼賛会で仕事をしていたはずだ。
即ち、トト姉ちゃんは、その意味での被害者、いやそれ以上に亡くなった人たちを含めて象徴的存在であったのだ。

その当時、昔の仲間と仕事の企画を立てていたと上記の本には書かれている。しかし、それはある意味では戦前の延長線ではないか?ふと、花森は感じたかも知れない。

一方、大橋はどうだ!空襲による被害者が生活の場を築こうとし、それも女の人たちを対象とした雑誌作りなのだ。そこには、新たな展望に立った仕事がある、と考えたとしても不思議はない。

本は副題に「日本の暮らしをかえた男」とある。
確かに、ひとりの人間としてなしたことは、それに値するかも知れない。一方、戦後復興から高度経済成長へと、まっしぐらに進んだ社会において、その経済状況に同期して「暮らしの手帖」の内容が読まれた側面も強い。

そこで花森の仕事がどの程度に貢献したのか、必ずしも定かではない。確かに百万部まで発行数を伸ばしたことは、驚くべきことに違いはないが、多くのファンは上層階級からそれに近い中層の人たちのようにも思う。