散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ワンマンの復興~吉田茂氏と橋下徹・大阪市長

2011年12月17日 | 政治理論
12月10日のエントリ『独裁か、リーダーシップか』で「…地方自治体の先端部分は、国の支配から抜け出し、“暴力装置”を除くあらゆる権力と政治的影響力を駆使する時代へ突入している。
今回の大阪W選挙は、その先駆けであろう。」と書いた。“暴力装置”とは、仙谷発言で注目された表現であり、その是非、正確性について話題になった。ここでは単純に「警察」「自衛隊」を意味するのであるが、もう少し範囲を狭めれば、『警察の政治的活用』とでも言っておけば良い。もっとも、最近では「検察」も重要な一翼をなすかもしれない。

先ず、独裁を『最高権力を握ったものが、1.一元的支配、2.体制批判を取締、更に(3.少なくとも政治警察を積極的に活用)する政治形態』と定義すれば、地方自治体首長が独裁政治のなれるわけではない。そうすると、橋下氏の発言も、ハシズムも含めて平松側の発言も、単なる政治的レトリックにまで下がる。平松氏は「独裁でもないのに、独裁者を気取る橋下発言の軽さ」を揶揄すれば、一件落着であったかもしれない。
但し、政治的レトリックとしての独裁発言に危険が潜まないわけではない。この言葉に惹かれるオポチュニストが関心をもち、活動に参加することは大いに考えられる。

かつて、吉田茂氏は「ワンマン」と言われていた。今では、政治的に使われる機会にも乏しく、ワンマン社長などの使い方が残されている。しかし、この言葉にはマイナスのイメージだけではなく、積極的なリーダーシップを示すプラスのイメージも含まれている。
吉田茂氏が首相であった戦後復興期は、米国の占領体制から独立へ向かう日本の岐路を定める時期であった。今、国の支配から抜け出し、地方分権へ向かう自治体は自ら岐路を決めなければならない。

このアナロジーからいけば、橋下氏率いる「大阪維新の会」を選択した大阪府市の住民は「ワンマン」を求めたとの解釈も可能であろう。
『宰相吉田茂論』(中央公論1964年2月号)で高坂正堯氏は、独善、頑固と批判されたワンマンぶりを『恐ろしく不当に取扱われ』と述べ、『裏を返せば、決断力と信念の固さ』と評価し、『長所と短所を含めたすべての能力を投入して、ひとつの仕事に傾倒してきた』とその復権を図った。

橋下氏の「大阪都構想」は国家の命運をかけた「吉田ドクトリン」に比べれば、スケールは小さ過ぎ、本来、比べるにも憚る処がある。しかし、逆に小さいからこそ、実現の可能性は大きいはずである。更に、これをキッカケに国の統治形態を変革する可能性も当然、含まれる。潜在的な大きさがどこまで顕在化するのか、首都圏を含めて他人事ではない。

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独裁か、リーダーシップか~橋下発言をめぐる政治言語の機能

2011年12月11日 | 政治理論
大阪W選挙で橋下市長が誕生して2週間、大阪府知事は誰だったっけ?との問いが発生するようにもなり、大阪府市の政治状況も落ち着きが感じられるようになった。大阪府知事に池田氏が選出されれば、ねじれ状態になり、逆に大阪市の独立へ向かう可能性もあると考えていた。
これは筆者の見込み違いであり、結果は松井氏が橋下氏と並ぶように安定多数を獲得した。ここは、再考の必要があり、別途考えを述べるつもりでいる。ともかく、実質的に、大阪都へ向けての政治はこれから動くことになる。

選挙前に橋下氏の「独裁」発言を平松市長が再度取り上げ、反橋本の「組織化の象徴」として機能させた。更に、山口二郎氏を中心にファシズムを連想させる“ハシズム”という造語も飛び出した。これに対して橋下氏はリーダーシップの発揮の側面から関連する発言を説明した。投票数獲得の争いで流通した「独裁」という言葉の機能を通して、橋下政治の一側面を考えてみたい。

6月15日ツイッターで橋下氏は、
「日本では一言目には、独裁を許すな!となるが、ねじれ国会になると、政治がリーダーシップを発揮しろ!となる。今の日本に必要なことは政治が力強さを持つ制度。」と述べている。この発言は明瞭であって「もてる権力及び政治的影響力を駆使してリーダーシップを発揮する」ことを主張している。であるなら、
「積極的リーダーシップ」あるいは「リーダーシップ」と自ら主張すれば、より正確なイメージを与えることができると普通は考える。しかし、そうではなかった。「独裁」発言は橋下氏から仕掛けられた。

橋下氏は6月29日、後援会の政治資金パーティーで「今の日本の政治に必要なのは独裁」と気勢を上げた。これに対して、平松市長は「絶句した」「自分のため、というのが独裁だ」と批判したことが次の日の新聞紙面で紹介されている(以上、ウキぺディア「橋本徹」)。

何故、「独裁」発言になったのか。
後援会のパーティーでの政治的メッセージだからだ。世の中の独裁批判に対し、強い姿勢で逆手にとって批判を無意味化し、仲間の疑念を振り払い、結束を高めるための発言である。反撃はあっても、仲間の士気を鼓舞し、更に支持も集まるはずだ。その意味で、政治的に計算された発言と受け取れる。整理すれば、
1)自らと仲間の退路を断ち、結束を高める
2)「独裁」のイメージを曖昧化する
3)激しい言葉によって支持者を増やす
反撃は予想されるが、批判者は敵であり、それに同調する有権者は少数派であって、所詮、味方にはなり得ない、との認識であろう。

更に10月31日ツイッターで橋下氏は独裁発言について、次のように述べる。
『権力を有している体制と対峙するには、こちらにも力が必要という現実的な認識を示したまでです。我々の権力の行使は市民に向けていません。常に役所組織、公務員組織、教員組織など体制側に向けています。』
ここでは、現状打破志向の政治家がもつ政治認識が簡潔に開示されており、橋下氏の立ち位置が良く判る。この認識はリコールされた阿久根市の竹原信一前市長と同じと思われる。
しかし、大きな違いもある。竹原氏が先のビジョンを描けず、地方分権の認識にも乏しく、阿久根市に閉ざされた中で、違法すれすれの冒険主義的行動に走ったことである。

橋下氏の認識の中では、体制側に国家政府も含まれているはずである。地方分権を主張し、それを政治的に打破することを目指しているからである。従って、これまで地方自治改革を実行してきた幾多の改革首長とは異なる理解が必要である。

おそらく、永井陽之助氏が『平和の代償』において、国際政治観を機構型、制度型、状況型に分け、そこから生まれる「平和=戦争観」を分析し、理解したと同じ手法が必要であろう。しかし、ここではその準備は不十分である。
それにしても、今や、地方自治体の先端部分は、国の支配から抜け出し、“暴力装置”を除くあらゆる権力と政治的影響力を駆使する時代へ突入している。
今回の大阪W選挙は、その先駆けであろう。

      
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TPP騒動での「アメリカ」陰謀説~政治学的解釈~

2011年11月12日 | 政治理論
今回のTPP騒動で象徴的なことは、民主党内で「離党」は話題になったが、野田首相への「退陣」要求の話はなかったようである。結局、TPP反対派が主張したことは、現状維持である。

しかし、ここで、アメリカの「陰謀説」がでたことは反対理由の水準が低いことを示しており、関心をひく。「陰謀説」は政治現象においてしばしば登場する。筆者の記憶の中には、次ぎの話がある。

春闘の恒例で「電車のスト」が行われていた時代、ある駅で、ある程度の通勤客が怒って騒ぎを起こした。このニュースに対して、労組の幹部が「右翼の陰謀ではないか」との見解を述べた。要するに、普通の通勤客が怒っていることを、ストを指揮している労組の頭にはまったくなく、自らの心理を庇うためには、不逞の輩を想定する以外になかったのである。

TTP問題でのアメリカ陰謀説の起源はどこにあるか明確ではないが、例えば、著名な経済学者である宇沢弘文・東京大学名誉教授の次の主張がある。

『農協新聞での提言』
「米国政府は東アジアにおける経済的ヘゲモニーを確保、維持するために、米国の忠実な僕として仕えている日本政府に対してTPPへの参加を強要している。…TPPに参加すれば「日本の農村」は消滅しかねない…」。
ここから「陰謀説」までは直ぐに進む。

『政治的状況認識の心理と論理 ~ 枠組・不協和・疑似論理 再論 2011年08月06日』
において、「陰謀説」に対する永井陽之助氏の政治学的解釈を示している。

そこでは、『現代政治学入門(Ⅱ政治意識)』(有斐閣 1965)から要約として、
「人間は、複雑な現実界を単純なイメージに短絡し、固定観念にあてはめる」
「政治状況は個性的であるため、その固定観念と「ズレ」を生じる」
「人間の認知構造は、極めて狭小な枠組内で外部情報を処理する」
「これによって、絶えず論理的一貫性を保持しようとする」
「その枠内で処理できない外部情報には、心理的「不協和」が生じる」
「そのため、論理的一貫性と心理的平衡を回復させる反応をする」

陰謀説は、失敗、認識の誤りを「実はXの陰謀だった」とする上記の疑似論理である。

その解説として、「新しい事態の発生で、自己の認識が誤りであり、失敗であることが明瞭
となり、「Xの陰謀」というロジックで、自己の「読みの浅さ」と「不明」を正当化するときの用いられる。…しばしな、敵の邪悪なる意図を途方もなく誇大視したり、万能化したりしがちになり、対立する両陣営がイマジネーションを際限なく増幅するのは、よく知られている。」

政治的思考の根源は、鋭く洞察されていると言うべきであろう。  

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権力と人間~橋下・元大阪府知事の人間像~

2011年11月02日 | 政治理論
橋下氏のツイッターはこれでもかと連続的に続く。字数制限は、なんのその、画面の占有も気にしない。内容も自分のこと、そして、他人を攻撃することに主眼がおかれる。

その内容に膨らみは感じられない。そこから出てくる人間像は、自己主張を強く打ち出し、追随者を引っ張っていくリーダーシップである。それが嵩じると自己劇化になる。強制力という悪魔と不可避的に手を結ぶ政治の世界では、権力を志向し、スケープゴートを作り出して敵味方を明確にしていく手法が得意だろう。

「権力と人間」の著者であるハロルド・ラスウェルは、ライフヒストリー(生活記録)の手法で権力を追求する人間の形成過程を跡づけた。それは幼少期に受けた傷(価値剥奪)の補完(補償)ということだ。

週刊誌に書かれている内容は特に理解していないが、橋下氏の独裁発言に通じる何かを暗示しているかもしれない。

    
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グノーシス的知性の隠れたる権力欲~永井陽之助氏が初めて話す

2011年10月13日 | 政治理論
永井陽之助氏の『東工大最終講義』は「20世紀に生きて」であった。

これまでに授業などで話を聞いたり、あるいは本を読んだり、したなかで親しんだ内容であったが、一つだけ始めて聞いた話があった。それが表題の『グノーシス的知性』であり、筆者にとって衝撃的な中味であった。

反原発を主導する論議を聞いていると、隠れたる権力欲を持つグノーシス的知性のにおいを感じる。知性としてそれほど上等とは思わないが。革命理論だけではない、啓蒙思想もグノーシス主義を免れないのだ。戦後民主主義が典型例である。

『ここに私は、20世紀をつらぬく一つの思潮のなかに、グノーシス主義があることに気づくようになった。』(永井陽之助 「20世紀の遺産」(文藝春秋社P32))

『20世紀がレーニンのボルシュヴィキ革命とアインシュタインの相対性理論で始まったというもっとも深い意味は、古代から中世を経て今日まで連綿として生き残ってきたグノーシス的思考が、20世紀において、この地上に至福千年王国の出現を約束する全体主義運動という極限形態をとってあらわれた、という逆説のかなにある。』

『現代は神なき時代といわれるが、それは決して宗教なき世紀を意味するものではない。現代のグノーシス主義はさまざまの意匠をこらしてあらわれている。…』

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戦後日本政治における顕教と密教

2011年09月23日 | 政治理論
永井陽之助氏は表題に掲げた“顕教と密教”という政治思想を久野収氏、鶴見俊輔氏『現代日本の政治思想』(岩波新書)から引き継ぎ、戦後政治体制における憲法の二重構造を『平和の代償』(中央公論社 1967年)で展開している。

経済学者・池田信夫氏は2011年09月23日付けのブログ「朱子学と日本軍と反原発派」において興味深い指摘をしている。
日本の政治体制は、もともと「現人神」がその権力を官僚に委任していると考えると、むしろ官僚が政治家であり、国会議員はそれにたかる大衆の代表にすぎない。

そこで、儒教の影響がいまだに強い理由を、山本七平氏が『現人神の創作者たち〈上〉』 (ちくま文庫) において一つの答を出している、と述べている。

山本氏の解釈は卓抜という他はない。
一方、永井氏は山本氏とアプローチは異なるが、問題意識に共通する処が感じられる。

思い出すと、永井氏が40年ほど前の授業において、『最近面白かった本はイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」』と言い、それにつられて筆者はそれを読み、その後も山本氏の著作に親しんでいる。
また、『ベンダサン氏は山本氏だ』と、授業ではなかったが、どこかで言われて、そうなのかと驚いたこと、『山本氏は戦後が生んだ天才』との言葉も記憶している。

さて、永井氏は、
『平和の代償』の最後の第三論文「国家目標としての安全と独立」の冒頭部分(P141)、「戦争と平和の問題についての戦後正教に内在する固定観念を分析し…」と論文の主要部分を紹介する。戦後正教とは“平和と民主主義”イデオロギーである。

続く「Ⅰ核時代における安全と独立」において、「安全」と「独立」のディレンマを指摘し、
革新は「独立=非武装中立」を欲しながら「安全=平和」に、保守は「安全=日米安保」を選択しながら「独立=民族威信」に問題をすり替えていると主張する。

そこから“憲法9条の精神構造”に入るのだが、既に『「米国の戦争観」と「正義の戦争」』で紹介している。
ここでは、その次の“新憲法の二重構造”が主題になる。

『現代日本の政治思想』では、明治日本の国家が顕教と密教の二様に解釈され、そのバランスの上に成り立っていたとする。
顕教とは通俗的な大衆向けの象徴体系であり、「天皇=現人神」になる。一方、密教とは内部エリート向けの象徴体系であり、「天皇機関説」になる。

永井氏は「天皇=現人神/機関」を二重構造と呼び、新憲法にも二重構造が存在することを新たに主張する。すなわち、一国の政治意識や精神構造は一夜でかわらないからである。
密教は吉田茂に代表されるサボタージュ平和論、憲法第9条を盾に経済復興を図ることであり、
顕教は非武装中立に代表される「戦争体験に根ざした」平和ムードである。

ここで、池田氏、山本氏の議論にミートする。
戦後、儒教的秩序の「本流」である霞ヶ関はほぼ無傷で残り、天皇機関説に近く、現実主義だ。
これに対して「非武装中立」などの理想主義を掲げたのが、社会党などの「革新勢力」だった。

戻って、この二重構造のアナロジーは当然、政治体制にも顕れる。
戦前の天皇制は、正統性の源泉である天皇を非政治的に価値づけた結果、政治は派閥抗争の政界に限定され、権力中枢に近づくほど、非政治的とみられた。

この伝統は、統治原理を「天皇」から「議会主義」へ転換した今日でも、まだ消えない。与党、官僚に近接するほど、政治的に中立であり、党利党略から離れることになる。ここでも政治は政局に限定され、政策決定は価値中立的に官僚が決めるという政治スタイルが通用する。

従って、池田氏の言うように、日本の政治体制では、以下の構図になりがちである。
 官僚(=権力)→政治家、大衆代表→国会議員
 国会議員→官僚(実際の価値配分)

その源泉は、権力=価値中立(その執行機関が官僚) 政治=党利党略 の考え方である。
 
また、地方自治体においては、次の構造になるのではないか。
権力=首長(直接選挙)=価値中立(その執行機関が役所)
議会=政治(党利党略としてのオール与党化)=水面下での価値配分機関

    以上
   
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『ゲームの規則』~ジャン・ルノアールにおける恋愛と政治

2011年09月14日 | 政治理論
世界の映画人による投票(イギリスの映画雑誌「サイト&サウンド」)で、世界映画ベストテンの第2位に選ばれた映画『ゲームの規則』。監督、脚本のジャン・ルノアールが主演もしている。1939年の作品。

リンドバーグの大西洋空路横断を借りた挿話、そこで熱狂する市民による飛行場での出迎え、インタヴューに駆けつけるラジオのアナウンサー、から始まる場面は、現代的な社会状況の本質を描写しているとも受け取れ、ルノアールの眼の確かさを示している。

美しい妻と愛人との三角関係を生きる侯爵、その妻を恋する横断した飛行士、侯爵と飛行士の両方の友人である<ジャン・ルノアール>が絡む恋愛関係、そのなかでの誘惑・脅迫・贈与・辞退の交渉術、広大な別荘での暴力の代替的発露としての狩猟、仮装パーティの饗宴。ブルジョア社会の偽善的断面をも見事に描写している。

この饗宴の世界が偽善的に見えることを、逆に言えば、人間の始原的世界に潜む「セックスと暴力」に対して、「恋愛と政治」というわざを提示していたことを意味する。それがブルジョワジーの文化であったのだ。

これが、大衆社会の到来と共に、偽悪的な露出の演出に代わっているように見える。

『心変わりは罪ですか、恋には羽があるものを」(『フィガロの結婚』ポーマルシェ)を冒頭に掲げ、めまぐるしく変わる恋愛感情を、その場に応じた身振りと言葉の自己表現へと自在に変換させる演出は見事という他はない。

お互いがお互いの意図を知りながら、更に他人を説得する政治的交渉術が男女の会話に含まれていることは言うまでもない。
しかし、その感情を維持するには、暴力のはけ口が必要であることを「狩猟の野」の場面で示唆すると共に、侯爵と飛行士との殴り合いと決闘の申込みに表現している。

更に、侯爵の妻の小間使いの夫である密猟監視人の存在である。密猟人が言い寄ると、ライバルとして自己表現ができず“絶対の敵”としてピストルで実弾を発射しながら密猟人を追い回す。最後は誤って飛行士を猟銃で射殺してしまう。

ここに、大衆の登場によって説得的自己表現ができず、もちろん、交渉術もなく、非合理的心理から暴力の世界へ突入する時代を描写しているのかもしれない。

        
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政治的状況認識の心理と論理 ~ 枠組・不協和・疑似論理 再論

2011年08月06日 | 政治理論
以下は、『現代政治学入門(Ⅱ政治意識)』(有斐閣 1965)から要約。政治に関わる人たちが、何を、どう考えているのか、その思考プロセスに迫る方法論を示している。出版された年月から考えれば、この理論は今から50年以上も前のことである。しかし、人間と政治との関係を考えるうえで、色褪せることはない。

簡単に言えば、
人は「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を設定し、情報をその中に取り込んで判断する。
政治状況は基本的にオリジナルなものであり、枠組に入り切らない情報に接すると激しい「不協和」(dissonance)を生ずる。その心理的ストレスから逃れ、論理的一貫性と心理的平衡を保つために、「疑似論理」(pseudo-logic)によって理由付けを行う。

「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)

人々が政治事象、特定の政治問題に対してもつ認識・評価・態度を総称して「政治意識」と呼ぶ。「政治意識」は何よりも、不完全情報下で政治的決定を行う際に、外部からの情報を処理する基本的な「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を提供する。

日常生活においても多くの決定に迫られるが、特に政治の世界において著しい。しかし、情報そのものは稀少資源であり、その獲得には金と時間がかかる。従って、判断の基礎になる情報は不十分であるのが常である。

絶えず変動する、不確実な政治状況のなかで、自ら下す決定に責任を負い、選択行動に一貫性と統一性を与え、不確実性に伴うリスクと不安に耐えていくには、複雑な現実界を単純なイメージに短絡し、その固定観念にあてはめて、自己の決定に合理性を与えている。

その基本的な状況判断の推理構造は、次のようである。
「  」内は言語象徴によって表現された「濃縮イメージ」である。

1)認識…現在、状況は「  」の一部である。
2)評価…一般に、私は「  」に賛成である。
3)態度…故に、私の態度は「  」である。

政治状況は個性的、複雑、流動的、不確実であるため、「濃縮イメージ」の固定性と早晩「ズレ」を生じざるを得ない。

「不協和」(dissonance)

「実験心理学」では次の知見が得られている。人間の認知構造の特色は、極めて狭小な枠組内で外部情報を処理し、絶えず論理的一貫性を保持しようとする傾向を内在させている。

そのため、その枠内で処理できない外部情報が投入されると激しい心理的ストレスを生じ、その心理的な「不協和」から逃れ、論理的一貫性と心理的平衡を回復しようとする内的反応を生じる。

これに対して様々な論理的・心理的操作で対応される。
1)その情報を否定する
2)「関係づけの枠組」の改革を最小限度にとどめ、新しい情報を取り組む

これらにより、不協和を相殺する。これには「疑似論理」(pseudo-logic)とも言うべき、サイコ・ロジックが用いられる。

「疑似論理」(pseudo-logic)の例示

1)ステレオタイプ的思考
 a.善玉・悪玉論理(二値論理) 局外者を巻き込む拡大主義
   AはBが好き BはCを支持 故にAはCの味方
 b.陰謀説 失敗、認識の誤りを「実はXの陰謀だった」

2)組織人的思考
 機構、組織内で活動する人が外部の状況化に直面し、上から強権によって打開
 a.本質顕示的思考 本質は存在に先行する
   本然の姿をの顕示を妨げている攪乱要因を除けば、本然の姿が顕れる

3)状況的思考
 a.投機的決断主義 やってみなければわからない
  固定イメージによる判断の誤りを回避、主体的決断を重視
   →結果責任に対するろ倫理のコントロールを欠く
 b.日本的、肚による認識
  最悪事態に対する心構え→死の予感による純粋状況

4)弁証法的思考 政治の本質は矛盾の克服 毛沢東『矛盾論』
  革命集団における目標と状況のズレによる非一貫性を正当化
   →極限は二重思考(ジョージ・オーウェル) 

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枠組・不協和・疑似論理 ~状況認識の心理と論理

2011年07月25日 | 政治理論
人々が政治事象、特定の政治問題に対してもつ認識・評価・態度を総称して「政治意識」と呼ぶ。「政治意識」は何よりも、不完全情報下で政治的決定を行う際に、外部からの情報を処理する基本的な「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を提供する。

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