散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

独裁か、リーダーシップか~橋下発言をめぐる政治言語の機能

2011年12月11日 | 政治理論
大阪W選挙で橋下市長が誕生して2週間、大阪府知事は誰だったっけ?との問いが発生するようにもなり、大阪府市の政治状況も落ち着きが感じられるようになった。大阪府知事に池田氏が選出されれば、ねじれ状態になり、逆に大阪市の独立へ向かう可能性もあると考えていた。
これは筆者の見込み違いであり、結果は松井氏が橋下氏と並ぶように安定多数を獲得した。ここは、再考の必要があり、別途考えを述べるつもりでいる。ともかく、実質的に、大阪都へ向けての政治はこれから動くことになる。

選挙前に橋下氏の「独裁」発言を平松市長が再度取り上げ、反橋本の「組織化の象徴」として機能させた。更に、山口二郎氏を中心にファシズムを連想させる“ハシズム”という造語も飛び出した。これに対して橋下氏はリーダーシップの発揮の側面から関連する発言を説明した。投票数獲得の争いで流通した「独裁」という言葉の機能を通して、橋下政治の一側面を考えてみたい。

6月15日ツイッターで橋下氏は、
「日本では一言目には、独裁を許すな!となるが、ねじれ国会になると、政治がリーダーシップを発揮しろ!となる。今の日本に必要なことは政治が力強さを持つ制度。」と述べている。この発言は明瞭であって「もてる権力及び政治的影響力を駆使してリーダーシップを発揮する」ことを主張している。であるなら、
「積極的リーダーシップ」あるいは「リーダーシップ」と自ら主張すれば、より正確なイメージを与えることができると普通は考える。しかし、そうではなかった。「独裁」発言は橋下氏から仕掛けられた。

橋下氏は6月29日、後援会の政治資金パーティーで「今の日本の政治に必要なのは独裁」と気勢を上げた。これに対して、平松市長は「絶句した」「自分のため、というのが独裁だ」と批判したことが次の日の新聞紙面で紹介されている(以上、ウキぺディア「橋本徹」)。

何故、「独裁」発言になったのか。
後援会のパーティーでの政治的メッセージだからだ。世の中の独裁批判に対し、強い姿勢で逆手にとって批判を無意味化し、仲間の疑念を振り払い、結束を高めるための発言である。反撃はあっても、仲間の士気を鼓舞し、更に支持も集まるはずだ。その意味で、政治的に計算された発言と受け取れる。整理すれば、
1)自らと仲間の退路を断ち、結束を高める
2)「独裁」のイメージを曖昧化する
3)激しい言葉によって支持者を増やす
反撃は予想されるが、批判者は敵であり、それに同調する有権者は少数派であって、所詮、味方にはなり得ない、との認識であろう。

更に10月31日ツイッターで橋下氏は独裁発言について、次のように述べる。
『権力を有している体制と対峙するには、こちらにも力が必要という現実的な認識を示したまでです。我々の権力の行使は市民に向けていません。常に役所組織、公務員組織、教員組織など体制側に向けています。』
ここでは、現状打破志向の政治家がもつ政治認識が簡潔に開示されており、橋下氏の立ち位置が良く判る。この認識はリコールされた阿久根市の竹原信一前市長と同じと思われる。
しかし、大きな違いもある。竹原氏が先のビジョンを描けず、地方分権の認識にも乏しく、阿久根市に閉ざされた中で、違法すれすれの冒険主義的行動に走ったことである。

橋下氏の認識の中では、体制側に国家政府も含まれているはずである。地方分権を主張し、それを政治的に打破することを目指しているからである。従って、これまで地方自治改革を実行してきた幾多の改革首長とは異なる理解が必要である。

おそらく、永井陽之助氏が『平和の代償』において、国際政治観を機構型、制度型、状況型に分け、そこから生まれる「平和=戦争観」を分析し、理解したと同じ手法が必要であろう。しかし、ここではその準備は不十分である。
それにしても、今や、地方自治体の先端部分は、国の支配から抜け出し、“暴力装置”を除くあらゆる権力と政治的影響力を駆使する時代へ突入している。
今回の大阪W選挙は、その先駆けであろう。

      

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