朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

山下清

2013-09-03 | もろもろの事
長野県茅野市に、こんな美術館があることを知ったので見学しました。



山下清は、、1922年(大正11年)に生まれて 1971年(昭和46年)に亡くなった緻密なはり絵で知られる画家。3歳の時にかかった病気が原因で知的障害児となり、その後養護施設「八幡学園」に入所。その施設の顧問であった精神科医師式場隆三郎が美術に造詣が深く、かれの指導を受けて「ちぎり紙細工」に強い興味をもち、上達する。束縛されることが嫌いなため、日本中を放浪して歩き、時々帰ってきては記憶に基づいて各地の風景を貼り絵にしました。



特に、花火を見ることが好きで、諏訪湖の花火大会にも度々見に来ていたようです。

放浪しているときは、鉄道の線路を歩いて、夜は国鉄駅の待合室のベンチで寝ました。駅を開放していたわけで、現代から見ると牧歌的な時代でした。



食べ物は農家や普通の家にお願いして、恵んでもらっています。断れると素直に引き下がり、次の家に行く。それでも、彼の人柄が外見にも滲みでるのか、必ず成功していたと手記に書いています。



有名になってからも、放浪の癖は治らなかった。そんな時には、泊めてもらった人に頼まれて、絵を描いて渡しました。ちゃんとお金をくれた人は少なかったそうです。たまには、サロンパスの社長が2000円、島根県の署長が5000円をくれたと書いています。

もっとも、手の込んだ貼り絵は完成するのに数日かかるので、学園に帰ってから記憶によって描き始めるとあります。放浪中は、リックサックには着替え程度の荷物だけで、スケッチブックや絵の具は持って行かなかった。驚異的な映像の記憶力を有していました。

そのため、放浪中に描いてあげた絵は、マジック(フェルトペン)での素描だったようです。実際、それならば1枚3分で描いたと述べています。

手の込んだ貼り絵、後年の油絵、焼き物は、学園やしかるべき人が所有しているので、数多い作品の多くは贋作の可能性が高いそうです。



ひまわりの絵が飾ってありました。

花の中心が、観察者の注意を強く引くので、横に歩きながらこの絵を見続けると、あたかもひまわりの花の向きが追ってくるように感じます。

京都のお寺にある龍の天井絵なども同様で、龍の目線が追ってくるなど、見る人の心理的な感覚によるものでしょうか。

~~追記(2013-09-04)~~







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