(2007.7.3付記)
本記事には誤りが含まれている可能性があります。末尾の付記参照。
(以下元記事)
久間防衛相が6月30日に行われた講演で次のように述べたと、今日の『朝日新聞』朝刊で知った(アサヒ・コムの記事の魚拓はこちら)。
《日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。》
私がこれを読んでまず思ったのは、(多くの人が思うだろうが)コトの経緯が違うのではないか? という疑問。
広島に原爆が落とされたのが8月6日。
ソ連の対日参戦は8月8日。
長崎に原爆が落とされたのが8月9日。
こんなことは常識ではないのか。
だから、久間の言う、
《長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。》
という話は成り立たない。
ソ連が既に参戦しているのだから、参戦阻止が目的であれば、長崎に落とす必要はなかった。
そもそも原爆投下はソ連の参戦を阻止するのが目的だったのか?
たしかに、米国はこの時期にはソ連の参戦を望んでいなかったと聞く。
しかし、何よりもまず、せっかく完成させた新兵器を実戦で使用してみること自体が目的だったのではないか?
それを、米国が日本をドイツや朝鮮のように分断させないために、早期終戦を図って原爆を落としたとは・・・・・・。
長崎選出の衆議院議員にしては、認識不足ではないだろうか?
そういった点で、この久間発言には問題があると思う。もし私がこの発言を攻めるとすれば、まずそこを突くだろう。
ところが、この発言に関連する朝日社会面の記事には、広島・長崎の被爆者などの声や野党のコメントが載っているのだが、いずれも、「しょうがない」を原爆肯定ととらえて、それを批判するものばかりだった。
こうしたコメントは、コメント全体の一部分だけしか用いられないことが多いそうだから、コメントした人がそれ以外の見解をも述べている可能性はある。
しかし、この記事を書いた朝日の記者に、ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の主張はおかしいという視点が欠けていることは間違いないだろう。
同社会面の記事中、広島市立大広島平和研究所の水本和実准教授(国際関係・核軍縮論)は「あの時点で日本本土が分断される可能性まではなかった。歴史認識自体がお粗末だ」と述べている。
久間の歴史認識がお粗末だとは私も思うが、この記事に見られる朝日記者の歴史認識もまたお粗末ではないだろうか。
さらに許し難いのが同社会面記事の次の箇所。
《久間防衛相は、原爆投下で戦争が終わったから、北海道がソ連に占領されずに済んだと受け取れる発言もしている。
元IAEA(国際原子力機関)広報部長の吉田康彦・大阪経済法科大客員教授(国際関係論)は「国民あってこその国土なのに、何十万人もの人が残虐な形で殺されても仕方がないというのは、議論が逆立ちしている。国民にとって許し難い発言だ」と話す。》
では吉田や朝日記者は、原爆投下がなければ戦局はどう推移したと考えているのか。
仮に断固として降伏せず、本土決戦という事態にまで至れば、私は米ソが国土を分断していた可能性は極めて高いと思う。現にドイツがそうなったのだし。
わが国がそうならずに降伏することができた大きな理由として、原爆による衝撃があったことは事実だろう。
つまり、原爆の被害者は、結果的にわが国を降伏に至らしめるための尊い犠牲となった。久間が言いたいのは、根本的にはそういうことだろう。
吉田や朝日記者は、原爆で何十万人もの人々が死ぬくらいなら、国土が分断された方がマシだと言うのだろうか。しかし、本土決戦が終結するまでには、やはり相当の犠牲が出ることになったのではないだろうか。それに、分断後も様々な悲劇を生むであろうことは、朝鮮やベトナム、ドイツの例が示しているのではないだろうか。どちらがマシなどと、一概に言えるものではない。
同社会面記事の「解説」の中で、野上隆男・編集委員は次のように述べている。
《国際法上、核兵器の使用が認められるかについて、国際司法裁判所は96年、「国家存亡のかかった極端な状況」を除きながらも、「人道法の原則と規則に一般的に違反する」との勧告的意見をまとめた。
だが、米国では今も、原爆を肯定する理屈として「原爆投下が戦争終結を早め、何十万人もの生命を救った」との主張が繰り返される。その発端は、長崎・広島の惨状が伝わるにつれてわき起こった核兵器使用への批判を抑える世論誘導策だったといわれる。
久間氏は防衛相という立場から、冷戦初期から現在に至る米核戦略への理解を示したのかもしれない。だが結局、米国内の誤った原爆肯定論に利用されるだけだ。》
朝日としては、「原爆投下が戦争終結を早め、何十万人もの生命を救った」との主張は、「誤った」ものであるらしい。
私は、「原爆投下が戦争終結を早め」たというのはそのとおりだと思うし、「何十万人もの生命を救った」というのも、その可能性は否定できないと思う。つまり、米側の主張には一理ある。
それは、原爆は悲惨だとか、核廃絶を目指すべきだとかいったこととは、全く別の次元の話である。
ところが、例えば拉致問題や領土問題では感情論を排せ、冷静な議論をとしきりに唱える人々が、こうした原爆の問題では、感情論に依拠して「しょうがない」とは何事だ! 被爆者の気持ちを考えろ! ケシカラン! となる。
このことは、彼らは結局、一般論として冷静な議論を求めているのではなく、単に彼らの都合のいいときにだけ冷静な議論を求めているにすぎないことを示している。
つまり、拉致問題や領土問題のように、わが国の国家主権に直結する問題では、正面から拉致被害者は見捨てよ、領土はくれてやるとは言いにくいから、冷静な議論をと主張し、強硬論を牽制する。ところが、原爆の問題は、反米論や政府批判の素材として利用できるから、たとえ理屈としては間違っていなくても、感情論でドンドン攻撃すればよい、ということなのだろう。
やっていることは天皇機関説を攻撃したような輩と同じなのだが、たぶん自分がそんなことをしているとは思いもよらないことだろう。
(2007.7.3付記)
ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の論は成り立たないと得意気に書いてしまいましたが、検討してみると、米軍がソ連の参戦を知らずに長崎への原爆投下を行った可能性があることがわかりました。この点についての記述は撤回します。十分検討しないまま記事を晒してしまい申し訳ありません。詳細は別記事にて。
本記事には誤りが含まれている可能性があります。末尾の付記参照。
(以下元記事)
久間防衛相が6月30日に行われた講演で次のように述べたと、今日の『朝日新聞』朝刊で知った(アサヒ・コムの記事の魚拓はこちら)。
《日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。》
私がこれを読んでまず思ったのは、(多くの人が思うだろうが)コトの経緯が違うのではないか? という疑問。
広島に原爆が落とされたのが8月6日。
ソ連の対日参戦は8月8日。
長崎に原爆が落とされたのが8月9日。
こんなことは常識ではないのか。
だから、久間の言う、
《長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。》
という話は成り立たない。
ソ連が既に参戦しているのだから、参戦阻止が目的であれば、長崎に落とす必要はなかった。
そもそも原爆投下はソ連の参戦を阻止するのが目的だったのか?
たしかに、米国はこの時期にはソ連の参戦を望んでいなかったと聞く。
しかし、何よりもまず、せっかく完成させた新兵器を実戦で使用してみること自体が目的だったのではないか?
それを、米国が日本をドイツや朝鮮のように分断させないために、早期終戦を図って原爆を落としたとは・・・・・・。
長崎選出の衆議院議員にしては、認識不足ではないだろうか?
そういった点で、この久間発言には問題があると思う。もし私がこの発言を攻めるとすれば、まずそこを突くだろう。
ところが、この発言に関連する朝日社会面の記事には、広島・長崎の被爆者などの声や野党のコメントが載っているのだが、いずれも、「しょうがない」を原爆肯定ととらえて、それを批判するものばかりだった。
こうしたコメントは、コメント全体の一部分だけしか用いられないことが多いそうだから、コメントした人がそれ以外の見解をも述べている可能性はある。
しかし、この記事を書いた朝日の記者に、ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の主張はおかしいという視点が欠けていることは間違いないだろう。
同社会面の記事中、広島市立大広島平和研究所の水本和実准教授(国際関係・核軍縮論)は「あの時点で日本本土が分断される可能性まではなかった。歴史認識自体がお粗末だ」と述べている。
久間の歴史認識がお粗末だとは私も思うが、この記事に見られる朝日記者の歴史認識もまたお粗末ではないだろうか。
さらに許し難いのが同社会面記事の次の箇所。
《久間防衛相は、原爆投下で戦争が終わったから、北海道がソ連に占領されずに済んだと受け取れる発言もしている。
元IAEA(国際原子力機関)広報部長の吉田康彦・大阪経済法科大客員教授(国際関係論)は「国民あってこその国土なのに、何十万人もの人が残虐な形で殺されても仕方がないというのは、議論が逆立ちしている。国民にとって許し難い発言だ」と話す。》
では吉田や朝日記者は、原爆投下がなければ戦局はどう推移したと考えているのか。
仮に断固として降伏せず、本土決戦という事態にまで至れば、私は米ソが国土を分断していた可能性は極めて高いと思う。現にドイツがそうなったのだし。
わが国がそうならずに降伏することができた大きな理由として、原爆による衝撃があったことは事実だろう。
つまり、原爆の被害者は、結果的にわが国を降伏に至らしめるための尊い犠牲となった。久間が言いたいのは、根本的にはそういうことだろう。
吉田や朝日記者は、原爆で何十万人もの人々が死ぬくらいなら、国土が分断された方がマシだと言うのだろうか。しかし、本土決戦が終結するまでには、やはり相当の犠牲が出ることになったのではないだろうか。それに、分断後も様々な悲劇を生むであろうことは、朝鮮やベトナム、ドイツの例が示しているのではないだろうか。どちらがマシなどと、一概に言えるものではない。
同社会面記事の「解説」の中で、野上隆男・編集委員は次のように述べている。
《国際法上、核兵器の使用が認められるかについて、国際司法裁判所は96年、「国家存亡のかかった極端な状況」を除きながらも、「人道法の原則と規則に一般的に違反する」との勧告的意見をまとめた。
だが、米国では今も、原爆を肯定する理屈として「原爆投下が戦争終結を早め、何十万人もの生命を救った」との主張が繰り返される。その発端は、長崎・広島の惨状が伝わるにつれてわき起こった核兵器使用への批判を抑える世論誘導策だったといわれる。
久間氏は防衛相という立場から、冷戦初期から現在に至る米核戦略への理解を示したのかもしれない。だが結局、米国内の誤った原爆肯定論に利用されるだけだ。》
朝日としては、「原爆投下が戦争終結を早め、何十万人もの生命を救った」との主張は、「誤った」ものであるらしい。
私は、「原爆投下が戦争終結を早め」たというのはそのとおりだと思うし、「何十万人もの生命を救った」というのも、その可能性は否定できないと思う。つまり、米側の主張には一理ある。
それは、原爆は悲惨だとか、核廃絶を目指すべきだとかいったこととは、全く別の次元の話である。
ところが、例えば拉致問題や領土問題では感情論を排せ、冷静な議論をとしきりに唱える人々が、こうした原爆の問題では、感情論に依拠して「しょうがない」とは何事だ! 被爆者の気持ちを考えろ! ケシカラン! となる。
このことは、彼らは結局、一般論として冷静な議論を求めているのではなく、単に彼らの都合のいいときにだけ冷静な議論を求めているにすぎないことを示している。
つまり、拉致問題や領土問題のように、わが国の国家主権に直結する問題では、正面から拉致被害者は見捨てよ、領土はくれてやるとは言いにくいから、冷静な議論をと主張し、強硬論を牽制する。ところが、原爆の問題は、反米論や政府批判の素材として利用できるから、たとえ理屈としては間違っていなくても、感情論でドンドン攻撃すればよい、ということなのだろう。
やっていることは天皇機関説を攻撃したような輩と同じなのだが、たぶん自分がそんなことをしているとは思いもよらないことだろう。
(2007.7.3付記)
ソ連の参戦が8月8日で長崎の原爆は9日だから、久間の論は成り立たないと得意気に書いてしまいましたが、検討してみると、米軍がソ連の参戦を知らずに長崎への原爆投下を行った可能性があることがわかりました。この点についての記述は撤回します。十分検討しないまま記事を晒してしまい申し訳ありません。詳細は別記事にて。
ただ、僕が思ったのは。ソ連の参戦を抑えると言うより、敗戦後に赤軍が起こした千島列島上陸の方に向けて言ったのでは無いか?と言う事です。
ヤルタ会談の時に、ドイツの降伏から3カ月後にソ連が対日参戦する事に合意しましたが、その時にかの留萌-釧路ラインの密約も成ったと朧気ながら覚えています。
まぁ、朝日を始めとするマスコミの皆さんがそこまで考えたとは思えませんが…
赤軍の準備不足で北海道上陸は中止されましたが、アメリカのこれ以上の侵攻は許さないと言う、原爆をチラつかせた無言の圧力もあったのでは無いか?とも思っています。
尤も。この人は大臣としての資質が足りないように思えるので、更迭した方が良いのでは無いか?とも思っていますが…
この人の空気読めない発言の数々で、どれだけ市ヶ谷の総本店の人達が火消しに回った事か…(汗)
とは言え、元防衛庁審議官の某氏のようにアホな事しかしてない人もいますけど…
とまれ。発言自体はさほど間違ったものでは無い、と思うのは確かです。
朝日の批判に、やや前のめりであり、些か感情的ではないのか。
このロジックを延長すれば、北朝鮮の核保有を日本の側が肯定してしまうように思えてしまう。
つまり、人的損失が少ないならば大量破壊兵器の保有や使用が安易に肯定されてしまう虞があるからだ。
北朝鮮側のロジックによれば核保有が、人的被害を最小化する手段と主張しているのであり、アメリカの原爆投下を肯定するならば北朝鮮の言い分に正当性を与えてしまうからである。
日本が北朝鮮核を容認しないならば、この部分は極めて慎重でなくてはならないだろう。
悲惨さなどは別次元だと言われるが、仮に核廃絶を願うならば、日本はなぜ核保有に反対するのか、しっかりした論理が必要であり、是認するかのような論は相手に付け入る隙を与えはしまいか?
率直な疑問であり、違和感でもある。
尤も管理人様が、核容認論者であるならば、この批判は成立しないのであろうが。
原爆投下を肯定的にとらえるようでは、北朝鮮の核保有の論理を否定できないではないか、ということですね。
私が言いたかったのは、歴史的事実として、原爆は日本の降伏を早めるのに効果があったということなのですが、北朝鮮の核との関連にまでは思い至りませんでした。
私は、金正日政権は一日も早くこの地球上から消滅してもらいたいと思っていますが、仮に北朝鮮の側に立って考えると、核大国である米国と対等に交渉するために、核兵器を保有するというその行動は、理解できます。
わが国は、核武装していないわが国に対する脅威となるという点において北朝鮮の核保有を批判すればよいのであり、何も核兵器自体を否定する必要はないと思います(それならば米国の核も否定すべきですし、ひいては日米安保も否定すべきということになるでしょう)。
>仮に核廃絶を願うならば
私は核廃絶など願っていません。そんなことは不可能だと思っています。
>尤も管理人様が、核容認論者であるならば、この批判は成立しないのであろうが。
そのとおりです。私は何も、この日米関係の下で今すぐ核武装すべきなどとは思いませんが、核武装という選択肢を自ら放棄する必要などさらさらないと考えています。
>発言自体はさほど間違ったものでは無い、と思うのは確かです。
原爆が降伏を早める契機となったという点については、私もそう思います。
報道を見ると、もっぱら「しょうがない」という一言だけが問題視されている模様です。
柳沢厚労相の「産む機械」発言の時と同じように思います。
朝日記者のおかしいところはまったく同意します。ソ連参戦を防いだという原爆の効果はあまり聞いたことがありません。誰が言い出したことなのでしょうか?
分割統治を防ぐことが目的だという意見も、その当時にアメリカとロシアが敗戦国を分割統治する事が決まっていたかどうかの検証が必要です。
後半部分については、同意できません。やはり原爆の効果を認めることは、核兵器容認であり、北朝鮮やイランの動きを規制することが出来なくなります。
核保有国すべてが、将来的に核兵器廃棄を前提にしない限り、新たな核兵器保有国を規制することは、矛盾だと思います。
深沢さんは、核保有国の核兵器をそのままにして、北朝鮮やイランを非難することをどう考えますか?
米国が大量の核兵器を持ちながら、北朝鮮やイランの核保有への動きを批判するのはおかしいという考え方には一理あると思います。北朝鮮やイランの側からすれば、NPT体制など大国の既得権確保のための試みと見えるでしょう。また、核廃絶を主張する人が、北朝鮮やイランの核には反対し、米国の核は不問に付すとすれば、それはダブルスタンダードだと言えるでしょう。
しかし、私は日本に居住する日本人ですから、中立公正な立場からではなく、自国の利益や安全を基準に物事を考えます。
北朝鮮やイランの核は、わが国を含む自由主義陣営にとって脅威となり得ます。一方、米国の核は、今のところわが国にとって危険なものではありません。
NPT体制について、多くの国が、何の疑問も抱いていないとは思えません。にもかかわらず、この体制が未だ維持されているのは、これ以上の野放図な核拡散は許すべきではない、そのためには既存の核保有国に優位を占めさせることになってもやむを得ないという点で合意しているからでしょう。核拡散により核戦争のリスクが高まるのに比べればましだと。
そういう観点から、私はNPT体制を支持しますし、北朝鮮やイランの核には反対しますが、北朝鮮やイランに核を放棄させる代わりに米国も核を放棄すべきだとは思いません。
また、米国がいつまでもわが国と同盟関係を維持するとは限らないのですから、わが国自身、核武装という手段をあらかじめ排除する必要はないと考えます。
現状の世界情勢では、アメリカやロシアの核兵器を廃棄することは、難しいでしょう。
しかし、数十年単位で考えて、大きな方向性として、核兵器は縮小から廃棄へ。このように考えるべきだと思います。
今は無理でも核兵器をやがては廃棄するのだから、これ以上新たな配備はやめよう。
こう呼びかけるのです。
この呼びかけは、軍縮への道に繋がります。
テロ行為に核兵器も軍備もまったく機能していないのが、今の世界情勢です。
軍縮から、外交による世界平和へ。中東情勢もイスラム過激派制圧も核兵器は何の効果も生みだしてはいません。
日本は、冷戦時代には、ソ連の、現状では中国、北朝鮮の防波堤の役割を担っているだけにしか思えません。
集団的自衛権を論議する例として、アメリカに向かうミサイルを日本が打ち落とせるか?
こうにような命題があります。これこそまさしくアメリカの防波堤の役割を担うだけだと思います。
アメリカに向かうミサイルを打ち落とす前に、東京・大阪は被爆しているはずですから。
私は、核廃絶が可能だとは思いませんが、軍縮は可能だと思います。
ただし、そのためには、相互に相手の軍備を検証する手段が保証されていることが前提となります。
そして、おおむね、民主制の国家ではそのような手段は保証されやすいでしょうが、独裁制の国家では困難でしょう。
ですから、独裁制の国家相手の軍縮というのは至難の業です。
正直者が馬鹿を見るといった事態にだけはしたくないものです。