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児童ポルノ規制法改正反対論に思う――そういう問題か?

2013-05-31 22:09:01 | 現代日本政治
 5月29日、自民、公明、日本維新の会の3党が児童ポルノ規制法改正案を衆院に共同提出したと報じられた。

 この件については、少し前に改正反対論の記事をBLOGOSで読んで、ちょっと思うところがあった。


1.定義があいまいという批判について

 山口浩・駒澤大学准教授の記事「嫌いな表現を守るということ」(2013年05月24日)より。

もともと現行法は、規制の対象となる「児童ポルノ」の定義自体に問題があるとかねてより指摘されていた。特に法第2条第3項第3号に規定されるいわゆる「3号ポルノ」は、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」というきわめて曖昧な定義となっている。自分の子どもや自分自身の写真も場合によっては児童ポルノとされかねないという意味で多くの人々を法的に不安定な状態にさらすだけでなく、いわゆる着エロ(着衣状態だが「性欲を興奮させ又は刺激する」とされる写真等)が対象となりにくいため、子どもの保護という観点でも不十分だ。

本来、子どもの権利保護は、この法律が第一に重視すべき目的であるはずだ。にもかかわらず、保護強化に直接関係する上記部分を放置して持ち出されているのが、単純所持禁止である。これまでは児童ポルノを作ったり販売・提供したりした者に規制範囲を限っていたから目立たなかったあいまいな定義の弊害が、実際に改正されれば多くの人々(女性も老人も子どもももちろん例外ではない)を脅威にさらすこととなる。この法案を作った人たちが、子どもの保護とは異なる意図をもっているのではないかと疑いたくなる。


 3号ポルノの規定は確かにあいまいである。
 しかし、法律における定義があいまいであることは往々にしてある。
 特に、この種の規制対象の定義を厳密に定めてしまっては、それを逆手にとって、その厳密な点だけをクリアした規制逃れがまかりとおりかねない。
 こうしたものは、ある程度あいまいにしておくべきなのだ。

 刑法にはわいせつ物頒布罪があるが、条文には

(わいせつ物頒布等)
第百七十五条  わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2  有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。


とあるだけで、「わいせつ」の定義はどこにもない。
 判例では、「わいせつ」とは「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する」ものを言うとされているが、これまたあいまいなものだ。
 実際のところは、警察、検察、裁判所の判断に委ねられている。そしてそれは、個々の事例によっても、社会の推移によっても変わっていくものだから、こうしたあいまいな規定が維持されているのだろう。
 児童ポルノについても、同様でいいのではないか。


2.非実在児童は被害を受けていないという主張について

 みんなの党の山田太郎参議院議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」(2013年04月26日)より。

自由な創作活動の自主規制による制限

 現行の法律は「実際にいる児童」のポルノに制限をかけています。逆に言うと実際にいない「架空の児童(マンガなど)」に対しては制限をかけていません。今回の改正案では将来的に「架空の児童」に対しても制限をかける可能性を持たせています。

 本来の法律の趣旨は実在する児童を保護するためです。しかし、この改正ではだれを保護するのでしょうか。マンガの中の児童は実際にいないので、被害は受けていませんし、もちろん保護することもできません。それどころか、マンガ自体の衰退を促進すると考えています。実際に韓国では、同様の話でマンガ文化の衰退が著しい状態にあります。


 先の山口准教授の記事も、同じようなことを述べている。

この条項で取り上げているマンガやアニメ等は作者による創作物であって、その制作にあたって子どもの性的搾取も性的虐待も行われていない。市場で売られても権利を侵害される子どもは存在しない。

子どもの保護と無関係なマンガ等の規制(の可能性)が持ちだされていることを、先の着エロの問題と重ねて考えてみると想像がつく。この法律案を作った人たちの関心は、子どもの保護そのものよりも、表現行為の規制にあるということだろう。


 何だか、非実在なのだから何をどう描こうが自由じゃないかと言われているようで、ちょっと恐ろしい。

 もちろん法の趣旨は実在する児童を保護するというものだろう。しかし、そのために、児童を性の対象とする風潮それ自体を抑制しようという方向で、マンガやアニメの規制も検討されていることぐらい、少し考えればわかりそうなものだ。
 山口准教授は、

その「意図」がよりはっきりと見えるのが附則だ。ここには、子どもの保護とは無関係な、マンガ等の表現物への規制につながる内容が含まれている。


と述べているが、何故「子どもの保護とは無関係」とあっさり切り捨てられるのか理解しがたい。

 また、山口准教授は、着エロを規制しないままマンガやアニメの規制に向かうのは問題があるかのように述べているが、では着エロを具体的にどう規制せよというのか。
 「衣服の全部を着けた児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」を追加せよとでも言うのか。さらにあいまいさが増すばかりではないか。
 それでいて単純所持禁止を「多くの人々」「を脅威にさらす」と批判するのだから、何を言っているのか理解できない。


3.およそ有り得ない事例を挙げて反対する手法について

 山田議員の記事より。

 例えばしずかちゃんのお風呂のシーンについて考えてみましょう。現実的にはしずかちゃんのお風呂のシーンは法律による規制の対象にはならないと言われています。しかしながら、どこまでならば今回の規制の対象となるかについて明示されていません。つまりグレーゾーンが幅広い範囲で存在すると言うことになります。

 グレーゾーンの恐いところは、自主規制を生むと言うことです。もう少し過激なマンガを発表することで懲役刑になる可能性があれば誰もそんな絵は書かなくなります。そしてやがては、しずかちゃんのお風呂シーンを書くことですら恐くなって書けなくなってしまうのです。

 そして、しずかちゃんの絵を児童ポルノだと判断し、作者を逮捕するのは基本的には警察や検察になります。いつ逮捕されるのか分からない状態で、しかもその基準がきわめて曖昧なままでは、自由な創作活動を続けていくことは難しいということが分かって頂けますでしょうか。


 山田議員は、別の記事「児童ポルノ規制法について、安倍総理と麻生副総理に迫りました!」(2013年05月10日)でも、参議院における次のような問答を紹介している。

○山田太郎君
 麻生副総理なら理解していただけるかなと思って、今回麻生総理を指名させていただきました。表現の自由ということで憲法にもかかわる問題ですので、この件、安倍総理にもお伺いしたいと思いますが。
 
実は、この自主規制、一九九九年十月時点でもうかなり自主規制がありまして、文化庁メディア芸術賞で大賞を取りました複数の漫画すら、この児童ポルノ法が通ったときに、紀伊国屋の書店五十七店舗、それから大阪の旭屋書店、そんなところからもうなくなってしまったという事態を生み出しました。実は、水島新司先生の野球漫画「ドカベン」、つまり、私と同じ名前の山田太郎という人が主人公の漫画なんですけれども、その中でも八歳以下のサチ子という妹が入浴シーンで出てきておりまして、こんな本なんかも発禁本になる可能性もあると。そんなことが自主規制、あるいはまかり通りますと、私としてもちょっとこれはゆゆしき事態だなと、こんなふうに思っています。隣の国、韓国におきましても、やっぱり同種の規制を行ったために自主規制を始めて漫画やアニメが大きな影響を受けていると、こういうふうに聞いています。


 しかし、いったい誰がしずかちゃんやサチ子の入浴シーンを児童ポルノとして規制すべきだと主張しているというのか。

 改正反対論の中には、家族の水着写真を持っていても逮捕だとか、メールで画像ファイルを送りつけられだけでも逮捕だとか、およそ有り得ない主張を平然と述べる者もいるが、全く説得力を覚えない。

 山口准教授は、「この件についてメディアの扱いは総じて小さく、あまり関心を持たれていないようだ。」と述べている。私の印象もそのとおりで、私が購読している朝日新聞は、紙面上では法案の3党共同提出を報じていない。
 ネット上のニュースでは見かけたほか、これに対するマンガ家や出版社側の反対論も報じられていたが、それほど重大視されていないように見える。
 それは、こうした極端な反対論が妥当でないことを国民の多くが理解しているからだろう。


4.表現の自由は絶対か?

 山田議員の記事「表現の自由を大幅に規制する法案に反対」より。

 もちろん、マンガなどであったとしても児童に対する性的表現に嫌悪感を抱く方はいると思います。ただし、現行の法律でもわいせつなマンガは取り締まられていますし、これ以上の過度な表現の規制は必要ないと考えています。
 
 そして、嫌いだから制限すると言うのであれば『納豆が嫌いだから、納豆を禁止する』という考え方と何ら違いが無いのです。私も納豆は苦手ですが、これを禁止すべきとは考えていません。食べなければいいだけです。同様に、殺人事件のあるサスペンスドラマやコナンなどのマンガも規制する話と全く同様だと理解して頂きたいのです。


 山口准教授の記事より。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名なことばがある(18世紀フランスの哲学者ヴォルテールのことばとよくいわれるが実際にはちがうらしい)が、私たちはもう一度、民主主義の原点に立ち返るべきだ。表現の自由とは、自分がよいと思う表現だけ保護すればいいというような考え方ではない。人間の考え方は多様であり、その多様性こそが民主主義の価値を担保する。自らにとって都合の悪い表現、自分が嫌いな表現の存在を認めて初めて表現の自由と呼べるのだ。


 「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
 これには私も全く異論はない。
 しかし、児童ポルノは「意見」ではない。
 そして、表現の自由はいついかなる場所でも全面的に認められなければならないというものでもまたないだろう。

 山田議員や山口准教授は、例えばわいせつ物頒布罪や公然わいせつ罪についてはどう考えるのか。
 民主主義を担保する多様性を認めるべしとして、罪とすべきではないと考えるのか。

 あるいは、昨今問題になったヘイトスピーチはどうか。先進国では法規制が当然とも言われている。

 山口准教授も少し触れているように、児童ポルノの規制は国際的動向に基づくものである。G8ではロシアとわが国を除く6か国が単純所持を禁止しているという。マンガやアニメを既に規制している国もある。
 表現の自由の保障は絶対的なものではない。
 これは結局のところ、どこで線を引くのかという問題にすぎない。

 山口准教授は、記事の最後でマルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を引用している。
 「自民党がナチスだと言いたいわけではもちろんない」と断ってはいるが、これはしかし、少しでも表現規制を認めていけば、やがてはナチスが支配したような社会になるぞという警告だろう。
 しかし、こんにちでもある程度の表現規制は存在するのだから、こんなものはただのアジテーションでしかない。
 山口准教授は、

児童ポルノ禁止法改正に反対というと、すぐに「お前は子どもを守りたくないのか」とか「エロ教授め」みたいなことをいう人が出てくるわけだが、もちろんそういう話ではない。そういうレッテル貼りこそが最も危険な発想だ。


とも述べている(本当にそんなことを言う人がいるのだろうか)が、これもまた逆の立場からのレッテル貼りでしかない。

 レッテル貼りでない、具体的な線引きの議論がなされることを望む。