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韓国の憲法改正の歴史

2013-05-13 00:47:07 | 韓国・北朝鮮
 5月10日付朝日新聞2面のシリーズ「憲法はいま」から。

最低投票率を設定■総選挙を経て発議
 各国、独自の改憲手続き

〔前略〕

 改憲の際に国民投票にかけなければならない国はデンマークや韓国、スイス、豪州など。フランスやイタリア、ロシア、スペインにも国民投票の規定はあるが、国民投票なしに改正できる場合もある。

 ただ、大半の国で改憲手続きに通常の法改正より厳しい要件を設けている。米国は上下両院の3分の2以上の賛成で発議、4分の3以上の州議会の承認が必要になる。ドイツも、連邦議会と連邦参議院の3分の2以上の賛成が条件。フランスは上下両院の過半数で発議できるが、成立は両院合同会議で5分の3以上の賛成が必要だ。

〔中略〕

 韓国の改憲手続きはもっと厳しい。一院制の国会の3分の2以上の賛成で国民投票にかける点では日本と同じ。しかも、国民投票には有権者の過半数が投票しなければ成立しない「最低投票率」を設けている。それでも第2次大戦後、9回の改正を行った。


 ン?
 これでは、韓国はこの「厳しい」条件の下で、9回の改正を行ってきたようではないか。
 いやいや、この条件は1987年のいわゆる民主化により成立した現行憲法(第6共和国憲法)のもので、これ以後韓国の憲法は改正されていない。
 以前にも少し書いたが、これより前の8回の改正の多くは独裁政権の下で行われたものであり、他の民主制の国と単純に比較するのは相当でない。

 これは、戦後9回という数字のみに着目したための誤解だろう。
 それにしても、この記事を書いた記者は韓国に独裁政権の時代があったことを知らないのだろうか。

 こんな誤解が広まるのを少しでも防ぐため、韓国の憲法改正の歴史をごく簡単にまとめてみた。


1.憲法制定(1948.7.17)

 1948年5月、国連の監視下で制憲議会議員の総選挙が実施された。成立した制憲議会(議長は古くからの独立運動家であった李承晩)において憲法が制定され、同年7月17日に公布、即日施行。
 大統領は国会による間接選挙で選出され、任期は4年。憲法改正は、大統領または国会在籍議員の3分の1以上による発議に基づき、国会でその在籍議員3分の2以上の賛成で確定されるものとされた(国民投票はない)。
 同年7月20日、国会は李承晩を初代大統領に選出し、同年8月15日、政府は大韓民国樹立を宣言した。


2.第1次改正(1952.7.7)
 国会で野党が多数派を占めたため再選が困難となった李承晩は、大統領を国民の直接選挙により選出されるよう変更する改憲案を提出し、反対する野党議員を逮捕したり暴力団に脅迫させるなどの圧力を加え、議場へ連行して、討論を省略し、起立投票の方式で1952年7月4日改憲案を可決させた。
 同年8月5日には国民による正副大統領の選挙が行われ、大統領には李承晩が再選された。


3.第2次改正(1954.11.29、四捨五入改憲)
  
 憲法は大統領の3選を禁止していたが、初代大統領に限りこれを可能とする改憲案を与党自由党が1954年9月8日に国会に提出。同年11月17日の採決では、在籍議員203人中、賛成135票で、改憲に必要な3分の2には1票足りず、同案は否決された。しかし、2日後に自由党議員のみが出席した国会で、203の3分の2は四捨五入すれば135であるとして、否決を取り消し可決を宣言した。
 1956年5月15日に行われた第3代正副大統領選挙では、野党候補の急死にも助けられ、李承晩が3選を果たした。副大統領には野党民主党の張勉が当選した。


4.第3次改正(1960.6.15、第2共和国憲法)

 1960年3月15日に行われた第4代正副大統領選挙では、これまた野党候補の急死により李承晩が4選を果たし、副大統領にも与党自由党の李起鵬が当選した。しかし、あらゆる手口を弄した不正選挙に国民の不満は高まり、いわゆる4月学生革命によって政権は倒れ、李承晩はハワイへ亡命し、李起鵬は自殺した。
 許政外相を首班とする過渡政権の下、李承晩独裁への反省から、大統領制から議院内閣制へ変更するなどの改憲案が同年6月15日圧倒的多数の賛成により国会で可決、即日公布された。副大統領は廃止された。
 同年7月29日国会議員選挙が実施され、李承晩時代の第1野党だった民主党が圧勝し、首相に張勉、象徴的な地位となった大統領には尹フ善(フはさんずいに普)が選出された。


5.第4次改正(1960.11.29)

 3月の不正選挙に従事した者を遡及して厳格に処罰すべきとの学生デモの高まりを受け、遡及罰を認める特別法を根拠づけるための改正。


6.第5次改正(1962.12.26、第3共和国憲法)

 政権を獲得した民主党は張勉らと尹フ善らに分裂して対立し、政界は混乱し、経済もはかばかしくなかった。学生は北朝鮮との交流を主張して盛り上がった。危機感を募らせた軍部は1961年5月16日クーデターを起こし、張勉内閣を総辞職させ、国会を解散し、統治機構として軍人による国家再建最高会議を設置した(議長は陸軍参謀総長の張都暎、間もなく真の指導者である朴正煕がとって代わる)。尹フ善大統領は国家の正統性維持のため留任したが、旧来の政治家の活動を禁止する政治活動浄化法が1962年3月に制定されたことに抗議して辞任した。
 軍事政権は民政移管に備えて憲法改正作業を進めたが、これは憲法に規定された改正手続に拠るものではなかった。また、この憲法改正は国民投票により確定するとされた。1962年11月、国家再建最高会議は憲法改正案を議決し、これは同年12月国民投票によって確定され、1963年12月に施行された。
 この改正により、議院内閣制から再び大統領制に戻った。また、憲法改正における国民投票制度が新設された。
 1963年8月、第5代大統領選挙が行われ、朴正煕が尹フ善を破って当選。1967年に再選。


7.第6次改正(1969.10.21 3選改憲)

 憲法の3選禁止規定を3選までは可能とする改憲案を、野党新民党の強い反対にもかかわらず、与党民主共和党が単独で強行可決。国民投票は圧倒的多数が改憲を支持した。
 1971年4月、第7代大統領選挙で朴正煕は「これがわたくしの最後の選挙」と訴え、新民党の金大中を破って3選を果たした。しかし金大中の人気は高く、同年5月の選挙でも新民党は議席を伸ばした。


8.第7次改正(1972.12.17、第4共和国憲法(維新憲法とも))

 朴正煕大統領は米中接近の中、北朝鮮との対話を進め、1972年7月には南北共同声明を発する一方、国家の団結を図るとして、同年10月17日に非常戒厳令を布告し、国会を解散、政治活動を禁止した(10月維新)。
 同月10月27日に改憲案が公告され、11月21日の国民投票で圧倒的賛成を得て確定され、同年12月27日に公布された。
 大統領の直接選挙制は廃止され、統一主体国民会議という国会とは別の新議会を設け、これが大統領を選出し、また国会議員の3分の1を選出するとされた。大統領の任期は4年から6年となり、重任禁止規定は廃止された。
 基本的人権には留保規定が設けられ、大統領は国会を介さずに超法規的な緊急措置を発令することができるとされ、実際に多用された。極めて独裁色の強い改憲であった。
 朴正煕は1972年12月統一主体国民会議によって第8代大統領に選出され(4選)、1978年12月にも同様に選出された(5選)。


9.第8次改正(1980.10.27、第5共和国憲法)

 維新体制の下でも民主化闘争は高まり、米国との関係も悪化した。1979年10月26日、金載圭中央情報部長は対立を深めていた大統領警護室長を射殺し、続いて朴正煕大統領をも射殺した。
 外交官出身の崔圭夏首相が統一主体国民会議により大統領に選出され、民主化に向けた作業が進められた。金大中らが政治活動を再開した。
 しかし、射殺事件の捜査を進める国軍保安司令官の全斗煥を中心とする勢力は、同年12月12日の粛軍クーデターで鄭昇和陸軍参謀総長を事件に関与した容疑で逮捕して軍の実権を握り、1980年5月17日には非常戒厳令を全国に拡大して政治活動を禁止し、金大中らを逮捕し、金大中支持派が起こした光州の暴動を軍を投入して鎮圧した。
 同年8月、全斗煥は統一主体国民会議により第11代大統領に選出され、憲法改正を進めた。改正案は同年10月22日に国民投票により確定され、同月27日に公布された。
 統一主体国民会議は廃止され、大統領選挙人団による間接選挙となった。任期は7年となり重任は禁止され、任期延長または重任変更のための改憲は当代大統領には及ばないとされた。
 1981年1月非常戒厳令が解除され、同年2月に大統領選挙人団(5278人)が国民により選出され、同月25日に選挙人団による選挙で全斗煥が第12代大統領に選出された。
 改憲の発効に伴い国会議員の任期は終了するものとされ、同年3月に新たな国会議員総選挙が実施されたが、従来からの主要な政治家はなお活動を禁止されており、立候補できなかった。金大中は光州事件の首謀者として死刑判決を受け、のち無期懲役に減刑され、亡命した。


10.第9次改正(1987.10.29、第6共和国憲法(現行憲法))

 全斗煥の任期満了が近づき、大統領の直接選挙を求める民主化運動が高まる中、全斗煥の後継者と目された盧泰愚は1987年6月29日、いわゆる民主化宣言を行い、直接選挙も受け入れた。同年9月には、与野党が共同で作成された改憲案が国会に発議され、10月に議決され、国民投票により確定された。
 大統領は直接選挙に戻され、任期は5年、重任は禁止された。
 同年12月、第13代大統領選挙が実施され、野党は旧来の指導者である金泳三、金大中、金鍾泌がそれぞれ立候補したため分裂し、盧泰愚が当選した。
 このいわゆる民主化以後、韓国の憲法は改正されていない。


 つまり、韓国の憲法改正は、第3次、第4次、第9次の改正を除き、いずれも時の政府により強権的に行われたものだ。何も「厳しい」条件の下で行われたものではない。
 しかも、その多くが、政権維持のために、大統領の3選禁止を廃止したり、直接選挙を間接選挙に改める(あるいはその逆)といったものになっている。
 第5次以降の改正では国民投票も行われているが、そのうち第5次、第7次、第8次は野党の政治活動が禁止され、言論の自由が極度に制限された中で行われたものである。そんな国民投票に何の正統性があるだろうか。

 こんなものを含めて「それでも第2次大戦後、9回の改正を行った」などと、あたかもわが国より厳しい条件の下でたびたび民主的に改憲が行われたかのように、読者を惑わさないでいただきたいものだ。


参考文献
閔炳老(ミンビョンロ)全南大学講師「諸外国の憲法事情 韓国」国立国会図書館調査および立法考査局、2003.12(国立国会図書館のウェブサイトから)
池東旭『韓国大統領列伝』中公新書、2002