名張毒ブドウ酒事件、弁護団が特別抗告(朝日新聞) - goo ニュース
この事件については、昨年12月の再審開始決定取り消し決定の時に、これを取り上げた『朝日新聞』と『毎日新聞』両紙の社説について書くつもりでいたのだが、いろいろあって書けなかったので、この機会に書いておく。
なお、私は今回の報道以外に、この事件について全く知識はない。したがって、この事件の内容については触れない。
『毎日新聞』の社説は、取り消し決定を批判し、
《そもそも刑事裁判では「疑わしきは罰せず」を原則としているのに、二つの裁判所が「無罪」と判断した被告を死刑に処してよいのか、という素朴な疑問もぬぐえない。》
と述べている。
「二つの裁判所が「無罪」と判断した」というのは、一審判決と、再審決定のことだ。
しかし、二審判決は有罪として死刑判決を下し、最高裁も上告を棄却して死刑が確定した。
そして、今回の再審請求は第7次だという。つまり、これまでに6度棄却されている。
ウィキペディアの「名張毒ぶどう酒事件」の項を見ると、第5次と第6次の再審請求は、それぞれ異議申立、特別抗告を経て棄却されている。つまり、3回ずつ判断されているということだ。第1次~第4次の再審請求に異議申立、特別抗告があったかどうかはわからない。検索してみたが、すぐには出てきそうにない。
仮に第1次~第4次で異議申立以降の手続を取らなかったとすると、判断は4回。第5次と第6次の合計が6回。それに第7次の再審開始決定に対する検察側の異議申立を受けての取り消し決定(今回の決定)と、最初の二審、三審を合わせると、計13回(第1次~第4次で異議申立以降の手続を取っているなら、もっと増えるはずだが)。
社説の論法を用いるなら、2つの裁判所が「無罪」と判断し、13(仮)の裁判所が「有罪」と判断したことになる。これを、「疑わしきは罰せず」として、無罪とすべきなのか。
毎日が、今回の第7次再審請求における新証拠をもって奥西死刑囚の無罪を確信すると主張するのは別に構わない。
だが、「二つの裁判所が「無罪」と判断した」故に「疑わしきは罰せず」だなどというなら、残る13(仮)の裁判所の判断は何だというのか。しかも、上級の裁判所の判断が下級の裁判所に優先するのは当然ではないか。
これでは、一度でも無罪と判断されれば、上級審で有罪が確定し、再審請求が棄却され続けたとしても、「疑わし」いから無罪だということにならないか。毎日は詭弁を弄している。
「疑わしきは罰せず」あるいは「疑わしきは被告人の利益に」といった言葉は、現代の刑事訴訟における原則である。
検察側が立証を尽くしても、なお裁判官が間違いなく有罪であるという確信を得られなかった場合、つまり有罪かどうか疑わしい場合には、「疑わしきは罰せず」に従って無罪を言い渡すことになる(裁判所のホームページ)。
また、75年のいわゆる白鳥決定で、この原則が再審開始の判断においても適用されるとされている。
第3次再審請求の棄却は76年なので、この時以降の再審にまつわる判断においては、当然白鳥決定が考慮されているだろう。その上でなお棄却され続けてきたわけだ。つまり、「疑わし」いとすら判断されなかった。
そして、今回の第7次再審請求の原審において、新証拠を受けて、ようやく「疑わし」いとする判断が下された。しかし検察側の異議申立を受けて、別の裁判官は、「疑わし」くないと、新証拠と旧証拠を総合判断しても有罪は揺るがないと判断した。
このように、「疑わしきは罰せず」の原則とは、個々の裁判において、裁判官が判断を下す上で適用されるべきものである。それが、毎日の社説では、単に疑わしければ何でも原則無罪であるかのように誤解しているような印象を受ける。
ちなみに、同日の朝日の社説も、同じく「疑わしきは罰せず」の原則を援用して今回の決定を批判している。
しかし、
《再審を求めるなら、疑問の余地のない無実の新証拠を出せ。今回の裁判官たちは、そう要求しているように思える。
確かに安易に再審を認めては、三審制が揺らぐ。だが、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則は再審開始の判断でも適用される、としたのが75年の最高裁決定だった。これに基づき、80年代には4件の死刑事件で再審が行われ、無罪が確定した。 》
と述べているように、この原則の趣旨を正しく理解した上で、取り消し決定を批判している。
この社説はサイト「アサヒ・コム」からは既に消されているので、以下に全文を掲げる。
《ブドウ酒事件 疑わしきは罰するのか
疑わしきは罰せず、ではなかったのか。
名古屋高裁が、名張毒ブドウ酒事件で再審を認めないと決定した。決定書を読むと、どうしても疑問がわいてくる。
45年も前に三重県の山里で起きた事件である。懇親会でブドウ酒に毒が入れられ、5人が死んだ。犯人とされた奥西勝死刑囚が再審を求め続けてきた。当時35歳だったが、いまは80歳になった。
高裁は今回、弁護団のいくつかの主張を認めながらも、「その証拠価値には限界がある」「別の可能性も否定できない」という論法で再審請求を退けた。
昨年4月、同じ高裁の別の裁判官たちがほぼ同じ証拠を基に、確定判決には疑いがあると判断した。それを百八十度ひっくり返したのは、異議を申し立てた検察の新証拠というよりも、無罪の厳密な立証を求める裁判官の姿勢である。
たとえば、飲み残しのブドウ酒の分析がそうだ。
特定の成分が検出されておらず、毒物は自白とは別の農薬だったのではないか。そうした弁護側の新鑑定が昨年の決定の決め手になった。凶器が違っていては、前夜から農薬を準備していたという自白の信用性が揺らぐからだ。
だが今回は、成分が分解して検出できなかった可能性もある、として退けた。
上から張られた紙が破れないように、別の人物が巧妙にブドウ酒瓶の栓を開け、毒をあらかじめ入れていた可能性についての判断も同じだ。弁護団が実演してみせたが、高裁は実際に行われたかどうかは分からないとした。
再審を求めるなら、疑問の余地のない無実の新証拠を出せ。今回の裁判官たちは、そう要求しているように思える。
確かに安易に再審を認めては、三審制が揺らぐ。だが、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則は再審開始の判断でも適用される、としたのが75年の最高裁決定だった。これに基づき、80年代には4件の死刑事件で再審が行われ、無罪が確定した。
名張事件が難しい裁判であることは間違いない。事件で妻と愛人を亡くした奥西死刑囚は捜査段階でいったん自白したが、すぐに翻した。川に捨てたという農薬の瓶は見つかっていない。農薬を混入させている現場を見た人もいない。
一審は、自白は信用できないとして無罪を言い渡した。二審は死刑、それが最高裁で確定した。昨年、7度目の請求でやっと名古屋高裁が再審を認めた。
奥西死刑囚は、無罪から死刑へ、さらに事実上の無罪認定から再び死刑へと変転した。だが、二つの法廷が犯人とするには疑いがあるとした事実は重い。
昨年の再審決定にあたって、私たちは社説で「直ちに再審を始めるべきだ」と主張した。この考えに変わりはない。
弁護団は最高裁に特別抗告をする。最高裁は入り口の議論を続けるのではなく、速やかに再審の法廷で決着をつける道を選ぶべきだ。 》
また、朝日社説は、再審開始決定はあくまで入り口であり、 有罪を疑うべき新証拠が出てきた以上は再審を開くべきだと唱えているだけで、毎日のように再審開始決定をもって「事実上の無罪」などとはしていない。その点、やはり見識があると思う。
なお、毎日の社説は、
《奥西死刑囚の拘置は、37年に及ぶ。87年に95歳で獄死した帝銀事件の平沢貞通・元死刑囚の約39年の記録に迫ろうとしている。自由刑とは異なる死刑囚の拘置の長期化についても、人権の観点から検討されてしかるべきだ。》
としめくくっている。
しかし、どう検討せよと言うのか。長期に及んだ場合は刑の執行を中止して釈放することも検討せよと言うのか。拘置が長期に及んだのは、平沢も奥西も再審請求をし続けたからではないのか。再審請求をしない者は順次死刑に処されるのに、再審請求をし続けることで、拘置が長期に及んだとして死刑を免れて釈放されるのはおかしくないか。だからといって、再審請求している者を簡単に死刑に処するわけにもいくまい。したがって、拘置の長期化はやむを得ないのではないか。
(2007-01-07 0:25 一部修正)