silverfox という方の「三角点」というブログがある。昨年12月30日の「リベラル系ブログは kaetzchen 氏との関係を見直せ」という記事のことを知って以来、注目していた。
この「三角点」の過去記事に、高島俊男を批判したものがあることに最近気付いた。昨年12月8日の「「衆寡敵せず」と「合衆国」」と、同月16日の「高島俊男氏の妄言 ─序数と基数の区別がつかない日本人の誤り」の2つだ。
私は高島俊男の著書のファンだ。たばこに関する見解のように時々納得しがたいものもあるが、たいていは面白く読んできたし、影響も受けていると思う。
しかし、silverfox さんの「「衆寡敵せず」と「合衆国」」によると、高島の文は必ずしも信頼できるとは限らないという。これは私にとっては重大な問題だ。
そこで、とりあえずこの記事で取り上げられている「合衆国」の呼称の問題について、検討してみることにした。
高島俊男は、『お言葉ですが・・・ それはさておきの巻』(文春文庫版では『お言葉ですが・・・ 2 「週刊文春」の怪』)に収録されている「「合衆国」とは何ぞや?」というエッセイで、おおむね次のように述べている。
1.「合衆国」を「合州国」と表記する論者が一部にいるが、程度の低い駄洒落である。
2.アメリカを「合衆国」としたのは江戸幕府の役人であるが、彼らとて United States of America の「States」を「衆」と訳したのではない。選挙により頭目を任期制で選ぶという、かの国の政体を聞いた幕府の役人が、支那の『周礼』という書物に「大封之礼合衆也」(国の境域を定める儀式の際は国人がみな集合する)という文があることを想起して、「合衆国」と呼んだのだ。
3.以後、「合衆」の意味には多少の揺れがあったようで、例えば福沢諭吉は『文明論之概略』で、「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いている。
4.「合衆国」は「合州国」の誤りだと主張する人は、「States」を「州」と訳すことに何故疑問を持たないのだろう。アメリカの「State」は「Commonwealth」ないし「Nation」と言い換え得るものであり、「合衆国」が気に入らないなら「アメリカ連邦」とでも言うべきで、何故「合州国」などと下らない駄洒落を言う必要があろうか。
5.ついでに「共和」の出典について述べる。(省略)
これに対しsilverfox さんは、「「衆寡敵せず」と「合衆国」」で、おおむね次のように述べている。
A.「The United States of America」 は「アメリカ合州国」と書くのが良いのではないかという意見があるが、ネットで検索するとこの意見は大層叩かれている。その論拠の多くが高島俊男の「「合衆国」とは何ぞや?」だ。
B.しかし,高島は,「合衆国」は republic の訳語であると主張しているにすぎず、「the United States」 の訳語であることを説明するものではない。したがって高島の文は,「the United States」を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。
C.私(silverfox)は高島の文を読んで上記のような違和感を覚えた。そして、「合衆国」の「衆」は「衆寡敵せず」の「衆」ではないかと思った。「states」 という「複数」を表現するために「多くの」という意味の「衆」を使ったのではないか。
D.最近、早稲田大学の千葉謙悟氏が精緻な調査をされていることを知った(http://nihon.korea.ac.kr/ronbun/060318sympo/chiba.pdf)。私(silverfox)は高島説よりこの千葉論文の方のはるかに説得力を覚える。
千葉によると、「合衆国」は 1844 年以前にアメリカ人宣教師ブリッジマン周辺で 「the United States」 の漢訳語として作られたもので,「衆国」は「多くの国」という意味を意図したものである。これが日本でも使われるようになったのは 1848 年頃である。ところが,日本では「衆」は大勢の人間の意味で使われるため,「合衆」は「大衆が集まる」と解釈されるようになった。高島説はこのように変容した後の意味を本来の意味としたものである。
E.高島は『周礼』からとったとしているが、これは高島の想像によるものであって根拠があるわけではない。それでもこれが定説であるかのようにネット上で広まっているのは,如何にもネットらしい現象である。
F.高島の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだ。
私は最初にsilverfox さんのこの文を読んだとき、説得力を覚え、なるほど高島の他の文章にも注意する必要があるなと思った。
その後、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」を読み直し、さらにネットで
会議室:「ことば会議室」アメリカ合衆国
アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集
などを読んだ結果、次のように考えるに至った。
まず、高島が、江戸幕府の役人が「合衆国」と名付けたとしていること、これはやはり誤りだろう。
日本より先に中国(清)に用例があるのだから、中国で用いられていたものが日本に伝わったと考えるのが自然だろう。中国と日本が別々に「合衆国」という呼称を生み出したとは考えにくい。
この点については、高島は読者からの指摘を受け、文庫版ではその旨の追記をしている。
高島の『お言葉ですが・・・』の文春文庫版は「あとからひとこと」と題して後で判明したことなどの追記がなされている。この「「合衆国」とは何ぞや?」にも、文庫版では、読者からの御教示を受けたとして、
・日本より中国が先行していたこと
・1844年の望厦条約で最初に使用されたこと
・この訳語をつくったのは当時マカオに在住したドイツ人宣教師カール・ギュツラフらであること
・ギュツラフが周礼の言葉を知っていたとは思われないので、清朝官僚との合作であると思われること
を追記している。
次に、「合衆国」の語源は何なのか。
上記の「アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集」を見ると、「合衆」という言葉が『周礼』に見られるのは確かなようだ。
しかし、「合衆国」と名付けた人が、『周礼』に基づいて考案したのかは、わからない。
「資料集」によると、中国起源との立場をとる人でも、『周礼』の名は挙げていない。
にもかかわらず、高島は『周礼』が起源だと断定している。silverfox さんが「これは高島氏の想像であって根拠があるわけではない。」と述べるのももっともだ。
次に、「合衆国」の意味について。
silverfox さんが挙げている千葉謙悟は、「合衆国」の元々の意味は「衆を合した国」ではなく「衆国(多くの国)を合した」であると考えている(silverfox さんも同意見なのだろう)。しかし、リンクが張られている千葉の論文は、「衆」の字の中国と日本での意味の違いにより、その後「合衆国」の意味が日中で変遷していったことを論証しているのであって、「衆国(多くの国)を合した」説については、この論文の参考文献に挙げられている千葉の2004年及び2005年の論文を読む必要がありそうだ。残念ながらネット上では見つからなかった。したがって現時点では、千葉説が妥当なのかどうか判断しがたい。
そして、千葉自身が述べている(p.10)とおり、先行研究は「合衆」を「衆人が協力して経営する国」と解釈してきたのである。千葉説は新説なのだ。
したがって、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」が発表された1996年当時、当時の通説に従って高島が合衆国の意味を説明しているのは当然だろう。
あと、silverfox さんは、
《高島氏が書いているのは,「合衆国」は republic の訳語であると主張するものであり,"the United States" の訳語であることを説明するものではない。》
というが、高島は、「合衆国」は republic の訳語であるとは主張していない。米国の政体を聞いた幕府の役人が『周礼』に基づいて「合衆国」と名付けたとしているだけだ。
高島は、のち「合衆」の意味には多少の揺れがあったとして、福沢諭吉が「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いていることを挙げているが、その中で、
《一つは、「合衆政治にて代議士を撰ぶに入札(いれふだ)を用いて多数の方(かた)に落札するの法あり」のごときもの。これはおおむね今日の「民主」の意味であって、幕府の役人の意図に最も近い。》(ルビは丸括弧に改めた)
と述べている。つまり、高島は、当初の語義は「民主」に近いと考えている。
silverfox さんは、続けて、
《したがって高島氏の文章は,"the United States" を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。》
と述べているが、そうだろうか。
高島のこのエッセイの趣旨は、「合衆国」という言葉が既にあるのだからそれを使えばいいし、それが気に入らなければ「アメリカ連邦」とでも呼べばよい。「がっしゅうこく」の音に引きずられて「合州国」などという珍妙な表現をとる必要はないではないか、「State」と「州」と訳すこともおかしいのだから、というものだろう。
これは、「"the United States" を「合州国」と書くことへの批判」としては十分成立していると思う。
まとめると、
・高島が江戸幕府の役人が考案したとしたのは誤り(高島も指摘を受けて修正)
・高島は『周礼』が語源と断言しているが、確たる証拠はないのでこれも不適当
・しかし、合衆国が「衆人が協力して経営する国」の意味で用いられてきたとするのは通説だから、その点では高島は間違っていない。
・「州」の意味を考えても、「合州国」という表現は不適切
・千葉論文は興味深いが、検証できなかった
となる。
あと、silverfox さんは、「合州国」使用者の本来の意図を理解していないように見受けられる。
「アメリカ合州国」というのは本来は侮蔑的表現である。
この表現を最初に用いたのが誰かはわからないが、これを広めたのは『アメリカ合州国』の著者である本多勝一だろう。本多は同書で次のように述べているという。
《改めて「合衆国」を考えてみますと、衆は people に通じ、あたかもさまざまな人民、さまざまな民族がひとつにとけあった理想社会であるかのような誤解を与えます。それが理想または将来の希望的現実であると好意的に解釈もできますが、現在は弱肉強食が“自由”にできる典型的社会であって、強食側にはいいけれど、弱肉側には実に恐ろしい国です。また州によっていかに法律や性格を大きく異にするかは、一度でもアメリカ国内を旅行した人は痛感したことでしょうから、「合州国」という名は正訳であるのみならず、その実状にもよく合っています。この「合州国」は、南北戦争当時のような分裂するかもしれない危機を、今なお包含しているという見方も、あながち全くの見当はずれとはいえないのです。ただ私としては、日本語として定着した「合衆国」を「合州国」に変更してやろうといった野心があるわけではなく、これはこの本のための個人的趣味に過ぎません。》(注1)
このように、「合州国」という用語は反米志向の産物であり、しかも、「合衆国」などおこがましい、オマエラは「合州国」で十分だという、侮蔑的な要素ももつ。また、ある種の言葉遊びとも言えよう。いずれにせよ、表立って使うにははばかられる言葉であるはずだ。
このような言葉が、真面目な文章にも使われるようになっている。反米的な意図がない人にも、訳語として「合衆国」より正しいという思いこみで通用しつつある。そうした傾向に高島は警鐘を鳴らしているのではないか。
とはいえ、今回高島にも誤りが見つかったので、silverfox さんが
《高島氏の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,氏の他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだと感じた次第である。》
と述べているのは正しい。私も心して読もうと思った。
注1 上記の「資料集」に掲載されていたものからの引用なので、正確でないかもしれません。しかし、確かにこのような趣旨のことを読んだ記憶はあります。
この「三角点」の過去記事に、高島俊男を批判したものがあることに最近気付いた。昨年12月8日の「「衆寡敵せず」と「合衆国」」と、同月16日の「高島俊男氏の妄言 ─序数と基数の区別がつかない日本人の誤り」の2つだ。
私は高島俊男の著書のファンだ。たばこに関する見解のように時々納得しがたいものもあるが、たいていは面白く読んできたし、影響も受けていると思う。
しかし、silverfox さんの「「衆寡敵せず」と「合衆国」」によると、高島の文は必ずしも信頼できるとは限らないという。これは私にとっては重大な問題だ。
そこで、とりあえずこの記事で取り上げられている「合衆国」の呼称の問題について、検討してみることにした。
高島俊男は、『お言葉ですが・・・ それはさておきの巻』(文春文庫版では『お言葉ですが・・・ 2 「週刊文春」の怪』)に収録されている「「合衆国」とは何ぞや?」というエッセイで、おおむね次のように述べている。
1.「合衆国」を「合州国」と表記する論者が一部にいるが、程度の低い駄洒落である。
2.アメリカを「合衆国」としたのは江戸幕府の役人であるが、彼らとて United States of America の「States」を「衆」と訳したのではない。選挙により頭目を任期制で選ぶという、かの国の政体を聞いた幕府の役人が、支那の『周礼』という書物に「大封之礼合衆也」(国の境域を定める儀式の際は国人がみな集合する)という文があることを想起して、「合衆国」と呼んだのだ。
3.以後、「合衆」の意味には多少の揺れがあったようで、例えば福沢諭吉は『文明論之概略』で、「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いている。
4.「合衆国」は「合州国」の誤りだと主張する人は、「States」を「州」と訳すことに何故疑問を持たないのだろう。アメリカの「State」は「Commonwealth」ないし「Nation」と言い換え得るものであり、「合衆国」が気に入らないなら「アメリカ連邦」とでも言うべきで、何故「合州国」などと下らない駄洒落を言う必要があろうか。
5.ついでに「共和」の出典について述べる。(省略)
これに対しsilverfox さんは、「「衆寡敵せず」と「合衆国」」で、おおむね次のように述べている。
A.「The United States of America」 は「アメリカ合州国」と書くのが良いのではないかという意見があるが、ネットで検索するとこの意見は大層叩かれている。その論拠の多くが高島俊男の「「合衆国」とは何ぞや?」だ。
B.しかし,高島は,「合衆国」は republic の訳語であると主張しているにすぎず、「the United States」 の訳語であることを説明するものではない。したがって高島の文は,「the United States」を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。
C.私(silverfox)は高島の文を読んで上記のような違和感を覚えた。そして、「合衆国」の「衆」は「衆寡敵せず」の「衆」ではないかと思った。「states」 という「複数」を表現するために「多くの」という意味の「衆」を使ったのではないか。
D.最近、早稲田大学の千葉謙悟氏が精緻な調査をされていることを知った(http://nihon.korea.ac.kr/ronbun/060318sympo/chiba.pdf)。私(silverfox)は高島説よりこの千葉論文の方のはるかに説得力を覚える。
千葉によると、「合衆国」は 1844 年以前にアメリカ人宣教師ブリッジマン周辺で 「the United States」 の漢訳語として作られたもので,「衆国」は「多くの国」という意味を意図したものである。これが日本でも使われるようになったのは 1848 年頃である。ところが,日本では「衆」は大勢の人間の意味で使われるため,「合衆」は「大衆が集まる」と解釈されるようになった。高島説はこのように変容した後の意味を本来の意味としたものである。
E.高島は『周礼』からとったとしているが、これは高島の想像によるものであって根拠があるわけではない。それでもこれが定説であるかのようにネット上で広まっているのは,如何にもネットらしい現象である。
F.高島の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだ。
私は最初にsilverfox さんのこの文を読んだとき、説得力を覚え、なるほど高島の他の文章にも注意する必要があるなと思った。
その後、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」を読み直し、さらにネットで
会議室:「ことば会議室」アメリカ合衆国
アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集
などを読んだ結果、次のように考えるに至った。
まず、高島が、江戸幕府の役人が「合衆国」と名付けたとしていること、これはやはり誤りだろう。
日本より先に中国(清)に用例があるのだから、中国で用いられていたものが日本に伝わったと考えるのが自然だろう。中国と日本が別々に「合衆国」という呼称を生み出したとは考えにくい。
この点については、高島は読者からの指摘を受け、文庫版ではその旨の追記をしている。
高島の『お言葉ですが・・・』の文春文庫版は「あとからひとこと」と題して後で判明したことなどの追記がなされている。この「「合衆国」とは何ぞや?」にも、文庫版では、読者からの御教示を受けたとして、
・日本より中国が先行していたこと
・1844年の望厦条約で最初に使用されたこと
・この訳語をつくったのは当時マカオに在住したドイツ人宣教師カール・ギュツラフらであること
・ギュツラフが周礼の言葉を知っていたとは思われないので、清朝官僚との合作であると思われること
を追記している。
次に、「合衆国」の語源は何なのか。
上記の「アメリカ合衆国が「合州国」ではない理由についての資料集」を見ると、「合衆」という言葉が『周礼』に見られるのは確かなようだ。
しかし、「合衆国」と名付けた人が、『周礼』に基づいて考案したのかは、わからない。
「資料集」によると、中国起源との立場をとる人でも、『周礼』の名は挙げていない。
にもかかわらず、高島は『周礼』が起源だと断定している。silverfox さんが「これは高島氏の想像であって根拠があるわけではない。」と述べるのももっともだ。
次に、「合衆国」の意味について。
silverfox さんが挙げている千葉謙悟は、「合衆国」の元々の意味は「衆を合した国」ではなく「衆国(多くの国)を合した」であると考えている(silverfox さんも同意見なのだろう)。しかし、リンクが張られている千葉の論文は、「衆」の字の中国と日本での意味の違いにより、その後「合衆国」の意味が日中で変遷していったことを論証しているのであって、「衆国(多くの国)を合した」説については、この論文の参考文献に挙げられている千葉の2004年及び2005年の論文を読む必要がありそうだ。残念ながらネット上では見つからなかった。したがって現時点では、千葉説が妥当なのかどうか判断しがたい。
そして、千葉自身が述べている(p.10)とおり、先行研究は「合衆」を「衆人が協力して経営する国」と解釈してきたのである。千葉説は新説なのだ。
したがって、高島の「「合衆国」とは何ぞや?」が発表された1996年当時、当時の通説に従って高島が合衆国の意味を説明しているのは当然だろう。
あと、silverfox さんは、
《高島氏が書いているのは,「合衆国」は republic の訳語であると主張するものであり,"the United States" の訳語であることを説明するものではない。》
というが、高島は、「合衆国」は republic の訳語であるとは主張していない。米国の政体を聞いた幕府の役人が『周礼』に基づいて「合衆国」と名付けたとしているだけだ。
高島は、のち「合衆」の意味には多少の揺れがあったとして、福沢諭吉が「合衆」の語を「民主」「共和」「結合」の3通りに用いていることを挙げているが、その中で、
《一つは、「合衆政治にて代議士を撰ぶに入札(いれふだ)を用いて多数の方(かた)に落札するの法あり」のごときもの。これはおおむね今日の「民主」の意味であって、幕府の役人の意図に最も近い。》(ルビは丸括弧に改めた)
と述べている。つまり、高島は、当初の語義は「民主」に近いと考えている。
silverfox さんは、続けて、
《したがって高島氏の文章は,"the United States" を「合州国」と書くことへの批判としては的を外している。》
と述べているが、そうだろうか。
高島のこのエッセイの趣旨は、「合衆国」という言葉が既にあるのだからそれを使えばいいし、それが気に入らなければ「アメリカ連邦」とでも呼べばよい。「がっしゅうこく」の音に引きずられて「合州国」などという珍妙な表現をとる必要はないではないか、「State」と「州」と訳すこともおかしいのだから、というものだろう。
これは、「"the United States" を「合州国」と書くことへの批判」としては十分成立していると思う。
まとめると、
・高島が江戸幕府の役人が考案したとしたのは誤り(高島も指摘を受けて修正)
・高島は『周礼』が語源と断言しているが、確たる証拠はないのでこれも不適当
・しかし、合衆国が「衆人が協力して経営する国」の意味で用いられてきたとするのは通説だから、その点では高島は間違っていない。
・「州」の意味を考えても、「合州国」という表現は不適切
・千葉論文は興味深いが、検証できなかった
となる。
あと、silverfox さんは、「合州国」使用者の本来の意図を理解していないように見受けられる。
「アメリカ合州国」というのは本来は侮蔑的表現である。
この表現を最初に用いたのが誰かはわからないが、これを広めたのは『アメリカ合州国』の著者である本多勝一だろう。本多は同書で次のように述べているという。
《改めて「合衆国」を考えてみますと、衆は people に通じ、あたかもさまざまな人民、さまざまな民族がひとつにとけあった理想社会であるかのような誤解を与えます。それが理想または将来の希望的現実であると好意的に解釈もできますが、現在は弱肉強食が“自由”にできる典型的社会であって、強食側にはいいけれど、弱肉側には実に恐ろしい国です。また州によっていかに法律や性格を大きく異にするかは、一度でもアメリカ国内を旅行した人は痛感したことでしょうから、「合州国」という名は正訳であるのみならず、その実状にもよく合っています。この「合州国」は、南北戦争当時のような分裂するかもしれない危機を、今なお包含しているという見方も、あながち全くの見当はずれとはいえないのです。ただ私としては、日本語として定着した「合衆国」を「合州国」に変更してやろうといった野心があるわけではなく、これはこの本のための個人的趣味に過ぎません。》(注1)
このように、「合州国」という用語は反米志向の産物であり、しかも、「合衆国」などおこがましい、オマエラは「合州国」で十分だという、侮蔑的な要素ももつ。また、ある種の言葉遊びとも言えよう。いずれにせよ、表立って使うにははばかられる言葉であるはずだ。
このような言葉が、真面目な文章にも使われるようになっている。反米的な意図がない人にも、訳語として「合衆国」より正しいという思いこみで通用しつつある。そうした傾向に高島は警鐘を鳴らしているのではないか。
とはいえ、今回高島にも誤りが見つかったので、silverfox さんが
《高島氏の文章はためになるものが多いと思っていたが,このような例を見ると,氏の他のエッセイも少し注意して読む必要がありそうだと感じた次第である。》
と述べているのは正しい。私も心して読もうと思った。
注1 上記の「資料集」に掲載されていたものからの引用なので、正確でないかもしれません。しかし、確かにこのような趣旨のことを読んだ記憶はあります。