◇田端不動尊(田端3-14-1)
住宅に挟まれて、宅地1軒分の広さに不動明王が祀られている。
築山の頂上に、お不動さん。
朱色の光背は、火焔光。
眷属のせいたか童子と
かんたか童子もいらっしゃる。
うっかりして引きの写真がないので、分からないが、当たり前の街並みの家と家との間にある。
なぜこんな場所に、と不思議に思う。
元々は、田端駅東口にあったのだが、鉄道拡張の為谷田川畔に移され、そこも又、改修工事で追われて、昭和10年(1935)、現在地に移されてきたのだという。
◇田端日枝神社(田端3-20-2)
細い路地、と錯覚する参道。
両側に民家が並び、その奥に鳥居が見えるので、ああ、あれが神社だと分かるが、よく見ると、参道入口に標識が目立つことなく、立っている。
石段の前の鳥居は、上部に三角の屋根を戴く山王鳥居。
石段を上がる。
石造物らしきものは狛犬だけかと思っていたが、
かなり大きな石祠がこの神社の本殿なのだそうです。
石段を上がって正面の木造社は、拝殿なんだとか。
現地ではそのことを知らずに撮影していたので、本殿石祠の撮り方がなんとなく、杜撰でした。反省。
◇法華宗陣門流・教風山普光院大久寺(田端3-21-1)
小田原城主大久保家と伊勢亀山城主石川家、両家の菩提寺で、大正年間、上台寺と合併云々と謂れにあるが、複雑ですんなりと頭に入ってこない。
本堂左わきに墓地への通路があるが、そこに石造物が並んでいる。
ひときわ目立つのは、3本の石柱の中に立つ石像らしきもの。
摩滅して像なのかも判然としない。
傍らの石柱には「日蓮大士おこしかけ石/伊豆連着寺より将〇」とある。
寺の説明では、大久寺再建にあたり、伊豆の連着寺にあった「おこしかけの石」を割って、その半分を寄贈されたものという。
本堂左隅に石板が置かれている。
石川家墓所の改葬の際発見されたもので、凸面には、故人の名前、生年月日等の情報を刻し、
凹面には「このしたにはかあり あわれみてほることなかれ」と彫ってある。
庚申塔もある。
1基は、元禄3年(1700)造立のありきたりのものだが、
もう1基は、きわめて珍品。
2匹の猿を擬人化した台石、だが上にあるべき庚申塔はない。
一説では、上に乗っていた庚申塔は、日枝神社のご神体になったことになっている。
造立年が慶安3年(1650)というのは、北区で最古の部類になる。
墓地には、大きな宝篋印塔が並び、いかにも大名家の墓地らしい雰囲気がある。
大きいだけに、倒れると再建に苦労するようだ。
倒壊したのは、3.11地震というから、9年間、このまま放置されていることになる。
墓の持ち主とは連絡が取れず、寺で処理しようにも、費用が莫大で、というな諸般の事情があるからだろう。
◇上田端八幡神社(田端4-18-1)
一の鳥居から二の鳥居までは、がらんとしている。
石造物も、鳥居と狛犬の他は見るものがない。
境内社に白髭神社。
ご神体は、今はなき杉の木。
この杉の枝ぶりが、松とよく似ていたので、「松だ」、「いや、杉だ」と武士が言い争い、斬り合いになったという伝説がある。
◇真言宗霊厳寺派・和光山興源院大龍寺(田端4-18-4)
別名「子規寺」と呼ばれるのは、正岡子規の墓があるから。
観光名所めいて、墓地には人が絶えることがない。
山門を入ると句碑が1基。
しかし、青蘿という俳人は、江戸時代の人で、子規とは無縁。
散(ちる)者(は)那(な)能(の)花よ利(り)
起(おこ)流(る)あらし可(か)南(な)
と、資料にはある。
山門入って右側の隅に、背の高い宝篋印塔と
層塔が高さを競い合うように立っている。
墓地に入る。
子規の墓は、正面奥の塀、右側にある。
子規が火葬を嫌っていたので、土葬のできたこの場所に葬られたと言われている。
銅板に墓誌が刻まれている。
「子規居士之墓
正岡常規 又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名 ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ 東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治◇◇年◇月◇日没ス 享年三十◇ 月給四十圓」
この墓誌は二代目。
最初の墓誌は盗難に遭った。
マニアというか、おたくというか、墓誌まで持ち去ろうとするのだから、フアン心理はこわい。
子規の墓の奥、一段と上がった墓域に、歴代住職の墓。
無縁塔や宝篋印塔が整然と並んでいる。
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