新型コロナ感染防止のため外出を自粛しています。そのため、取材が出来ず、ブログを新規に投稿することが難しくなっています。これまで日曜日に更新してきましたが、以後、隔週日曜とします。
◇子育て地蔵尊(滝野川3-61-1)
住宅街の一角にある。
堂内には千羽鶴がびっしりと掛けられている。
たまたま若い父親と男の子が、手を合わせていた。
◇陸軍境界石(滝野川3-53)
東京国税局官舎の西側は、工事中だった。
工事の切れ目の壁際の草の中に小さな石柱があって、「陸軍用地」と彫られている。
官舎群は陸軍用地の跡地にあるのが多い。
ここも例外ではないが、陸軍跡地を彷彿とさせるものは皆無で、この小さな境界石が残っていなければ、ここが軍用地であったとは誰も思わないだろう。
◇四本木稲荷神社(滝野川3-61-1)
四本木で「よもとぎ」と呼ぶ。
ここも陸軍用地跡。
しかも陸軍第一造兵廠の守護神社。
世が世なら我々一般人など立ち入ることなど不可能な神域だ。
神社に森は不可欠だが、ここの鬱蒼と、ジャングル化した森は、ただ手入れがされず放置されたもの。
神社への入口は、西と南にあって、
西の鳥居には「昭和十二年」、
南の鳥居には「大正十三年」と刻まれている。
忠魂碑がある。
神社ではよく見かける石碑だが、陸軍の守護神社で見る忠魂碑は存在感がある。
戦争に負けたからこそ、今の平和日本があるとするなら、戦死も無意味ではなかったことになる。
木々までは手が回りかねるようだが、神社はきちんと保存されているやに見える。
◇真言宗豊山派・瀧川山松橋院金剛寺=紅葉寺(滝野川3-88-17)
山門の石柱には「紅葉寺」とあって、金剛寺ではない。
江戸期、紅葉の名所として知られていたという。
どこまで史実かわからないが、弘法大師が遊歴した際に創設された寺、という伝説がある。
山門前に数基の石造物。
古いものに交じって、新しい「水子地蔵」や
七福神の石柱がある。
この同じ場所に「水子地蔵」があったというわけではなく、水子地蔵は境内にあるという宣伝のようだ。
ひと際高い石塔は「西国三十三所供養佛」。
山門を入ると仁王がお出迎え。
石造仁王はありそうでいて、中々お目にかかれない。
本堂へと歩を進めることなく、右の小径に入る。
最初の自然石は句碑。
由(ゆ)可(か)李(り)那(な)く か流(る)や まこ登(と)の 花の宿 為山
私には碑文を読む能力はないので、これは、北区教委『北区の歌碑句碑』からの転載。(以下、同じ)
その隣の細長い石塔は「弘法大師一千百五十年供養塔」。
≪続く≫