石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137 文京区の石碑-3-お茶の水貝塚碑と神田上水石樋由来碑

2019-01-13 06:29:33 | 石碑

◇お茶の水貝塚碑(湯島3-1東京医科歯科大学)

 

碑というものは、碑文が読まれてなんぼ、のものですが、このお茶の水貝塚碑は、読もうにも読めない、碑としての役割を喪失した碑です。

碑があるのは、東京医科歯科大学正門入口右側の一画。

右側の門柱と白い案内板の間に「お茶の水貝塚碑」はあるのですが、石垣の上には鉄柵がめぐらされ、しかも石垣を上がるすべもないので、碑には近づけません。

下の写真はカメラのズーム機能を使ってのもので、裸眼で読むのは無理でしょう。

唯一、碑の全体を確認できるのは、右側エレベーターの中から。

以下の、碑裏の碑文は『文京の碑』からの転載です。

「昭和27年8月 地下鉄お茶の水駅の築造にあたり、この付近から多数の貝殻にまじり縄文時代の土器、石器、獣骨などが発掘され、ここが先史時代の遺構であることが確認された。池袋、お茶の水地下鉄開通10周年を記念してこれを建てる。
                          昭和39年1月

この地点の標高は、約15m。  

現在では想像しにくいが、先史時代は海がここまで入りこんでいたことがわかります。

大学敷地は、江戸時代幕府の役人の住居地でもあって、先史時代の貝塚の上に江戸時代の住居跡があるという特異な場所となっています。

お茶の水貝塚の出土品の写真を探すも見つけられず、文京区の文化財担当者に問い合わせしたが、出土品の保存場所は分からないとのことでした。

 

 

◇神田上水石樋由来碑(本郷2-7-1本郷給水公苑)

この見事なバラ園は、入場無料。

都心の一等地。

建物の屋上。

どれもが意外なこのバラ園は、都の本郷給水施設(文京区本郷2-7)の上部に作られています。

 

洋風庭園に50種400株のバラが咲きみだれる、知る人ぞ知る隠れた名所。

和風庭園の一画に横たわる石垣の掘割は、江戸時代の神田上水の石樋の再現。

石樋をバックに石碑が2基立っています。

一つは、自然石に「神田上水石樋」。

その横に黒御影で「神田上水石樋の由来」。

逆光での黒御影の刻字は、ほとんど判読不能。

苦心の上読んで分かったことは、碑文は作家杉本苑子氏によるものらしい。

お役所仕事としては、異質な石碑ということになる。

神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

 ◇芭蕉句碑「花見塚」(本郷1-8-3昌清寺)

 

「桜狩り きとくや
 日々に 五里六里」

この句碑は寛政6年(1796)、芭蕉百回忌に建てられたが、現在碑は昭和59年、当寺住職によって再建されたもの。

この碑には、去年の秋、一度訪れている。

「東京の芭蕉句碑巡り-9」https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=017b3a0e2b66d7ab3542fa819c52dd44&p=3&disp=30

に句碑と寺の歴史については書いてある。

同じことを書くのも気が進まないので、今回は、カット。

上記ブログをお読みください。