プロフイールにあるように、私の故郷は、佐渡。
加齢とともに望郷の念は募るばかりで「佐渡」の二文字を目にすると、すぐそこにズームインしてしまいます。
文化13年の徳本行者の信州・上州化益(けやく=人々を教え導いて仏道に入らせること)の旅の記録『応請摂化日鑑』をパラパラとめくっていたら、「佐渡大安寺」が目に飛び込んできた。
文化13年6月12日、信州〇〇に滞在、いつものように近郷近在からのご請待の願いの返事、途切れることのない信者たちへの対応の一部始終が記録される中、
佐渡大安寺へ本仏申上、唐紙壱枚之名号被下候、大安寺歓喜踊躍三拝して頂戴、即剋念仏講中取立百壱人、講中出来即名面帳差出
佐渡相川の大安寺は、初代佐渡奉行・大久保長安の創建で、浄土宗。
相川の港を一望する一等地の斜面に立つ巨刹です。
寺の檀徒が結集して、講を組み、かねてから徳本名号札授与を願い出ていたものが認められた。
「歓喜踊躍三拝して頂戴」に、はるばる佐渡から来て、願いが叶った歓びが手に取るようにわかります。
更に徳本行者が信州から越中富山に足を延ばした8月19日、今度は「佐州」の文字が・・・
佐州羽田町若林忠三右衛門、村田七兵衛母さの、清右衛門右三人信州より富山江、相廻り当地迄罷出御待申上、
徳本行者は事前に請待の願いのあった者しか会わなかった。
当然面会を拒絶された佐渡の信者たちは、徳本行者の後を追って、富山まで来て、先回りして宿泊地で行者の到着を待っていた。
徳本行者も彼らの熱意にほだされて、会うことにする。
佐渡相川忠右衛門、同所七兵衛母さの、貰金水さらし、葛粉一袋ツ々御供養、今度三人之者御高髪剃願申上願出候、清右衛門共三人六万称相願、
三人はそろって、日課念仏6万遍の実践を行者に誓うのでした。
さらに
佐州河原田浄念寺講中名号を相願、
これは事前に文書で願い出ていた為か、その場で
忠三右衛門へ相渡ス
と名号が手渡されます。
そして5日後、糸魚川で徳本行者と別れて、一行は佐渡へと旅立ちます。
佐渡相川忠三右衛門江三人取名を相渡ス、難有之旨御請申上る、
七兵衛母明日之出立無覚束旨申聞候
写真フアイルで浄念寺(佐渡河原田)を探す。
あった。
山門入口の右手に徳本名号塔が立っている。
浄念寺は天正年間、木食弾誓上人がほんの一時期、修行していた寺でした。
佐渡からの4人は、そのことを徳本行者に話しただろうか。
木食弾誓を心の師と仰ぐ徳本行者にとって、弾誓の足跡が遺る場所は聖地であり、一度は訪れてみたい場所だったに違いないからです。
大安寺の講中に与えた名号を彫った石塔は、今、大安寺にはありません。
しかし、相川の水金遊郭跡地の先にある元専修寺境内に残る名号塔が、ほぼ唐紙一枚に相当する大きさで、信州で授与された名号札を彫ったものと思われます。
大安寺の関係者に与えられたものが、なぜ、遊郭跡地にあるのか、理由は不明ですが・・・
念仏の島佐渡には、六字名号塔が数多くありますが、徳本名号塔はこの2基だけ。
(と、断定は軽率ですが)
偶然その来歴が分かって、嬉しいことです。
≪続く≫