江東区三好の寺町は、寺が密集して壮観だ。
その寺町にも芭蕉句碑があるというので、勢至院を訪ねる。
◇浄土宗・勢至院(江東区三好1-4)
「草の戸も 住かわる代ぞ 雛の家」
この句碑があることになっているが、どこにも見当たらない。
狭い境内で、あれば見逃すことはなさそう。
仕方なく呼び鈴を押す。
出てきた住職は「寺を改築した時撤去しました。先代の個人的趣味で造立したもので、文化財的な価値はありません」と云う。
次に富岡八幡宮へ。
境内が広いので、自分で探すのは大変だと思い、社務所に直行。
巫女さんがいろいろ調べてくれるが、分からない。
「なんていう句ですか」と聞かれたので、持参資料を見せたら「あ、これはここではありません」と云う。
よく見たら「富賀岡八幡宮」とある。
目の錯覚というか思い込みというか、「富岡八幡宮」だとばかり決め込んでいた。
「富賀岡八幡宮」という似通った神社があることを知らなかったからだが、文字をひと固まりでとらえるから、「富賀岡八幡宮」を「富岡八幡宮」とつい思い込んでしまう。
その「富賀岡八幡宮」へ。
◇富賀岡八幡宮(江東区南砂7)
富賀岡八幡宮界隈を「元八幡」と呼ぶのは、富岡八幡宮の祭神「八幡像」は当宮から運ばれたことによる。
創建時、社前は海が広がっていた。
江戸期も海を臨む絶景地として有名だった。
芭蕉句碑は、本殿前左、狛犬横の茂みの中にある。
「目にかかる 雲やしばしの 渡り鳥」
元禄7年(1694)と云えば、芭蕉没年ですが、この年、関西で詠んだ句とされている。
渡り鳥が群れをなして雲がなびくように流れ飛ぶ光景は、海に面するこの神社に相応しいと選句されたのだろうか。
碑裏には「文化二乙丑年(1805)初秋建立」の横に9人の名が連記されている。
本殿の裏地には、富士塚がある。
数多い富士講の石碑に往時の富士信仰の熱狂が感じ取れる。
熱狂といえば、並んで横たわる力石からも、男たちの歓声が聞こえてきそうだ。
渡り鳥の雲、富士塚、力石、すべては過去の遺物となって、わびしい空気が漂う。
亀戸行きのバスに乗り、バス停大島5丁目で下車。
バス停から来た方向を振り返ると小名木川にかかる橋が小山のように盛り上がっている。
橋の下は電車が通っているかのようだが、下は川。
この辺りは海抜0m地帯で、川が地面より高い。
その小名木川に面してあるのが、大島稲荷神社。
◇大島稲荷神社(東京都江東区大島5)
大島稲荷神社には、芭蕉句碑が2基ある。
右手に矢立と筆、左手には巻紙を持つ芭蕉座像を挟んで、左右に一句ずつ。
まず向かって左の句碑は、
自然石の上部に「女木塚(おなぎづか)」と大書、その下に
「秋に添うて 行(ゆか)ばや末は 小松川」
と刻されているが、ほとんど句は読み取れない。
此の句にまつわる経緯が、後方の「たてかん」に書いてある。
「女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代(不)詳。この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄5年(1692)芭蕉50歳の時奥の細道に旅立ちする前の句でありまして芭蕉は深川から舟で川下りをして神社の前を流れる小名木川に舟を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中舟を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内のこの森の中で川の流れを眺めながらその際詠んだのがこの句であります。
秋に添うて 行はや末は 小松川」
かなりの悪文だが、誰もそのことを指摘しなかったと見える。
地位の高い人だから言いにくかったのだろうか。
そして、芭蕉像の右には、新しい句碑。
「 松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑
五月雨を あつめて早いし 最上川
大島稲荷神社 平成元年九月十九日
第六代宮司 佐竹良子建之」
この句碑は、芭蕉座像と同時に建立されたが、なぜ、この地に最上川の句なのか、選定理由は明らかではない。
境内にイノシシがいる。
十二支の亥だろうが、珍しいのでパチリ。
バスの終点亀戸駅から今度は歩いて「亀戸天神」へ。
◇亀戸天神社(東京都江東区亀戸3)
亀戸天神には、石碑が100基ほどもあるという。
芭蕉句碑を探すのに手こずるかと案じたが、藤棚の下に難なく見つかった。
「しばらくは 花の上なる 月夜哉」
「満開の桜の上に月が顔を見せている。月と花。やがて月は西に落ちて、この組み合わせは見れなくなってしまう」。
句碑は、亀戸天神の祭神菅原道真9百年祭御忌に、神社近辺に住む芭蕉門下の雪中庵関係者が芭蕉150回忌を合わせて建立したもの。
だから芭蕉の句の下には、芭蕉の高弟で雪中庵一世服部嵐雪、二世桜井利登、三世大島蓼太の句が、裏面には、四世雪中庵完来、夜雪庵晋成、葎雪午心の句が刻まれている。
この句碑は、第二次大戦中行方不明となったが、昭和50年代、藤棚の下の土中から掘り起こされた。
持参資料には、亀戸天神には、もう1基、
「春もやや 景色ととのふ 月と梅」
があることになっている。
二度境内を回ったが見当たらないので、社務所へ。
応対してくれた禰宜は、『亀戸天神社境内石碑案内』を開いて調べてくれるが、分からない。
神社が知らない句碑があるなんて、そんなことがあるのだろうか。
地図では長寿禅寺の右側が、亀戸天神(なぜか神社名がない)。
亀戸天神を出て、長寿禅寺の壁沿いに西へ向かうと横十間川にぶつかる。
右折して数百メートルで、次の目的地「龍眼寺(萩寺)」に着く。
北西にスカイツリーが見える。
◇天台宗・龍眼寺(東京都江東区亀戸3)
左右の門柱には「慈雲山」、「龍眼寺」とあり、その両袖兵には黒石板がはめ込まれている。
右側には、
「濡れて行(ゆく) 人もおかしや 雨の萩」
と芭蕉の句が刻まれ、左の板には、当寺の由来が記されている。
龍眼寺が「萩寺」と呼ばれるようになったのは、元禄6年(1693)、その時の住職元珍和尚が各地から萩数十種を選んで、庭園に植えたことによる。
その後、訪れる文人雅客引きも切らず、東都名所となって久しい。
私が訪れたのは9月下旬だったが、折しも満開の萩が咲き乱れていた。
しかし、そこは萩、満開といっても楚々として控えめ。
その萩に埋もれて芭蕉の句碑が1基ある。
「濡れて行 人もをかしや 雨の萩」
門柱脇の句と同じだが、こちらは「おかしや」ではなく「をかしや」。
この句は、萩寺で詠んだ句ではない。
「おくのほそ道」の途中、加賀国(石川県))小松に滞在中、雨中の句会で詠んだものと云われ、「萩の名所」ということで、この地に建てられたものとみられる。
建立は明和5年(1768)だから、都内の芭蕉句碑のなかでは最古。
風雅な庭園には歌人、俳人の石碑が散在する。
「月や秋 あきや夜にして 十五日 螺舎一堂 」
「萩寺の萩おもしろし
つゆの身の
おくつきどころ
こことさだめむ 落合直文」
「槇の空 秋押し移り ゐたりけり 石田波郷
たかむなの 疾迅わが背 こす日かな 石塚友二」
「聞きしより来て見や
□野の染付はいふもさらなり
萩のにしき手よ川めの 千載庵仲成」
境内には、ほかに万治2年(1659)、江東区最古で指定有形文化財の三猿庚申塔もある。