輪王寺は、国立東京博物館の東隣にある。
山門を入る。
「輪王寺」よりも「両大師」の表示が圧倒的に多い。
「両大師」は、「輪王寺」の俗称。
本堂である開山堂に、寛永寺開山の慈眼大師(天海)と比叡山中興の慈恵大師(良源・元三大師)を併せ祀っていることから「両大師」と称されている。
本堂が新しいのは、平成元年(1989)の火災で焼失したものを平成5年(1993)に再建したから。
全焼したのだから、大ニュースだったはずだが、私の記憶にはない。
50歳になったばかりで、仏教とか寺院にまるで無関心だったからだろう。
境内を歩くのは外国人ばかりで、日本人の姿はない。
いかにも今(2017年)の上野らしい光景ではある。
開山堂に向かって右にあるのは、阿弥陀堂。
阿弥陀如来の脇侍は、お地蔵さんと虚空蔵菩薩。
阿弥陀堂に対面するように覆い屋があって、石仏地蔵が2体おわす。
その隣の銅塔は、法華塔。
本堂前の青銅灯籠は、大猷院(家光)霊廟に奉献されたもの。
本堂に向かって右へ行く小径を行くと「輪王殿」なる会館へ出るが、その小径の右側に井戸と鐘楼がある。
井戸は石柱で蓋をされていて、中を覗けないが、刻字は読み取ることができる。
「謹みて
東叡開山の廟前に
追孝の善縁に擬す
夫れ漢水の潔きは仏心清浄の徳を表し
法雲の勧頂は妙法を断たざらしむ
時正保二年辛酉十月二日 弟子晃海」
晃海は、天海の弟子で、天海没後東叡山の元老として活躍した僧という。
上野公園での井戸といえば、清水堂の「清水観音の井戸」が有名だが、上野の山には、数多くの井戸があった。
埋立地の江戸の町は、水の苦労が絶えなかった。
そうした中で、上野山だけは、水に恵まれた場所だった。
寛永寺敷地内には、いくつもの井戸マークがあり、各将軍の霊廟前にも必ず井戸があったといわれている。
東照宮には2か所、ほかに点在する茶店にも、商売上、つるべ井戸が不可欠だった。
井戸の奥の鐘は、慈眼大師天海大僧正を師と仰ぐ家光公が奉献したもの。
本堂と輪王殿のしきりにある木戸は、下谷にあった幸田露伴邸から移築したもの。
露伴の代表作『五重塔』の主人公「のっそり十兵衛」は、寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁がモデルだったといわれている。(台東区教委の説明板より)
輪王殿前の門は、寛永寺旧本坊表門、国指定の重要文化財です。
「江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山王である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3500坪(約1.5ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1868)5月の上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。明治11年、帝国博物館が開館すると、正面として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない、現在地に移建した。
門の構造は、切妻造り本瓦葺、潜門のつく藥医門である。なお、門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦争の激しさがうかがえる。」(台東区教育委員会)
輪王寺(両大師)の裏手は、寛永寺子院が立ち並んでいる。
地図を上下に動かして見てください。
輪王寺(両大師)は、下部にある。
現龍院
等覚院
覚成院
修禅院
春性院
泉龍院
吉祥院
福聚院
東漸院
元光院
林光院
寒松院
寒松院は、伊勢津藩主藤堂高虎の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」からとったもの。
藤堂家の屋敷は、今の動物園と東照宮にあったが、東照宮建立にあたり、屋敷を献上、東照宮の別当として寒松院を建てた。
このブログ「上野公園の石造物(5)」では、上野動物園内にある藤堂家の墓所の五輪塔群について触れている。
法名寒松院に関しては、家康を慕う高虎の心情が読み取れる有名な逸話がある。
元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。Wikipediaより。
真如院
見明院
本覚院
本覚院には、延岡藩主でキリシタン大名の有馬直純の供養塔がある。
本覚院は、江戸期には山王台にあって、当時はこの供養塔の周りには12基ものキリシタン地蔵があったという。
現在地へ移る際、そのうち10基は、国立博物館に預けたことになっているそうだが、博物館の所蔵リストには見当たらず、行方不明。
境内の地蔵といえば、下の写真のお地蔵さんしかないが、これがキリシタン地蔵なのだろうか。
本覚院の道を挟んで反対側には、寛永寺子院の墓地が広がっている。
施錠されていて、入れないので、こんなことを書いても無意味だが、中に家光に殉死した4人の大名の墓がある。
大名の家来の家来まで殉死したのだとか、太平の世と云われる家光の時代としては珍しい事件だったのではないか。
戦乱の世を生き抜いてきた藤堂高虎は、自分の死に殉ずる希望者が家臣に数十人もいることに愕然としたという。
わずかな年代の違いだが、家康の時代と家光の時代とでは、様変わりしていたことが分かる。
これら殉死者の墓がこの地にあるのは、家光の霊廟が上野にあるからなのだが、日光の大猷院殿の傍らにも4人の名を刻んだ石碑があるという。
墓域前の石塔「悲しみの東京大空襲」は、落語家・林家三平の妻、海老名香葉子さんが2005年に建立したもの。
毎年3月9日には、大勢が参加して、慰霊供養が行われている。(当ブログ「NO61東京大空襲関連の石仏・石碑」http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=237c42fed0294113e6ca8fd6e56ffd4b&p=7&disp=30をご覧ください。
ここから上野駅方向に向かい、輪王寺角を右折、国立東京博物館へ。
石造物ではないが、2、3紹介しておきたいものがある。
一つは、ジエンナー像。
正門を入って右へ50mに立つ青銅像。
大日本私立衛生会が明治36年に建立したもので、なんと「種痘医祖善那君像」と刻されている。
台座の銘文も、いかにも明治調。
「是に種痘医善那君の像をつくる。君は英国の人、良医を以て名あり。特に時に痘瘡の世に禍いするを患ひ、牛の痘種法を創む。西暦千七百九十八年に至り、初めて之を世に公けにす。その方流、各国に伝はり、五十余年を経て、我が長崎に入る。実に嘉永二年なり。遂に遍く海内に布く。さきに代日本立衛生会、君が像を鋳て以て徳を表はさんと謀る。朝野の人士、翕然として賛助す。東京美術学校に託して鋳造す。今ここに明治三十七年六月、官のゆるしを得てこれを帝室博物館の側に建つ。ああ民寿の域を躋(のば)す恵沢、すなわち記し以て後に告ぐ。 大日本私立衛生会 献納」
文面が格調高く、激しいものだけに、忘れ去られたかのように、ポツンと所在なさげに立つ像のわびしさはひとしおです。
東洋館への道の両側には、石造物もある。
18-19世紀の、朝鮮の「文官」と「羊」。
場所が分かりにくいが、資料館裏手の校倉もお勧め。
日本最小の校倉で、鎌倉時代の遺構。
奈良の十輪院にあったが、寺が衰えて修理が出来なくなり、明治15年(1882)、ここに移したもの。
本来は大般若経六百巻の収蔵庫で、内部には、釈迦、十六善神、四天王の壁画がある。
床下はめ込み石に線刻されているのは、十六善神。
最後に、小泉八雲胸像。
立っているのは、子ども図書館の前だが、子ども図書館はかつては帝国図書館だったから、当を得ているというべきだろう。
胸像の上に幼児7人が壺を囲んでいるが、子ども図書館とは無関係。
正面には「小泉八雲先生」と刻し、左右側面には「文は尽す人情の美」、「筆は開く皇国の華」とある。
背面の書は、市河三喜の手になるものだが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、東大英文科の初代教授だった。
ちなみに二代目教授は、夏目漱石。