石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

112 東京都大田区の指定文化財石造物(上)ー5

2015-10-12 05:45:22 | 文化財

東京には、23区それぞれが指定する文化財石造物が多数あります。その指定文化財石造物を通して各区の歴史と民俗に触れようという企画、1回目は大田区です。件数が多いので、(上、下)編2回に分けて連載します。なお、青色文字は大田区教育委員会の解説文の写し

「大田区の指定文化財石造物」の1回目にも書いたことだが、日蓮宗寺院には石造物は少ない。

そうは云っても、日蓮宗大本山池上本門寺となると別格。

石造物だけで、6点の区指定の文化財があります。

まずは、総門をくぐると正面に立ちはだかるようにある石段がそれ。

◇石段(池上1-1-1 池上本門寺)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    石 段

 この石段は、加藤清正(1562~1611)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法化径」宝塔品の偈文九六字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此径難持坂」という。 
 なお、元禄の頃(1688~1703)に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。清正は慶長十一年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もそのころの所産と思われる。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕
          

法華経宝塔品偈文を国立国会図書館の電子図書で見つけた。

96文字全文を載せておく。

「此径難持」坂は、偈文の書き出しであることが分かる。

  法華経宝塔品偈文釈

此経難持 若暫持者 我即歓喜
諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎
是則勇猛 是則精進 是名持戒
行頭陀者 則為疾得 無上仏道
能於来世 読持此経 是真佛子
往淳善他 佛滅度後 能解其義
是諸天人 世間之眼 於恐畏世
能須臾説 一切天人 皆応供養

加藤清正は、築城の名手とうたわれた。

だから石段寄進もうなづけるものがある。

その実質的作業は、穴太(あのう)衆が担った。

穴太衆については、このブログ「109 比叡山延暦寺の門前町坂本の石造物」で触れているので、ご覧ください。

加藤清正がらみの石造物が他に2点、文化財に指定されている。

加藤清正が日蓮宗に深く帰依していた証左ということか。

◇加藤清正供養塔(池上1-1-1 池上本門

 〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    加藤清正供養塔

 山内最大級の宝篋印塔であり、塔身・笠・相輪が完備している。
この供養塔は加藤清正(1562~1611)の息女で紀伊頼宣の室(夫人)瑤林院(1601~66)が父清正の満三十八年目の忌日に当たる慶安二年(1649)、その供養のため造立したものである。
 清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。加藤清正父娘の信仰心と孝養心が、うかがえる供養塔である。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

この加藤清正供養塔は本門寺本殿に向かって左にあるが、右には清正の正室正応院の逆修層塔がある。

◇加藤清正正室層塔(池上1-1-1 池上本門寺)

〈大田区指定 有形文化財〉  昭和49年2月2日指定
    加藤清正室層塔

 この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(1626)に十一層の石塔として建てられた。
 加藤清正(1562~1611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(1601~53)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。〔大田区教育委員会設置の標識板より〕

清正供養塔は、正室層塔の23年後に娘によって造立された。

どうせなら、夫婦相並んでいた方が良かろうにと思うのだが、いかなる事情があったものやら。

≪続く≫ 

 

 

 


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