石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

138東京都北区の石造物-4a-浮間1丁目

2019-10-12 08:29:01 | 石造物巡り

▽浮間橋の碑(浮間1-1)

北区浮間1丁目1番地は、浮間橋北詰の番地。

新河岸川を背に2基の石碑と区教委による説明板が立っている。

まず、説明板から。

橋の架橋由来が述べられている。

浮間橋の碑    北区浮間1-1(左岸)            

ここに、浮間橋の架橋に至る由来を示す大小二つの碑が建っています。どちらも由来を後世に伝えようとしてたてられました。 荒川は江戸時代より洪水が多い、荒れ狂う川として知られており、明治43年8月、関東平野全域と東京の下町をほとんど水浸しとする大洪水が起こりました。翌年、明治政府は 洪水時の4分の3の水量を流すことができる新川を作ることを決定し、荒川放水路が設置されることになりました。しかし、この河川改修の結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟まれることになり、交通手段を渡船に頼らざるを得なったのです。そこで浮間の農家約60軒が橋の建設を要望し、合計6千円を醵金(きょきん)して、赤羽台4丁目に国立王子病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和の3年5月、幅2間、長さ65間半の木橋が架けられたと大きな碑には刻まれています。その後、浮間橋は昭和9年秋鋼板鋼桁製の橋に、昭和15年3月鉄製の橋へと架け替えられたのですが JR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになりました。そこで大きな碑は、最初の木製の橋を建設した人々の子孫が浮間橋記念碑保存会を設立して話し合った結果、昭和60年9月浮間橋脇に移設されたのです。小さな碑はこの移転の経緯を残すためにたてられました。         平成8年3月     東京北区教育委員会

 

大きい石碑は昭和3年建立だが、なぜか漢文。

浮間橋            

郊外浮間里有名櫻草鮮 北方隔水路對横曾根邊            
西南挟清流望志村翠煙 曩離北足立新併合岩淵            
此地如孤島交通常乗船 憂慮萬一事頻希架橋便            
里民咸應分醵出金六干 本町請軍衙以實情開陳            
近衛工兵来施工盡力研 今日橋梁成如長蛇横川            
昭和三年四月二十六日                                             小柳通義撰文併書

 

郊外の浮間の里は櫻草の鮮かさにて有名なり 

北方は水路を隔てて横曾根邊りに對し  

西南は清流を挟みて志村の翠煙を望む 

曩に北足立を離れ新たに岩淵を併合せり    

此の地は孤島の如く交通は常に船に乗る 

萬一の事を憂慮して頻に架橋の便を希う    

里民咸(みな)分に應じて金六干(円)を醵出し 

本町軍衙(ぐんが)に請うに實情を以て開陳す    

近衛の工兵来りて施工に盡力すること研なり 

今日橋梁成りて長蛇の如く川に横たえり

 

小さい碑は、建設記念碑移転記念の碑。

 

旧浮間橋建設記念碑が国鉄建
設工事に伴い、移設されることになり
国鉄当局と地元代表との話し合いの
結果、新幹線工事完了の暁、新〇〇が
橋際に建設されることになった。
今般旧浮間橋建設記念碑移設工事が
完了したことを記念した碑を立てる
 昭和60年9月 浮間橋記念碑保存会

 


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