私が東京の大学に入学したのは、昭和33年(1958年)。
新幹線が走るずっと前で、いつも新潟駅始発の夜行列車で上京した。
田舎と東京の文化の落差は大きくて、東京に入るには、ある種の緊張感を強いられた。
上野駅のホームに降り立つときは、「よしっ」と心に叫んで、スイッチを切り替えたものだった。
井沢八郎は、『ああ、上野駅』で「上野は、おいらの心の駅だ」と歌ったが、確かに、私にとっても上野駅は、人生と時代を回想させる特別な駅として、存在するように思える。
が、駅に隣接する上野公園には、そうした特別な感慨はない。
知っているのは、動物園や博物館、美術館への通り道としての上野公園で、ましてや記憶に残る園内の石造物は皆無といっていい。
ま、公園内の石造物は、大抵そんなもので、私にとっての上野公園が例外というわけではないのだが。
で、今回は「上野公園の石造物」。
いつものは、公園口改札から公園に入るのだが、今回は改まって正面入口から。
上野駅の正面玄関を出て、右へ。
私が上京したころ、この辺りは映画館が並んでいた。
山下の映画館の中に入ると、お年寄りとあんちゃん連とホステスたちの姿しかない。おれもとうとうゆくところまで行ったな、とおもった。世に容れられない人たちが薄暗がりのなかで、画面に喰い入っている。おれは世に容れられないのではない、世を容れなかったのだと思いなおしてみても、二十年も前の山下の映画館の午前は敗残した人々の逃避場であった。(吉本隆明)
公園へ上る石段横に見慣れない石碑がある。
真新しい。
樽の上に、金色のあひるが羽を広げて立っている。
その樽には「羽のある いいわけほどは あひるとぶ 木綿」と川柳が刻されている。
そして土台の瀟洒な石碑には「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 柳多留250年実行委員会」とある。
傍らの解説版を読む。
明和2年(1765)、呉陵軒可有が、川柳の原点ともいうべき誹風柳多留を刊行、これにより川柳は、十七音独立文芸として確立されることになるが、その版元・星運堂がこの地にあったので、ここを文芸川柳発祥の地とする、というもの。
なお、「羽のある いいわけほどは あひるとぶ」の「木綿」は、創始者呉陵軒可有の号です。
正面入口中央に四角い石の囲い、その中に卵形の御影石が横たわり「上野恩賜公園」とある。
「恩賜」の読みも意味も分かるが、自分の言葉として使ったことはない。
小学校1年生の8月に終戦、戦後民主主義の申し子的な子供時代だったから、天皇的なるものとはまったく無縁で、「恩賜」も死語同様だった。
寛永寺境内が上野公園になるのは明治6年(1873)だが、天皇、皇后を迎えての開園式は、明治9年(1876)だった。
その前年、彰義隊墓所の建設が許可され、寛永寺が上野山内へ復帰するなど、徳川ゆかりのものが明治政府によって陽の目を見ることになったばかり。
明治政府がみずからの権力に自信を持ち始めたことがうかがえる。
天皇、皇后をお迎えしての開園式だったからその時に恩賜されたのだとばかり思っていたが、恩賜公園になったのは、関東大震災の翌年、大正13年(1924)のことという。
その「恩賜公園」に、なぜか、カエルの噴水。
右を向くと「忠魂碑」がある。
恩賜公園には、カエルの噴水より忠魂碑が似つかわしい。
書は、乃木希典というからいうことはない。
背面に、日露戦争での戦死、病死者200名の名前が彫られているらしいが、柵を越えてまで確認することもないと思い、正面から撮影しただけ。
厳重に鉄柵で縛られてなんとなく痛々しい。
縛らないと瓦解するのだろうか。
そのまま進むと広い石段がある。
最下段の右側には、古い石柱。
灯籠台のようだ。
セメントで穴埋め、修繕されているのは、どうやら弾痕らしい。
彰義隊と官軍との上野戦争の戦禍なのか、それとも太平洋戦争時の機銃痕か。
平和ボケの頭では、当時の惨状を想像することもできない。
石段を上がると右方に西郷さんの銅像。
身長に比して頭が大きいのは、下から見上げた時の遠近法を考慮したものと言われているらしいが、下から撮った写真でも大きいのだから、「ほんとかいな」。
連れている薩摩犬は、もう純血種はいないのだそうだ。
西南戦争の城山決戦で戦死した西郷は、後に官位をはく奪されたが、生前の肩書は陸軍大将だった。
官軍は、自らの大将と戦ったことになる。
本来は軍服姿の銅像を建立する予定だったが、賊軍の将=朝敵のイメージぬぐいがたく、反対が多く、浴衣姿となった、との解説がある。
銅像の下に白文がある。
以下は、その読み下し文。
「西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあり、賛述するを須いず。前年勅して特に正三位を追贈せらる。天思優渥、衆、感激せざるはなし。故吉井友実、同志と謀り、銅像を鋳る。以て追慕の情を表す。朝旨金を賜う、以て費とす。資を捐し、この挙を賛するもの二万五千余人なり。明治二十六年、工を起こし、三十年に至りて竣る。乃ちこれを上野山王台に建て、事由を記して以て後に伝う」
白文は、現代人には難しいからだろうか、銅像の傍らに「西郷隆盛と銅像の由来」と題する分かりやすい説明文を刻した石碑がある。
内容はほぼ白文と同じなので、案内は省略させていただく。
実は、西郷隆盛は、彰義隊と官軍とのいわゆる上野戦争の時、最も激戦を繰り広げた黒門攻めを指揮していた。
銅像の場所が正に激戦地だった。
彰義隊の墓が、西郷さんの銅像のすぐ後ろにあるのも、むべなるかな。
上野戦争では、彰義隊約200人が戦死した。
遺骸の処理を官が拒んだため、上野の山は死臭に包まれたという。
官に憚る賊軍の墓であることは、「戦死之墓」とだけ書かれた墓石が物語っている。
山岡鉄舟も、彰義隊の字句を書くのを明治新政府に遠慮せざるを得なかった空気があった。
「戦死之墓」に向かって左に「彰義隊墓表の来由」と書かれた石碑がある。
びっしり刻まれた文字はきちんと判読できるが、立ち読みするには、いかんせん、長すぎる。
2000字弱の全文を転載するので、興味がおありならば、お読みください。
夫れ皇国時運の沿革を観るに、昔、天網紐を解き、相家権を執り、保平の乱、政権部門に遷りてより、徳川公の治世実に二百有余年、四民此沢に浴せざるものなし。然り而して時運循環終に嘉永六年中、北亜米利加合衆国の使節、相州浦賀に渡来するや以降、世間紛擾、尊王攘夷の士四方に起こり、殺気天を覆ひ、〇風地を捲き、人心恟々其堵に安んぜず。茲に於て徳川将軍宇内の形成を洞察せられ、方今、外国交際日々頻繁に及ぶに就いては政権一途に出でざれば皇国の綱紀相立ち難しと従来の旧習を改め、東照公爾来兵馬の大権を一朝に廃棄し乃ち政権を朝廷に帰させられ広く天下の衆議を尽し聖断を仰ぎ、上下同心協力共に国家を富岳の安きに置き宸襟を安んじ奉る可しとの宏遠の深慮より断然此議を奉聞せられたるに朝廷聞召され外夷一条は衆議を尽し其外諸侯の進退は両役取扱い自余の義は召の諸侯上京迄の処、支配地市中取締等先ず是迄の通りと仰せ出されたり。然り而して慶応四年正月三日、徳川将軍召に依り上京の先途、豈図らん突然鳥羽伏見の変起り、尋で東征の師下ると聞くや実に憂憤戦を主となす者あり、和を主となす者あり、両議紛々鼎座密議を凝らし、偏に君家の寃雪がずんば止まず、所謂辱かしめられば臣死するの時なりと寝食を忘れ日夜焦慮実に慨然に堪えざるに我君固より時世を深く鑑みられ、万民の為に畏れ多くも過失を一身に受けせられ、只管恭順を旨とせられ、一般に令して曰く、東征の師来るも必ず謹んで此れを迎ふべし、若し然らずして抗するものあらば尚我身に刃をさすものなりと説き万石以上の者の役は悉く免じ其以下と雖も近畿関西に知行あるものは聊か懸念なく速やかに上京し帰順の大義を尽すべしと布告し、又或いは暇を請うものは不本意ながら其意に任ずべしと厚く示されたり。而して大城を出でられ東台に屏居せらるるに至る。嗚呼臣子の分として之を如何にせんや。然れども君命の重き復之を如何とも為す能はざるを以て該命を遵奉し斯に同志の士相謀り即ち彰義隊名の認可を得て浅草東本願寺へ会合し死を盟ひ飽くまで君家朝敵の汚名を雪がんものと哀訴の議起る。然るに我君猶水戸表へ退かるる趣に付、随従の議を請願したるに容れられず而して千住駅本陣に於いて懇篤の命を蒙り、以て輪王寺宮殿下を始め奉り、上野山内一般の護衛を謹而奉仕せよとの儀に付、命を奉じ更に東台に移り屯集したるものとなり。而して夜、大総督府より輪王寺宮殿下を始め徳川家累代の宗廟、勅額、宝器等守衛の段、まことに精忠に思召され、なお勉励いたすべしとの感状を賜はりたり。是より先、各藩士中に我々と同感の士漸次集り来りて我付属隊となるもの多く。随てその勢ひ益々熾なるに因り、図らざりき遂に嫌疑を蒙り、畏れ多くも天然に触れたる趣を以て追討の不幸に逢へり。実に慶応四年五月十五日昧爽、突然官軍の攻撃を蒙れり。蓋し大小の侯伯、都て二十八藩、其の勢凡そ二万八戦人なりと。夫れ素より衆寡当るべからざるは論を俟たざるのみならず、業己に事斯に究り剰へ自然君命に悖り、国賊の叛命を蒙りたりしを今や如何せん。然りと雖も素心確固として動からざる所以のものは蓋し他なし。元来君命に乖き叨りに錦旗に抗するものにあらざるは勿論なれども己に此期に臨み、豈順逆正邪を議論するの暇あらんや。夫れ然り乃ち武門の本意、忠と義と以て一死あるのみ。親王を補翼し禦戦す。而して親王、当山を避け、会津若松城へ成らせらるるに付、各〇従す。此時砲弾の下に斃るるもの是れ皆善く武門武士の道を尽したるものなりと謂可し。故に官又特別を以て其遺骸を悉く此の所に埋められたり。爾来王政維新の洪業全く成り、益々開明の域に進むに際り、爰に墓碑建設の聴許を得るに至る。茲に於いて一朝王師に抗したるものなりとは雖も、然れども時に洵に止むを得ず、骨を柳営墳墓の地に留めたるものなり。豈敢て其弧忠を憐み、其義列を称せざるものあらんや。夫れ誠に然りとす。然るが故に旧薩洲候を始め其他の諸君より墓碑建設費の内として多少寄付せられたるも工事発起者の為には大事業なりしに該工事央にして種々の障碍起り頗る困難なりしを当時小石川白山前日蓮宗大乗寺住職目今大本山池上本門寺貫主権大僧正鶏渓日舜上人の大慈善を以て大いに是を補助せられたるにより此碑全く成る。爾来年年歳歳に参拝者多きを加ふるに至る。便ち一視同仁、天恩の厚き、諸君の賛助に由ると雖も慈愛深きにあらざるよりは安んぞ能く此に至らんや依って恭しく地価の忠魂を聊か慰せんが為に併せて参拝諸君の参考に併せんと欲し謹而是を識す。
明治十五年五月建、旧彰義隊分隊天王寺詰組頭小川漳椙太事、当墓碑発起担当者静岡県士族小川興郷謹白
上野公園は、関東大震災や東京大空襲で大きく様相を変えるが、この西郷さんと彰義隊の墓界隈も例外ではない。
関東大震災では20万人の被災者が上野公園に押し掛けた。
西郷さんの銅像は、尋ね人の張り紙で一杯になったといわれている。
第二次大戦中、西郷さんと彰義隊の墓の間は高射砲陣地となり、防空壕が掘られていた。
防空壕は清水堂の下にもあって、掘り返せば、昔のまま、出現するのではないかという人もいるらしい。