石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

75 東京大空襲関連の石仏・石碑(2)

2014-03-16 05:53:48 | 戦災殉難者供養塔

3月になって、「風化」の文字を紙面で見かけることが多くなった。

もちろん、3.11についてです。

当日の紙面には、「早い風化、遅い復興」の見出しも。

では、3.10については、どうなのか。

3年目の3.11が「風化」しつつあるならば、69年目の3.10東京大空襲は「忘却」されきっているのではないか。

慰霊祭が行われている現場に行ってきました。

3月9日、午前10時、上野公園の「哀しみの東京大空襲」(当ブログNO61「東京大空襲関連の石仏・石碑」をご覧ください」供養式。

午前10時直前に到着したら、式次第が見えないほどの人だかり。

主催の海老名香葉子さんも「あの忌まわしい戦争を風化させないで」と訴えていました。

 

盛会であることを確認して、次に江東区森下5丁目の猿江橋へ。

町会主催の「八百霊地蔵」供養式が11時半から行われる予定。

「八百霊」とは、当時の深川高橋町の3.10犠牲者の数。

終戦後1年、生存者たちによって「八百霊地蔵尊」が造られ、毎年、慰霊祭が行われてきました。

挨拶にたった町会長は、犠牲者747人の氏名を刻んだ石碑をお堂の横に建てたいと募金を呼び掛けていました。

参集者は20-30人、お年寄りばかりなのが気がかりです。

町会会館には、747人の犠牲者の名簿の巻紙が展示されていました。

同じ姓のひと塊は、家族ということでしょう。

約7mもの巻紙から、阿鼻叫喚の叫びが聞こえてきそうです。

「真っ赤になった建物が崩れ落ち、道路に広がる。さあ、大変だ。ものすごい灼熱地獄にみまわれる。すごい熱さだ。異口同音、熱い、助けてくれと泣き叫ぶ声、倒れるものもいる。どおっと40人ほどひとかたまりになって前の路地になだれ込む。もう、逃げ場はない。絶対絶命だ」。MNさん、当時17歳。『東京大空襲・戦災史1』より

あくる日、焼け跡に姉の死骸を探しに出てゆきました。男女の区別もなく、顔で判断できる状態でもなく、しかたなく、わきの下にかろうじて残っているかもしれない衣類で見定めるほかないのです。防火用水槽の中から、箸立てに箸を立てたように何本もの足が立っていて、それがまっ黒に焼けていました。頭に火がついて、少しの水でもと、頭を用水につっこんだまま死んだ方々でしょう」。MKさん、当時17歳『東京大空襲・戦災史1』より

 都営地下鉄「菊川駅」に向かう途中、菊川橋たもとの「夢違之地蔵尊」で、翌10日、午後2時から慰霊法要が執り行われる旨の看板があるのに気付く。(「夢違之地蔵尊」については、NO61参照)

私が住む板橋区では、こうした3.10犠牲者の慰霊法要が町会ごとに行われているとは聞いたことがない。

被害甚大だった江東区ならでは、の感を強くする。

 

翌、3月10日。

浜町の明治座へ。

9時から、明治座1階エントランスホールで行われた「明治観音戦没者慰霊法要」の参列者はほぼ全員、明治座の社長はじめ、役員、幹部社員と関連企業の社員ばかり。

会社の行事の色彩が強い法要でした。

でもこうした慰霊祭を持続しているのだから、立派な会社です。

明治観音とは、明治座前の植込みの中におわす観音様。

避難した明治座で亡くなった犠牲者供養のため、昭和25年、建立されたものです。

東京大空襲の惨劇の中でも、明治座での惨事が突出しているのは、①明治座が老人、幼児、病人、女性の避難指定場所だったこと②火煙の回りが早く、逃げられずに③屋内で数千人もが焼死した、ことによるものです。

あたり一面火の海、明治座の中に入る以外逃げ道はないように思われ、みんな扉を夢中でたたいているが、中からの応答はない。足元には容赦なく焼夷弾が炸裂し、人々がその火の中に投げ出されてゆきました」YYさん、当時18歳、『東京大空襲・戦災史1』より

体格のいい男が二、三人扉を内から押さえている。中はもう満員だ。入口の扉ごしに見える外の景色はしだいに地獄のような光景に変わってゆく。走っている人が急にパッと燃え出す。走っている姿そのままに、火の塊となって倒れてゆく。
楽屋口に火かついたという叫びがあがった。ざわめきが広がる。煙が吹き込んでくる。目が痛い。息苦しい。
どのように扉が開いたか覚えていない。外へ飛び出した人たちがパッと炎に包まれる。倒れたまま動かない。外へ飛び出しては危ないと壁のくぼみへへばりつくようにうずくまった」。KYさん、当時20歳。 『東京大空襲・戦災史1』より

明治座前の散歩道を東に行くとすぐ浜町公園にぶつかる。

高射砲陣地だったから一般人は入れないが、敷地が広いからここへも大勢が避難に押し寄せた。

③浜町公園 ④明治座

高射砲陣地だから、集中的に爆撃されたことに加え、対岸の深川の火炎が強風に乗って大川をあっという間に渡ってくるという信じられない厄災で、人々は瞬殺されたのでした。

 

このブログの書き出しは「風化」についてでした。

しかし、「風化」どころか、今なお3.10東京大空襲の傷跡をしっかりととどめている場所が、都内23区に無数にあることを、あなたはご存知ですか。

それは、墓地。

江戸期から昭和10年代までに建立された墓石、石仏はことごとく、空襲による火災に見舞われ、焼け焦げになりました。

戦後69年、大半の墓石は新しく造りなおされましたが、黒く焼け焦げたままの墓石がまだ多数残っています。

 

  常光寺(江東区)         宝蓮寺(江東区)

 

     法泉寺(墨田区)          法泉寺(墨田区)     

 (前略)

走っている
とまっていられないから走っている
跳ねている走っている跳ねている
わたしの走るしたを
わたしの歩るさきを
燃やしながら
焼きながら
走っているものが走っている
走っている跳ねている
走っているものを突きぬけて
走っているものを追いぬいて
走っているものが走っている
走っている
母よ
走っている
母よ
燃えている一本道
母よ

                             宗左近『燃える母』より 

 

 

  宝林寺(江戸川区)         浄光寺(葛飾区)

         

          空襲で焼けた大欅 建長寺(足立区)

前略)
学校も 文房具店も 八百屋も 洋品店も 警察署も姿を消し
灰 煙 焼屍体だけが取り残され
焦げたトタン ぼろぼろの電線が 北風に吹かれていた
白い便器の残骸のみ異様に光り
お寺も 鼠も 平凡な生活も姿を消し
本所も 東京下町の風情ことごとく姿を消し
川水までが焼けて臭く
地上の果ての天までが姿を消した

一夜に 十万人が姿を消した
すべての死者には 横たわる土地もなく
見まもる家族もなく
瓦礫の中 溝の中 泥の川に 打ち捨てられ
母は子を抱いて 子供は親を求めて 夫婦引き裂かれ
黒焦げのまま 打ち捨てられた
腕と腕とを絡め 腕や脚を捩がれ 
鼻も耳も唇も熱に溶けてしまって
廃物のように打ち捨てられた
生の国が姿を消し
天国も楽園も
空も 花々も 三輪車も 公園も 姿を消した
ただ 焼跡ばかり 灰ばかりが臭い 

きみはおそらく見ただろう 燃えるきみの町を きみの両親を
凶暴な炎につつまれ
さいごの目で 燃えさかる きみの愛していたすべてのもの すべての人を
道を這いまわり 川面をすら舐めつくす炎のなかで
逃げ場を失って
きみは見たにちがいない
地獄を 本物の地獄
いちめん火の粉を噴き上げる地上 焼け焦げる空
つぎつぎに人間が炎に飲み込まれてゆく焦熱地獄を
それきりきみは炎と化した きみといっしょに
ぼくたちの愚かな学習 無知も焼かれた

そのとき ぼくも逃げ出していたのだよ
ナパーム焼夷弾の雨が降りそそぐ千住の町を
火災また火災が 壁のようにつらなり
風を巻き起こして押し寄せてくる狭い道を
唯一つの逃げみち 隅田川べりの広場へ
そこをめがけて 地の底から湧き出したような大勢の人間の群れが つめかけた
その夜 命からがら広場に逃げ込んだ
夥しい人数が声もなく震えていたのは
恐怖と寒さと
炎のなかでごうごうと唸りながら焼かれてゆく
街並み 家々の屋根 柱 窓 障子 板塀
目のとどく限りのすべてを焼きつくす炎の
あまりのとめどなさ
人間か悪魔か
凶器の業の 際限もない狂乱に胆を奪われたためだ
ちょうどそのころ
とめどなく膨れる炎の壁の向う側で
きみは焼き殺されていたのだ

(後略)

           田中清光『東京大空襲ー少年時の親友Kにーより』

 

       

                 自性院(北区)

 

   養福寺(荒川区)         文殊院(板橋区)

元の麻布三連隊の裏門を出て
冬枯れの雑草を踏んで高台に立つと
そこから青山墓地のくらい森が見わたせる 

あ あの右手の駐車場のあたりか
兵隊の私たちは東京空襲の屍体を集め
頭をもつ奴と足をもつ者の二人が組んで
トラックに放り投げた屍体を運び
そう あの辺に屍体の山を築いたものさ

二階建ほどのピラミッド状の屍体の山がいくつか
三日間の屍体引渡し期間のあとは
読経もなく火葬もなく死臭の廃棄物として
大きな穴を掘って埋めた記憶が甦ってくる
嫌だったのは雨の夜の屍体衛兵
赤むくれの女の屍体がにたりと笑う
幼い子供の眼はひらいたまま雨にぬれていた

(後略)

           斎藤庸一「明けがたの烽火台」より

 

 

    正覚寺(練馬区)                        新井薬師(中野区)

    

                  

                                    東覚院(世田谷区)

さいた さいたと花便り
四月の空に小波のように流れる
息子たちをいくさに送ったさくら
息子たちはみんな
戦死してさくらの根本に還ったから
さくらはいのちの儀式を咲いているのだ
さあ さくらの儀式を拝みに行こう

             宮静枝「なげきのさくら」より

 

 

   本住寺(大田区)           秀明寺(大田区)

 

    海雲寺(品川区)          魚濫寺(港区)
 

この恐るべき夜には
逃げてゆく場所も
なす術も なかった
人々は 燃え盛る炎の海を
必死に 泳いでいた
人々の声は嗄れていた
とどろく炎の波は
いっそう高まり
砕けた大地をうずめた

ついに人々は
炎の波の下に沈んで行った
貪欲な炎の舌は
人々の体を 骨を
涙を 苦しみを
哀しみを 血を
めらめらとなめはじめた

(後略)

          堀内利美「人々は炎の海を泳いでいた」より

 

  

     東北寺(渋谷区)       瑞泰寺(文京区)

(前略) 

百キロ爆弾が向かって来るときは
鉄橋を汽車が通る音がするよ
鉄の塊が空気を破ってくる音だよ
町中が燃えると
火は素早く走りはじめるよ
川の水が燃えたよ
川は逃げてきた人を金色の火でつつみ 殺していったよ
川へ入らなかった人たちは熱で溶けたよ
紙みたいに燃えて空へ燃え上がったよ
溶けなかった人は人間の形をした灰になったよ
燃えた空を川は映していたよ
きれいな赤い色で川が燃えて
生きたがっていた人間がみんな死んだよ
空が燃えた 水が燃えたんだよ
戦争の火は何でも燃やすんだよ
何でも溶かし溶けないものは灰にするんだよ
燃えなくても溶けなくても灰にならなくても
戦争の火を見た人間は死ぬんだよ
 

戦争なんだ

爆撃のあとは雨が降るんだよ
水が飲みたくて水を探して水が飲めなかった人に
雨は降ってくれるんだよ
大きな穴に水が溜まっているよ
粉々になって埋まっている人の上に
雨が溜まっていくよ
灰になった人から 灰にしたものから湯気が出て
静かになっていくよ
動こうとしているのは生きている人だよ
動けない人ばかりだよ

もういいよ
もういいよもういいよ
もういいよ
もういいよ
もういいよ
もういいよ
もういいよ

            秋山泰則「百キロ爆弾のそばで」より

 

      

          心法寺(千代田区)

 

   本妙寺(豊島区)         長久院(台東区)

あの日 降ったのは雨ではなかった
あの夜 降ったのは雨ではなかった
シュルシュルシュルル シュルシュルシュルル
ゴオーッ ゴオーッ ゴオーッ
ひかった うなった はじけた
降っていた 降ってきた 降った
あの日 あの夜 降ったのは雨ではなかった
(中略)
あの日 あの夜 降ったのは焼夷弾の雨でした
二時間半焼夷弾の雨が降りました
二時間半の焼夷弾の雨で十万人余の人が焼け死にました
生きたい生きたいと願いながら焼け死にました
紅蓮の炎が夜空を焦がしました
火の粉が熱風が街々を覆い焼け野原にしました
(中略)
あれから六十年・・・
聴こえますか 聴こえてきますか
もの言えぬ もの言わぬ 逝った人々の
さまざまな声が いろいろなつぶやきが
六十年前の焼夷弾の雨の物語となって
鎮魂の賦をいつまでも語りつづける

                      石塚昌男「あの日あの夜降ったのは・・・?」より

 

掲載写真に特別な意味はありません。

都内23区の各区から1点ずつ選びました。

候補写真はあまりにも多く、最初に目についたものを適当に配列しただけのことです。

以上で、今回ブログの企画意図は達成したので、これで終了していいのですが、カットするには惜しい事例があるので、アラカルト風に3点紹介しておきます。

石仏や墓石の大半は、焼け焦げで済んでいますが、石が剥離したり、割れたり、一部、欠損したりするものも少なくありません。

あまりの高温に原型をとどめない石仏も。

地下鉄「中野坂上駅」から3分の中野第十中学校脇の「石棒」は、元は青面金剛庚申塔でした。

中野区は、3.10から2か月半後の5月25日の大空襲で死者2000、全焼家屋2万の被害がでました。

青面金剛庚申塔は、この時、破壊されてバラバラになったのですが、戦後、地域の人たちが石片を集め、セメントで固め直しました。

像容が皆目分からないのは、直し方が下手だったからではなく、高温のために石が溶けて変形していたからではないかと思われます。

  金剛院(豊島区)宝永年間

宝永年間建立だったといいますから、上の写真のような青面金剛庚申塔だったはずです。

花立てには、生花が供えられています。

 ガラスのろうそく立ての後ろに「石棒」

姿かたちが変わっても、庚申塔としてお参りする人が今でもいることが分かります。

 

3.10東京大空襲の犠牲者は、大量の高性能焼夷弾投下による火災に因るものでした。

西東京市泉町の宝樹院参道に在す六地蔵のうち1体は、お顔が違います。

これは、落下されたのが焼夷弾ではなかったから生じた悲劇でした。

宝樹院から遠くない場所にあったのが、戦闘機を製作していた中島飛行機武蔵野工場。

 1944年11月、初空襲を受ける中島飛行機武蔵野製作所

日本の最重要軍需拠点として主要ターゲットとされ、米軍の度重なる重爆撃を受け、完全に廃墟と化しました。

破壊を目的とする爆撃に使用されたのは、1トン爆弾。

  投下された450キロ爆弾

狙い外れて、宝樹院境内に落ちた爆弾は、六地蔵を粉砕してしまいます。

戦後、バラバラになった六地蔵を復元すべく、住職が境内を掘り返すも、1体の頭だけはどうしても見つけることができませんでした。

仕方なく、石屋に頼んで、新しく造りなおしたため、顔が違うことになったというのですが、あまりにも違いすぎて、とてもプロの職人の仕事とは思えません。

六地蔵の背後に回ると、六体それぞれにセメントの跡が生々しく、修理の苦労が伺われます。

 

すべて物事には、始まりと終わりがあります。

東京空襲の始まりは、昭和17年(1942)4月18日でした。

作家吉村昭は、当時、中学3年生。

土曜日で学校から早く帰った吉村少年は、日暮里の自宅の屋根の上につくられた物干し台で六角凧を揚げていた。快晴だった。

東の方から爆音がきこえてきて、見ると迷彩をほどこした見なれぬ双発機が近づいてきていた。驚くほどの超低空で、私は凧がからみはしないかとあわてて糸を手繰った。

両端垂直尾翼の機は、凧の上を通過した。胴体に星のマークがつき、機首と胴体に機銃が突き出ている。風防の中にオレンジ色の絹のようなマフラーを首に巻いた二人の飛行士が見えた。機は、少し右にかたむけて谷中墓地の方へ遠ざかっていった。

ハワイ奇襲以来、日本軍は優勢に戦いを進め、連戦連勝が報じられていたので、私はそれが敵である米軍機などとは思いもしなかった」。吉村昭『東京の戦争』より

 

 谷中墓地の方へ去った双発機は、機首を東へ向ける。

機銃掃射による最初の犠牲者が出たのは、葛飾区水元小学校でした。

 

     葛飾区立教育資料館(旧水元小学校)

教頭が記入した学校日誌。

突如学校の西北方の森の上にポカリと湧き出たかのごとくまっ黒な大きな飛行機が、あまり音も立てず極めて低空に校舎をめがけてまっしぐらに急襲し来る。

    教育資料館に復元された戦前の教室

敵機は、カタカタ、バリバリと機銃掃射を浴びせて悠々と東南方へ飛び去る。今にもドカンと校舎が爆弾で木端微塵に吹っ飛んでしまうだろうと予期していたのが、そうでなかったので皆一瞬ホッとして身を起こした。

放課後、帰宅すべく校舎を出かかっていた高等科1年石出巳之助は、かねての訓練通り、教室に戻ろうとして、敵弾を右腰上背部に受けて倒れる。2キロ距離ある三菱製紙医務室に運び手当をするも午後2時絶命せり」。

 

当時の水元小学校校舎は、葛飾区教育資料館として、往時の姿そのままに保存されています。

教室には、当時の授業風景が再現されていて、当日掃射された機銃砲弾も展示されています。

     機銃砲弾と校舎の傷跡

石出巳之助君の墓は、学校西方の林法寺にある。

戒名は「悲運銃撃善士」。

東京大空襲始まりの日の余話でした。

 

≪参考図書≫

◎『東京大空襲戦災史1,2,4』1973-1975年

◎鈴木仁佐雄『大空襲310人詩集』2009年

◎東京歴史教育者協議会『フオトガイド東京の戦争と平和を歩く』1995年

◎朝日新聞『東京被爆記』昭和46年

◎吉村昭『東京の戦争』2001年