石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

11 信州石仏めぐり-(2)

2011-08-12 14:52:02 | 石仏めぐり

7月26日、12時、入山辺の最奥まで入り込んで、一転、松本市西郊へ。

25分で松本市内に入る。

午前中、同じ道を5時間かけて走り回っていたことになる。

午後は島立、新村コース。

長野自動車道の松本ICがある所が島立。

今回は『日本の石仏』NO66の「石仏の旅-長野県松本市西郊島立・新村の石仏」を参考に。

①の堀米新田の孫右衛門道祖神は是非見たかった。

午前中、山辺でユニークな孫右衛門作品を見たばかりなので、期待がふくらんだ。

だが、どうしても見つけられない。

「市民タイムスの案内板に従って信越放送の鉄塔の方向に右折すれば右側に・・・」と書いてあるその場所で地元の人に聞いてもそんな道祖神は見たことがないという。

18年前の資料だから、道路工事、住宅建設などで場所を移動したことも考えられるが、生まれてから75年、この界隈にいる人が見たことがないというのだから仕方ない。

しかし、普通の人は石仏に無関心で、地元の人だからと言って必ずしもみんな記憶しているわけではないから、更に探し回ったが見当たらず、ついに断念。

午後のコースの逸品は彩色道祖神。

永田集落の四辻に立つ火の見櫓。

その傍らにブルーが鮮やかな祝言跪座型道祖神が立っている。

 

 

江戸時代の道祖神にしては、色が鮮やかだなあと感心していたら、毎年の祭に子供たちが色を塗り直す行事があるのだそうだ。

つまり道祖神祭りは、ここでは今も健在だということになる。

碑の裏面に回る。

 

「弘化二乙未(1845)二月吉日帯代二十両」とある。

゛道祖神を欲しい(盗む)なら帯代(結納金)二十両を出せ゛という意味。

脇に立つ市教育委員会の解説板によれば、「もともとここには、天保八年銘の道祖神があったが、南栗村に゛盗まれた゛ので9年後の弘化2年再建した」らしい。

ここから西へ進むと左に酒造会社がある。

その工場の門前にも彩色された抱肩祝言像と二十三夜塔が並んでいる。

 

ここのも子供たちが塗ったようだが、塗り方が乱雑で汚らしい。

道祖神は藤森吉弥の作品。

高遠石工の系統をひく吉弥は、名人気質で、乞食の吉弥と呼ばれ、放浪しながら各地に名作を残した、と解説板に書いてある。

 

 明治になっての廃仏毀釈は、鹿児島、富山、長野で特に荒れ狂った。

「永田山法性寺」には無意味に広がった空間がある。

 

       「永田山法性院」(永田)

 

廃仏毀釈で廃寺となった。

このだだっ広い空地は、寺の境内の跡地でなかろうか。

首のない石仏は、廃仏毀釈で首を切られたとよく言われるが、信州では首のない石仏はごくわずか。

廃仏毀釈のありようにも地域性があることを再確認した。

この日は、豊科駅ちかくのホテル泊。

 

3日目の27日、午前7時にホテルを出る。

ホテル傍の「新田神社」の4体の道祖神はすぐ見つかったが、このあとが大難航。

 

  

 「新田神社」前の4基の道祖神

『石仏手帖-長野篇-』の「石仏の宝庫安曇野の道祖神めぐり-北部ルート」の場所表記が実に分かりにくい。

人に聞こうにも人影はない。

たまたまキャッチした人もつい最近越してきたばかりだったり、他の地区からの通勤者で現地のことは何も知らなかったりして、やっとのことで2番目の目的地へ。

3番目を探す時は、すでに2時間が経過していた。

ガイド本を捨てて、安曇野市発行の『あづみの穂高・道祖神めぐり』と『安曇野みちくさの旅』に切り替えた。

場所も穂高駅に移動、わさび園周辺を走り回った。

結果、22体の双体道祖神を撮ったが、古いものも新しいものも混在していて、区別がつかない。

安曇野を回っていて気付いたことは、集落ごとに大きなプラットフオームがあり、その上に双体道祖神、庚申塔、二十三夜塔、大黒天、名号塔等の石造物が3,4点必ず鎮座しているということである。

そして、道祖神が必ずその中央にいる。

プラットフオームも石造物もその大きさを集落ごとに競っているかのようであった。

 

夫々の場所は明記しないが、いずれも穂高駅から南東地区の集落の石造物。

安曇野には期待をしていた。

双体道祖神の佳作が数多く見られるはずだった。

それがガイド本の案内表記の拙さで、期待はズタズタになった。

本来は安曇野でもう一泊するつもりだったが、すっかり嫌気がさして、12時、安曇野を後にした。

13時には塩尻駅にいた。

奈良井宿の民宿に今夜の宿を予約して、向かったのが塩尻市と朝日村の間の洗馬地区。

江戸期、洗馬は高遠藩の飛び地で、高遠石工が多く住みついていたのだという。

石造物に見るべきものが多いのは、それが理由なんだそうだ。

まず登場するのは、線彫り青面金剛。

 

爪彫りというのだそうだが、浅く陰刻されている。

元禄十一年(1698)造立の2手2鶏、2猿の穏やかな顔の青面金剛である。

元洗馬の火の見櫓。

その真下にブロンズ像の双体道祖神がある。

 

 顔や衣装が日本人離れをしている。

外国人の作品ではなかろうか。

このブロンズ像から4、50メートルも離れていないところに、風車を持つ少女の石像が横たわっている。

 

鑑賞用に置かれているというより、捨てられたみたいだ。

ブロンズ像と同じ作者の手によるものと推察した。

 

一石に二十三夜塔と庚申塔が刻まれている碑がある。

「宿星庚申 二十三夜供養塔」とある。

 「長興寺」の参道にあるのだが、「これは珍しい」と興奮して撮ったのに、100メートルも行かない路傍で同じ形式の石碑に会った。

この地方独特の風習なのか、もちろん、意味は分かるはずもない。

 

        「長興寺」参道          天然記念物しだれ桜の下

しばらく道なりに進むと右手に見事な長屋門。

まるで時代劇のセットのようだ。

ブルーのトタン板が折角の雰囲気をぶち壊しにしている。

 

 そのトタン板の隣に双体道祖神が2基。

 

左の大きい方は明治20年造立。

男女神ともいかつい顔だ。

右の方は、一転、手を取り合い、頬を寄せ合ってほほえましい。

 

右の道祖神は、寛政7年(1797)、隣村の朝日村で造られた。

と、いうことは、ここへ「道祖神盗み」により「嫁入り」してきたことになる。

では、こんな愛らしい道祖神があるのに、明治になって、わざわざ新しく、左のいかめしい道祖神を、何故、作ったのであろうか。

 

バス停「高畑」をバス通りから少し入ると三辻の角にひょろ長い自然石の文字庚申塔。

飄々として存在感がある。

 

その左脇に凹凸のこれまた自然石が鎮座している。

 

       塞の神石(高畑)

『路傍の石仏』(武田久吉)によれば、道祖神の原型で「塞の神石」というものであるらしい。

「塞の神石」は、山辺の「徳雲寺」参道入り口にもおわした。

ここ小曾部地域では、ほかに何箇所か「塞の神石」を目にしたが、なぜ、その石が神石に選ばれたのか、共通する特徴もなく、疑問は増すばかり。

コンクリートで固定保存された塞の神石群(金山)

理由はさだかではないが、こうした石がムラの境にあって、異物が立ちいるのを塞ぐ役割を果たしていたことは、どうやら確かなことらしい。

「なるほど」と頷くか、「へえー」と首を傾げるか、それはご自由だが、僕は「なるほど」と思いたい。

その方が、想像域が広がって、話が楽しくなる。

 

信州のどこのムラの、どの小道に分け入っても、石仏に出会うだろう。

人通りがほとんどない道だからといって、昔からそこに石仏があったとは限らない。

道路工事や耕地整理、いろいろな事情で石仏は場所を変えてきた。

破砕して埋めたいが石仏ではそうもできない。

本来廃棄されるべき運命だった石仏たちは、寺社に持ち込まれることが多い。

持ち込まれた石仏たちは、群をなして境内の一角を占めている。

馬頭観音に特にこの傾向が強いようだ。

洗馬で馬頭観音保存のアイディア賞に相当する一群に出会った。

土止めの石垣の上段の石を外し、そこに馬頭観音が25体、ズラッと並んでいる。

 

        堂平前の馬頭観音群

背後に水田と山々。

かつてこのあたりの農業生産に馬は不可欠な動力だった。

家族の一員でもあった。

名前こそ刻まれていないが、家族の墓標と同じ哀悼が個々に深く刻まれているはずである。

馬たちも喜んでいるに違いない。

かつて毎日通った農道に仲間たちと群れていられることを。

どこのムラの馬頭観音も、村の見晴らしのいい場所に並べておいて欲しい。

ここに来て、その思いを一層強くした。

 

塩尻市洗馬の石仏めぐりは、これでジ・エンド。

奈良井宿に向け走る。

奈良井の夜は雨だった。

 

翌朝、深い霧の中、奈良井宿を出て、辰野町へ。

 

        奈良井宿

権兵衛トンネルを抜けて南箕輪村に出たら、左折。

右下に天竜川の扇状地を見下ろしながら

山沿いの道路を北上してゆく。

集落が変わるごとに石仏群がある。

その都度、車を停めて、パチリ。

辰野町への到着時間が2時間も遅れてしまった。

安曇野の石造物は大きかったが、このあたりも大きさでは負けていない。

 

 

印象的だったのは、造立年が大正、昭和の石造物にいくつも出会ったこと。

 

       庚申塔(大正9年)       甲子塔(昭和59年)

 

   

   庚申塔(昭和55年)

庚申待ちの行事が、この地方では、今でも行われているのだろうか。

是非見てみたいなと思う。

 

帰宅後、しばらくして『日本の石仏』のバックナンバーを見ていたら、『庚申年の造塔をめぐってー主として信州の場合ー』(胡桃沢友男)を1981年夏号に見つけた。

この記事の前年が昭和55年(1980)の庚申年であった。

その庚申年に、新しい庚申塔の造塔が信州、とりわけ上伊那地区でいかに多かったか、というのが報告の中身である。

さて、その造塔の数、なんと366基。

伊那市、駒ケ根市、辰野町、高遠町など10市町村。

丁度車で走り抜けた地域が、まさにその地域なのであった。

       辰野町諏訪辰野線路傍

路傍に庚申塔が3-4基そろって立っているのを朝な夕な見ながら、この地区の人々は暮らしている。

子供の頃、「この次の60年後は、これよりももっと大きいのを造るんだぞ」と大人たちからムラの言い伝えを頭に叩き込まれる。

庚申講の集まりも縮小され、あるいは廃止されてしまった地域もある。

庚申待ちの意味を知らない人も増えてきた。

それでも、庚申年が近付けば「今までやってきたことを俺たちの代で止めるなんてできない。絶対に大きいのを造ってやる」とついつい意気込んでしまう。

隣町の建立計画が噂で流れてくる。

「大正9年のより1.5倍も大きいらしい」。

「隣町に負けない大きいのを造ろうぜ」。

 

    諏訪市豊田の昭和55年造立庚申塔(右)

庚申年造塔フイーバーが上伊那地方を席巻し、新たに366基もの巨大庚申塔が輩出することになったという次第。

次の庚申年は2040年だが、上伊那地方では果たして何基の庚申塔が造立されるのだろうか。