石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

10 信州石仏めぐり-(1)

2011-08-01 08:33:19 | 石仏めぐり

信州で石仏めぐりをして来た。

7月25日から7月28日の4日間。

松本市北部の旧四賀村、松本市内、松本市東部山辺の里、松本市西部島立・新村、安曇野市、

塩尻市洗馬、辰野町、上諏訪市、下諏訪町。

撮った写真1970枚。

印象に残った十数点を披露する。

ガイド本『石仏手帖ー長野篇ー』では旧四賀村へは、篠ノ井線の明料駅方向から入るようにコースが設定されているのに、長野自動車道を麻積ICで下りて、筑北村から峠越えで逆方向から入ったため、石仏個所を探すのに一苦労した。

旧四賀村は善光寺街道、江戸街道の宿場として栄えた。

今に残る会田宿がその名残りをとどめている。

 

石仏も多く、村には2500もの石造物があるとガイドには書いてある。

元禄時代以前のものも50点は確認されているとのこと。

路傍の石造物は、総体的に石が大きい。

庚申塔は大半が自然石の文字塔。

猿の姿はない。

 

例外もある。

「広田寺」山門前の庚申塔2基には、猿が刻されている。

しかも2猿。

「聞かざる」と「言わざる」のようだ。

 

「広田寺」山門前の2基の庚申塔(元文5年) 聞かざる  言わざる

この「広田寺」には、もうひとつ、目をひくものがある。

百体観音は珍しくないが、ここ「広田寺」の並べ方は珍しい。

山門をくぐると本堂までの参道両側に百体観音が整然と並んでいる。

 

  「広田寺」の百体観音。本堂から山門を望む。

こうしたミニ霊場は、他に「藤池百体観音」や「岩井堂」にもある。

「藤池百体観音」は松山の山腹に何段にも重なるように並んでいる。

彫りが深く良品揃いなのに、訪れる人がいないのは寂しい。

 

     「藤池百体観音」         千手観音

「岩井堂」の百体観音は半ば散逸、残ったものも雑草に見え隠れして、かつての札所の面影はない。

 

        「岩井堂」の百体観音

特筆すべきは磨崖仏だろう。

地蔵尊が崖の下部に浮き彫りにされている。

その高さ2m30㎝。

信州には珍しい大きな磨崖仏である。

 

     

      磨崖地蔵尊

旧四賀村に着いたのが、午前10時。

2時間ほど写真を撮りまくって、143号線を南下、松本市へ。

松本市へ近づくにつれて、「猿田彦神社」の宣伝看板がやたら目につくようになった。

その宣伝につられて、「猿田彦神社」に寄る。

石碑が1枚立っている。

浮彫の猿田彦が微笑んでいた。

野田市で見た3体の猿田彦はいずれも髭を伸ばし杖をついていたが、ここのは髭もなければ、杖もない。

 

「猿田彦神社」の猿田彦(松本市宮渕2)

 

松本平に双体道祖神が多いとは聞いていたが、これほど多いとは。

「道祖神盗み」という言葉も初耳だった。

村をあげて、よその村から道祖神を担いでくる。

松本市蟻が崎の塩釜神社の道祖神には、「道祖神盗み」の痕跡がある。

 

                塩釜神社(蟻が崎2)の道祖神

道祖神の右側に「文政六癸未(1823)五月吉日」、その下に「白板村」。

左に「天保十二辛丑年(1841)正月蟻ケ崎邑」とある。

文政六年に白板村で造立したことが刻されている。

盗んできたのなら、その痕跡を消すのが普通なのに、そのままにしてあるのは、両者間で平和裏に話がついたからだろう。

十両とか十五両の帯代と称する支度金が支払われたに違いない。

では、白板村の道祖神はどうなっているのだろうか。

 

      白板村の道祖神(白板1)

「天保十二辛丑年(1841)正月吉日」の刻銘がある。

蟻ケ崎村との手打ちの後、新しく造立したと思われる。

石が大きいのは、二度と盗まれないためだろうか。

松本平や安曇野の道祖神がみんな大きいのは、盗難防止のためという説が有力だという。

 

下の道祖神は、なんの変哲もない文字道祖神である。

 

稲荷神社(沢村1)の道祖神

だが、裏には見事な男根の陰刻。

 

これを見たさに稲荷神社を訪れる人は少なくないだろうが、みんながっかりするのではないか。

なぜなら、肝心の裏側がちゃんと見られないからだ。

 

道祖神の背後に微妙な間隔でコンクリートの壁がある。

頭は入らない。

しゃがんで見てもちゃんとした形では見えない。

上の写真は、カメラを両手で持って下ろし、マクロ撮影したもの。

当然、フアインダーは覗けない。

目分量でシャッターを押した。

陰刻の線がはっきりしないので、たまたま持ち合わせた自動販売機のお茶をかけて、石を濡らしてみた。

像は明瞭になったが、猥褻さも増えたようだ。

この「微妙な間隔」でのコンクリート壁の設置には、幾たびも議論が交わされたに違いない。

「これは立派な伝統的文化財だから堂々と公開すべきだ」。

こうした正論は、しかしながら、「子供の教育によくない」、「地域の後進性の象徴だ」などというPTAママ風「良識」によって退けられ、見えるような見えないような「微妙な間隔」を設けることで結着したものと推察する。

PTAママ風「良識」が伝統文化の保護育成の障害になっていることは、「稲荷神社」から100mも離れていない「姫宮神社」の荒廃にも表れている。

 

      「姫宮神社」(蟻ケ崎2)の陰石

社殿の前の木の「割れ目」に自然石の陰石が数個奉納されているが、積極的保護というよりは何か投げやりな雰囲気が漂っている。

 

二日目の7月26日のコースは、松本市の東の郊外、山辺地域。

美ヶ原高原から流れる薄(すすき)川の扇状地で、石仏の宝庫だと言われている。

出発地点は美ヶ原温泉の美ヶ原観光ホテルなのだが、観光ホテルがなくなっているのを知らず、最初からあわてまくった。

 数多い道祖神の中には、名工、名人と言われる石工の作品もある。

谷を見下ろすように並ぶ石造物。

 

 中の1基、祝言型道祖神は、天保15年(1844)、名工藤森吉弥の作品。

 

「名工の作品ということで、道祖神の前に格子扉がつけられた。写真撮影には部落長に頼んで扉を開けてもらわなければならない」とガイドブックに書いてあるが、そうした扉はない。

孫右衛門の作品も2点ある。

2点ともユニークだ。

東桐原の抱擁握手像は、山辺地区最古の作品。

明和5年(1768)、孫右衛門により造られた。

男女神の外側に徳利が彫ってある。

 

もう1点は、今回の旅の白眉の石仏。

抱肩握手型のありふれた道祖神だが、男女神の足元を注意して見てほしい。

セックスをしている男女が彫られている。

 

おそらく村の衆からの注文ではなかろう。

道祖神の何たるか、その本質を知りつくした孫右衛門ならではの独創的道祖神といえようか。

社の屋根と梁との間の「縁」という文字と交合像かあいまって、縁結びの神として遍く世に知られるようになる。

霊験新たかなり、とは社の上の額の説明文。

交合像に気を取られて気付かなかったのだが、道祖神の左にはこれまた立派な陽石がそそり立っているのだった。

 

バス通りに戻る。

大きく左右にカーブする坂の途中に数本の欅の樹。

 

その下に石仏群。

道祖神はない。

青面金剛や名号塔もあるが、大半は馬頭観音だ。

中に1基風変わりなのがある。

 

どうやら頭に角があるようだ。

だから、馬頭観音ではなく、牛頭観音だと

武田久吉氏は『路傍の石仏』で言うのだが、

でも角らしきものは4本ある。

4本角の牛は見かけないから、牛頭観音だと言えるのか。

それとも下の短いのは耳だろうか。

なんとも不思議な像容の石仏なのである。