福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・35

2017-06-15 | 霊魂論

この智悲一如、理智円成の総体これ毘盧遮那如来である。されば華厳経は毘盧遮那と普賢、文殊の妙旨を開設せるものなりとも観られる。即ち二菩薩は毘盧遮那の別体にして、毘盧遮那は二菩薩の総体である。

しかしてかの入法界品をみるに、文殊菩薩、善財童子を引いて普賢菩薩の道場に赴き、文殊身を隠して其の相を顕さざるは、これ文殊と普賢の二聖円融の秘旨をあらわす、所謂「入法界」である。入は能証の智にして文殊と法界は所証の理にして普賢である。かく理智両つながら亡し、悲智並べ泯じ、能所双絶不可説(主観と客観二つながら絶した説くことのできない境地)の舎那の果海(毘盧遮那佛の悟りの世界)に没同するを一経の宗致(華厳経の趣旨)となすものである。

即ち文殊普賢は一切菩薩の上首なるが、この二菩薩(文殊・普賢)毘盧遮那の果海に没同するはこれ一切菩薩の毘盧遮那に帰するを表するものである。

しかして上述の如く文殊より普賢に帰するは、これ智より理に証入するものである。弘法大師の所見の如く、華厳経も一般仏教と同じく、因縁生の個別をして無相の理に還源するを宗極となすものである(因縁により生じている現実の個別現象も実は絶対の空とおなじであることを華厳経は説く)。しかして理智双泯する毘盧遮那の果海は不可説不可得なりといふ。この不可説毘盧遮那の果海これ、秘密曼荼羅の体性である(この説くことのできない毘盧遮那佛の覚りの世界が密教の本質でもある)。
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