かくのごとく因果縁起の挙体、理實法界の無自性の理である。即ち因果即実相、有即空、事即理にして、無二唯一なるがゆえに、事々無礙(個別と個別が融通無碍に存在する)の玄旨を成ずるのである。この無尽法界の実相を證見せるを海印三昧といふ。されば華厳所明の事々無礙の理は、空有相即、理事無碍(究極の真理は空であるということと個別の現象が融通無碍である)の理に依って成ずるものである。即ち海印三昧(仏が華厳経を説く時に入られた三昧。静かな海面に四方一切のものが映るように,煩悩や妄想のない仏の心鏡に,万象すべてが映ること)は真如本覚を体とし、その真如本覚は不変、随縁、空有無礙の妙体である。
上述のごとく、華厳経は海印三昧所現の法門である。しかして海印三昧は真如本覚を体とし、そのその真如本覚は空有二門無碍の妙体である。この空有無碍の法門、もし能証の人に約すれば、普賢、文殊の二菩薩と毘盧舎那如来の三聖である。即ち文殊は所謂有即空の大智に住し、普賢は空即有の三昧に住し仮此平等の大悲を成ず、また普賢は所證法界の理にして、能証般若の理である。
上述のごとく、華厳経は海印三昧所現の法門である。しかして海印三昧は真如本覚を体とし、そのその真如本覚は空有二門無碍の妙体である。この空有無碍の法門、もし能証の人に約すれば、普賢、文殊の二菩薩と毘盧舎那如来の三聖である。即ち文殊は所謂有即空の大智に住し、普賢は空即有の三昧に住し仮此平等の大悲を成ず、また普賢は所證法界の理にして、能証般若の理である。