即ち真如の理とは萬法虚融の体にして諸法皆この理を離れざるが故に、この理を証する十地の菩薩(十地は、菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第41番目から第50番目の位.五十二位の上から妙覚(仏・如来と同じ)等覚(菩薩の極位)とあり、その下が十地。上位から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位がある。)は個体法界に遍満し、分斉を離るるのである。而も十地の菩薩は業識(根本無明の力によって生じた不覚の心)の妄念未だ亡せず、微細なる能所の惑(主観・客観があるとする迷い)を帯するがゆえに、周遍法界の真如の理の全体を体し得ざるのである。此の菩薩の究竟位に至って能所主客の微細の理を明かし,縁起の法をば無明有力によって現起せし有為生滅の妄法とし、個体の差相を絶せる一如法界の理に冥合するを宗極となすものである。
即ち小乗は個体の永遠に空滅に帰せる涅槃を理想とし、大乗は個体の絶対真如の理に還帰するを宗極となすものである。
即ち小乗は個体の永遠に空滅に帰せる涅槃を理想とし、大乗は個体の絶対真如の理に還帰するを宗極となすものである。