今日仙台に物故者供養に行ってきました。
以前からなにか僧侶らしいことができないものかと考えていたのですが、昨日思いついて地元のタクシー会社に遺体発掘現場や遺体安置所に案内できるか聞いたところ大丈夫といわれたので出かけることにしたものです。友人の僧侶に声をかけようとしたのですが電話帳を紛失して結局一人で出かけました。ただ念のためいつもご指導願っているN師にこういう場合の供養の仕方を電話で聞いておきました。洒水はおこなうほうがいいとのこと、阿弥陀如来根本陀羅尼、十一面観音呪等をとなえること、などきめ細かく教えていただきました。
朝は4時に起き、行法をした後、6時過ぎに家を出て、9時過ぎに仙台に着きました。途中の駅駅でリュックいっぱいの荷物を持ったボランテアらしき若者が何人か乗ってきました。仙台駅に着いてみると、行楽客らしき人々で大混雑です。まだ一万体以上の遺体があがってないことを思うと、此のギャップに戸惑うばかりです。
タクシーに乗り、遺体発掘現場は荒浜というところなのでそこに行ってもらうことにしました。かなり走ったと思ったら、高速の土手をくぐると突然瓦礫だけの土地に来ました。警官が入り口で規制しています。わたしの衣姿をみて「お仕事ですね。どうぞどうぞ」と通してくれます。瓦礫の中を延々と走っていくと浜に来ました。歩いていた自衛隊の方に「ご遺体発掘はどのあたりでされていますか?」と聞くと、「その先の、クレーンのある長浜たりで、発掘しています。まだ三十体ほどあがっていないです。」と真剣な顔で答えてくれます。日焼けしていてずっと発掘作業にあたっていたのではないかと思いました。
なおも拝む場所を探して砂浜近くを歩いていると、地元の消防団らしき制服の人が近ずいてきて「どちらのお寺からおこしですか」と問いかけます。「東京です。」などと答えていると「こうしてなくなった方はどう考えればいいんでしょうか?」といいます。「我々の日頃積み重ねた業を代って受けてくださった『代受苦の菩薩』です。」というと「そうですね。われわれは相当ひどい生活を続けていましたからね。反省しなければ犠牲者に申し訳ないですよね」といいます。そして「拝んだりお経を上げることはあの世にいった人達に通じるのでしょうか?」と聞いてきます。「この世もあの世もつながっていて一つですから必ず通じるのです。」というと「はあー。仏様の力で通じるのですね」と自分でうなずいています。さらに「遺体の揚がらない人はうかばれないのですか?」と聞いてきます。思わず「いろいろなところで回向されていますから大丈夫です。時間がたつと魂も遺体から抜け出るのです。ましてや『代受苦の菩薩』としてのお働きをされたのですから大丈夫です。」といいました。
そのあと遺体発掘現場近くまでいき、お線香をたて、理趣経、観音経、阿弥陀如来根本陀羅尼、十一面観音呪等をとなえました。晴天ですが風は強く吹きます。後ろを機動隊のバスなどが時々走ります。一時間弱もお経を上げたでしょうか、カラッとした感じで供養をおえることができました。
そのあとは名取市の遺体安置所に行きました。廃業したボーリング場跡でした。警察の方らしき人達数名が中にいます。「東京から来た僧侶です。ご供養させていただけますか?」というと机をだしたり至れり尽くせりの対応です。恐縮します。中にはすでに火葬にされたご遺体が百体ばかり安置してあります。どれにも花束がそえられてあり、ところどころにお線香まで上げられて真っ白の布で覆われた骨壷が並んでいます。清潔に保たれています。ここを管理しておられる警察の人達がされているのでしょう。
先の浜の自衛隊の方、消防の方、ここの警察のかた、いずれもあたかも自分の所為で津波が起こったと思っているかのように真面目に対応されかえって痛々しいほどでした。
遺体安置所では用意していただいた机の上に次第、洒水器を載せて、お線香もたき、洒水からはじめて引導次第を一通りできました。それにしても思っていたほど重苦しさがありません。
帰りに警察のかたに「ここはお坊さんが供養にきましたか?」と聞くとなんと相当の数のお坊さんが次々きて供養していったというのです。なかには数百の遺体を一体毎に供養していったお坊さんもいるというのです。それで重苦しさがないことに納得がいきましました。
しかし途中で入ってきた74歳の弟を探しているという老人や、無言の中年夫婦の顔は能面のようです。外は津波があったのがうそのように車が走りまわっています。この日常と非日常の残酷なコントラストにはなんびとも耐えられないでしょう。
それでも引導次第に十三佛の御真言もつけくわえてお唱えし、供養を無事終えることができました。
3時前の新幹線に乗り東京に着くと夕方でした。途中の景色をながめているとなにかこれで高野聖の末席に連なることができたような気分になりました。被災地の供養には何度も訪れる必要はあると思いながら・・・。
以前からなにか僧侶らしいことができないものかと考えていたのですが、昨日思いついて地元のタクシー会社に遺体発掘現場や遺体安置所に案内できるか聞いたところ大丈夫といわれたので出かけることにしたものです。友人の僧侶に声をかけようとしたのですが電話帳を紛失して結局一人で出かけました。ただ念のためいつもご指導願っているN師にこういう場合の供養の仕方を電話で聞いておきました。洒水はおこなうほうがいいとのこと、阿弥陀如来根本陀羅尼、十一面観音呪等をとなえること、などきめ細かく教えていただきました。
朝は4時に起き、行法をした後、6時過ぎに家を出て、9時過ぎに仙台に着きました。途中の駅駅でリュックいっぱいの荷物を持ったボランテアらしき若者が何人か乗ってきました。仙台駅に着いてみると、行楽客らしき人々で大混雑です。まだ一万体以上の遺体があがってないことを思うと、此のギャップに戸惑うばかりです。
タクシーに乗り、遺体発掘現場は荒浜というところなのでそこに行ってもらうことにしました。かなり走ったと思ったら、高速の土手をくぐると突然瓦礫だけの土地に来ました。警官が入り口で規制しています。わたしの衣姿をみて「お仕事ですね。どうぞどうぞ」と通してくれます。瓦礫の中を延々と走っていくと浜に来ました。歩いていた自衛隊の方に「ご遺体発掘はどのあたりでされていますか?」と聞くと、「その先の、クレーンのある長浜たりで、発掘しています。まだ三十体ほどあがっていないです。」と真剣な顔で答えてくれます。日焼けしていてずっと発掘作業にあたっていたのではないかと思いました。
なおも拝む場所を探して砂浜近くを歩いていると、地元の消防団らしき制服の人が近ずいてきて「どちらのお寺からおこしですか」と問いかけます。「東京です。」などと答えていると「こうしてなくなった方はどう考えればいいんでしょうか?」といいます。「我々の日頃積み重ねた業を代って受けてくださった『代受苦の菩薩』です。」というと「そうですね。われわれは相当ひどい生活を続けていましたからね。反省しなければ犠牲者に申し訳ないですよね」といいます。そして「拝んだりお経を上げることはあの世にいった人達に通じるのでしょうか?」と聞いてきます。「この世もあの世もつながっていて一つですから必ず通じるのです。」というと「はあー。仏様の力で通じるのですね」と自分でうなずいています。さらに「遺体の揚がらない人はうかばれないのですか?」と聞いてきます。思わず「いろいろなところで回向されていますから大丈夫です。時間がたつと魂も遺体から抜け出るのです。ましてや『代受苦の菩薩』としてのお働きをされたのですから大丈夫です。」といいました。
そのあと遺体発掘現場近くまでいき、お線香をたて、理趣経、観音経、阿弥陀如来根本陀羅尼、十一面観音呪等をとなえました。晴天ですが風は強く吹きます。後ろを機動隊のバスなどが時々走ります。一時間弱もお経を上げたでしょうか、カラッとした感じで供養をおえることができました。
そのあとは名取市の遺体安置所に行きました。廃業したボーリング場跡でした。警察の方らしき人達数名が中にいます。「東京から来た僧侶です。ご供養させていただけますか?」というと机をだしたり至れり尽くせりの対応です。恐縮します。中にはすでに火葬にされたご遺体が百体ばかり安置してあります。どれにも花束がそえられてあり、ところどころにお線香まで上げられて真っ白の布で覆われた骨壷が並んでいます。清潔に保たれています。ここを管理しておられる警察の人達がされているのでしょう。
先の浜の自衛隊の方、消防の方、ここの警察のかた、いずれもあたかも自分の所為で津波が起こったと思っているかのように真面目に対応されかえって痛々しいほどでした。
遺体安置所では用意していただいた机の上に次第、洒水器を載せて、お線香もたき、洒水からはじめて引導次第を一通りできました。それにしても思っていたほど重苦しさがありません。
帰りに警察のかたに「ここはお坊さんが供養にきましたか?」と聞くとなんと相当の数のお坊さんが次々きて供養していったというのです。なかには数百の遺体を一体毎に供養していったお坊さんもいるというのです。それで重苦しさがないことに納得がいきましました。
しかし途中で入ってきた74歳の弟を探しているという老人や、無言の中年夫婦の顔は能面のようです。外は津波があったのがうそのように車が走りまわっています。この日常と非日常の残酷なコントラストにはなんびとも耐えられないでしょう。
それでも引導次第に十三佛の御真言もつけくわえてお唱えし、供養を無事終えることができました。
3時前の新幹線に乗り東京に着くと夕方でした。途中の景色をながめているとなにかこれで高野聖の末席に連なることができたような気分になりました。被災地の供養には何度も訪れる必要はあると思いながら・・・。