福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教の大意(鈴木大切、昭和天皇御進講より)・・その28

2017-10-28 | 法話

日本の仏教には弥陀の他に観音・地蔵・薬師などの菩薩様がありますが、この中で最も民衆的なのは観音様です。しかし何れも大悲心の権化であることは変わりませぬ。観音様は三十三の変化身で人間の前に現れてくるとされていますが、しかし人間のあこがれは三十三と限られたものではなく、それは個己の場合で相異するのであるから、観音はそのあこがれ又は要請に応じて如何なる形態でもをとり得るわけです。主眼とするところは観音は大慈大悲の権化としてそれが求められるところに応じて現れるといふことです。所謂、求めよ與へられん、叩けよ開かれんといふものです。
観音経によると吾等が世間的生活において何か不幸なことにでくわして大いに困っているとき、一心に観音様を念ずれば、その人の前に現はれて、窮地から救いだすといふのです。併し特に観音の性格としているのは、無畏を施すことです。・・観音が施す無畏といふのは霊性的境地に所属するもので単なる道徳性のものではないのです。武人が弾丸雨飛の間で畏れないとか、・・といふ程度のものではないのです。寧ろ人生の一喜一憂に対して今一次元の高所からこれを見下ろすといふやうなのが無畏です。禍福の無窮に縺れあふ中にゐて、無畏の心を持つといふことは、ただ消極的に恐怖の念がないといふことでなしに、不動の信心決定したものがあるといふことです。
「念彼観音力」などといふときの「念」は心理的にいふ記憶の義ではないのです。又無意識の底から呼び起こすとふのでもないのです。ここにいふ「念」はその人の存在そのものの真ん中から出るといふ意味です。・・心理分析学のいふ『無意識』の中からでも、又人間意識の発生の当初から累積してきた無意識の意識からでもないのです。寧ろ人間の存在を可能ならしめた宇宙そのものの持つ「念」といふべきです。此の念がよびさまされる時が即ち観音力の加はる時期なのです。これが無畏を体得するの義です。「気宇、王の如し」といひますが、宇宙を呑吐することです。今まで限られた穴の中にいていつ踏み殺されるかわからずに、戦々恐々としてゐたものが、その枠をとりはずされるのです。この無畏は弥陀又は観音の大悲心から人間に伝はってくるものであるから、これを獲得したものには又、大悲心の発露があるわけです。大悲心の発露は何によって妨げられるかといふに、それは不安の絶え間がないのです。今庭に下りたってゐる雀をみても「あれは何を食べに来たか」とか「何の役にたつものか」とか「何故に一対の翼があり、一つの嘴をもっているのか」などと、其の他千百の問題を出すことは大いに知的啓発の機会をあたへます。結構ではあるが、ただそれを見て神の栄光を称へるだけにしておけないであろうか。なにもかも受け入れて『雨が降ってもよし、日が照ってもよし』としておくわけに行かないか。人間の心の奥にこういふことを云わせるものが、又べつにあるのです。

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