福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

偉人、成功者の母の信仰

2013-01-11 | 法話
・ラ.マルチーヌ(18世紀フランスロマン派の代表的詩人、政治家)の母は熱心なクリスチャンで外出時には貧しい人に喜捨するため必ず葡萄酒やパンを携えて行ったといいます。
・リンカーンの母の遺言は「どんな金持ちや身分の高いものになるよりも聖書を読むことの好きな人間になってほしい」というものでした。
・マハトマ・ガンジーの母ブタリーバーイは敬虔なヒンズー教徒であり、毎年雨季の4ヶ月間は1日1食を守りました。ガンジーの断食や菜食主義は母から譲り受けたものとされます。ガンジーは「母についての記憶の中で1番鮮やかな印象を残しているのは清らかさであった。私のうちになにか聖性があるとしたらそれは私が父からでなく母から受け継いだものである」と述べています。 
・マザー・テレサの母は貧しい母子家庭ながら身寄りのない病人を引き取って面倒をみる位信仰深い人でした。十八歳のテレサが修道女としてインドで働くことを決意した時、生涯の別れに際し母は「神の手に委ねなさい。神と共に歩みなさい」といって送り出したとされます。

・加藤清正の母は熱心な日蓮信者でありこの影響で清正も日蓮信者となったといわれています。 清正は二十五才の時に難波に本妙寺を建立し父の菩提をとむらい、更に本妙寺を初め五つの寺を建立、この他京都の本圀寺の三十三番神堂、東京池上本門寺の石段や神社も造営し、名古屋市では熱田神宮の鎮皇門の造営をしています。 
・瑩山禅師(13世紀)の母、懐観大姉(えかんだいし)は十一面観音に毎日祈念し、『観世音菩薩普門品』を詠んだお蔭で37歳の時に瑩山禅師を無事出産したといいます。

・三菱財閥創設者岩崎弥太郎の母は土佐の自宅から20kmの道のりの四国27番神峯寺まで子の大成を祈願して毎朝御参りしています。弥太郎ものちに当寺に山林を寄進しています。
・三井財閥の創始者三井高利は「現金掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして大成功しましたがこれは母親の厚い信仰心によっています。客は皆佛性をもっており同じように尊いのだから相手により商いを変えてはならないという母親の考えから出た商法です。
・伊藤忠の創業者伊藤忠兵衛は幼少期浄土真宗の名僧七里恒順師に影響をうけ「慈悲の経営」につとめたとされます。蓮如上人を慕う「酬徳会」も設立しています。
・旧安田生命社長の竹村吉右衛門は母から観音様が守り本尊と聞かされ浅草寺の朝参会を作り、また仏教振興財団も作りました。
・藤田財閥創始者藤田伝三郎の母親「かめ」も熱心な仏教信者でつましい生活をしながら常に貧者に施しをしたとされます。(4月15日NHK日曜美術館)伝三郎はその影響を受け廃仏毀釈で衰退する寺に寄進を続け、散逸しようとする寺宝を集め、それが今日の藤田美術館となっています。
・サントリー創業者の鳥井信治郎は「陰徳あれば陽報あり」を座右の銘にしていました。毎朝、仏前で般若心経等一時間の勤行の後神前で柏手を打つという日課でした。 サントリー 社内に「神仏課」を置き、全国の神社仏閣に、 祭事があるたび寄付していました。 また「利益三分主義」を唱え、利益の3分の1はお客さまへ、そしてもう3分の1は社会に還元すべきとの強い信念を持ち、社会福祉法人を設立したり敗戦直後には、会社をあげて大阪市内での炊き出しもおこなっています。
この信次郎の信仰心は母親によって育てられています。母親は貧しい人を見ると毎回必ず金銭を与えていました。そして信次郎には「(施しを受けて頭を下げる人を)見るもんやおへん、ふり返ったらあかんぇ」と厳しく戒めたといいます。信次郎は『わしが陰徳、陰徳というのはなぁ、あんときのお母はんの教えによるところが大きい。 ある者がない者に施しをする。そんなんは当たり前や。 』 と常に説いたということです。



・野口英世の母シカは観音様に願掛けしたら家出した両親が帰ってきたという幼少期の経験から熱心な観音様の信者になったそうです。後年産婆さんになってとりあげた2千人の子はすべて安産で「お産の時は必ず観音様にお祈りしながらやんのし。 そうしっと観音様がお力を貸してくれらんのし」といっていたそうです。シカは地元の中田観音を信仰していました。離日15年後に故郷の土を踏んだ英世は、母を連れ、「中田観音」に参拝しています。

 
・ 銀座三笠会館創始者谷善之丞の「わたしの理想とする人」(筑摩書房「現代を生きる心」)にはこうあります。「代々信仰の篤い家系であったが特に両親は先祖を大切にしたので 自然に仏教情操により育てられた。上京して倒産した友人の食堂を借金ごとひきうけることになったが、利息で金策もつき自殺を考えた。少年時代から座禅することができたので夜座禅しながら自殺の決意をつけようとした。夏から秋もすぎ冬になり丁度12月の20日ごろだった。真夜中をすぎて夜明け近くになりました。銀座のほうから歌舞伎座の前にむかって1台の荷車がコトリコトリと音をたててまいります。座禅というものは無思無想で座っているのでありますからこの車の音が聞くとも無くわたしの頭に入りいつのまにかその車と一つになってその車の後押しをしてわたしがついていくよう感じでありました。そのうちはっと思いついたことがあります。そうだこの寒空の真夜中に車を曳いて生きている人があるんだ。死ぬ気でいきることだ。死ぬ気でいきるということだということを考え付いたとたんにわたしの胸の中にはっきりと生きる力がみちてくるのを私は感得いたしました。・・」とあります。この後従業員にも座禅をさせたと書いてありました。 


・宮沢賢治の母イチも常に「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるためにうまれてきたのス」 いっていたといいます。賢治も法華経に深く傾倒して作品を作っています。
・徳富蘇峰は肥後の四賢婦人の一人と称される母久子に育てられましたが、のちに釈宗演を招聘して碧巌会を作り政・財界、夏目漱石ら知識人を集め仏教の研鑽をしました。
・高群逸枝は自著「お遍路」によると、母は長女を流産した後、地元筑後の清水観音に願掛けをしたお陰で次女逸枝を明治27年1月18日観音様の日に恵まれています。のちに逸枝は「・・・幼少期私は時々死ぬほどの大病をすることがあった。其の都度母は清水観音を念じてくれ、翌日けろりと治った。この経験が母の信仰を不動のものにしていたのは疑いも無い。」と述べています。

・岡本太郎の母かの子は熱心な仏教徒でした。昭和12年松坂屋の展覧会に観音経普門品を書き上げて出品したり、「仏教聖典を語る」など数々の仏教関係の著作でも有名です。

・臨時行政調査会会長土光敏夫は両親本人ともに熱心な日蓮信者で自宅を教王殿という日蓮宗道場にしています。 「 私の履歴書 」で土光敏夫は「 岡山一帯は、“備前法華”といって、昔から日蓮宗の信仰厚いところである。私の父母も、そうした土地の影響にもれず、ともに日蓮宗の熱心な信者であった。私ども子供も、物心ついてから、父母と一緒に、必ず法華経を唱えさせられたものである。』と書いています。


・千宗室の母嘉代子は仙台の瑞鳳寺に茶室を寄贈しています。

・小澤征爾の母さくらはテレビのない家で夕食のあと賛美歌を子供たちに歌い聞かせ、これがのちの小沢征爾をつくったとされます。

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