福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は六十六代一條天皇が不動火界呪で蘇生されています

2024-06-22 | 頂いた現実の霊験

「続本朝往生伝」に六十六代一條天皇は不動火界呪(注1)で死後一瞬蘇生されたとあります。

「続本朝往生伝」「一條天皇」「六十六、一條天皇は円融院の子也。母は東三条院、七歳即位、御宇二十五年間、叡哲叙明、万事慶長、才学文筆、詞歌人に過ぎたり。絲竹絲歌音曲絶倫、年始めて十一、円融院に於て自ら龍笛を吹き以て震遊に備ふ。佳句多し。悉く人口に在り。時の人を得る也。斯に於いて盛と為す。親王則ち後中書王(具平)、上宰則ち左相(道長)、儀同三司(伊周)、九卿遺則右将軍実資、右金吾(右衛門督のこと)斎信、左金吾(左衛門督のこと)公任、源納言俊賢、拾納言行成、左大弁扶義、平中納言惟仲、霜臺相公有國などの輩、朝に廟廳に抗議し、夕べに風月に預参す。雲客則ち實成、頼定、相方明理、管弦則ち道方、済政、時中、高遠、信明、信義、文士則ち匡衡、以て言く、斎名、宣義、積善、為時、孝道、相如、道斎、和歌則ち道信、実信、実方、表能、輔親、式部、衛門、曽根好忠、画工則ち巨勢弘高、舞人則ち大納言兼時、秦身高、多良茂、同政方、異能則ち私宗平、三宅時弘、勢多世、越智経世、公信恒世、三春時正、眞髪勝岡、大井光遠、秦経正、近衛則ち下野重行、尾張兼時、播磨保信、物部武文、尾張兼國、大野公時、陰陽師則ち賀茂光栄、安部晴時、有験の僧は則ち観修、勝算、深覚、真言則ち寛朝、慶円、能説の師は則ち清範、静昭、院源、覚縁、学徳は則ち源信、覚運、実因、慶祚、安海、清仲、医方則ち丹波重雅、和気正世、明法は則ち允亮、允正、明経は則ち善澄、広澄、武者は則ち満仲、満正、維衡、致頼、頼光、皆是天下一物也。斉信卿常に語りて曰く「心中推挙の人欲し龍顔を得る時、先ず天下淳素に反するの勅命あるべし。仍に私心を抑へ左相毎日玉饌を奉ぜらる。本是頼親朝臣連符奉る所也。此の言を聞くより敢て進御せず。是の暴悪の者、何ぞ供御に及ばん云々。源國盛朝臣、越前の守に任ず。藤原為時、淡路守に任ず。為時朝臣、女房に附き書を献じて曰く、除目春朝蒼天眼在り。主上之を覧じ敢て膳を羞せず。夜御帳に入りて涕泣して臥す。左相参入其れを此の如く知る。忽ち國盛を召し辞書を進ぜしむ。為時を以て越前守に任じ、國盛の家中上下涕泣、國盛朝臣此れより痛を受け秋に及び播磨守に任ず。猶ほ此の病により死す。寛弘八年夏、御薬に依り、一條院に遁位、落餝し入道、月を経て不豫、慶円座主、退下の間、已以崩御、帰参の後、夜御所に入る。院源を招して曰く、聖運限りあり、力の及ぶところに非ず、但し生前の御約あり。必ず最後念仏唱へしむべしと。此の事相違せば此の恨み綿々として霊前の釈迦請ぜらるべし。試みに仏力を仰がんや。定めて遷御未遠からず。院源は鐘を打ち啓白、慶円その念珠を見る。不動火界呪を誦す。未だ百遍に及ばざるに漸くして(一條院が)以て蘇息す。左相直盧自ら衣裳顛倒し念参す。慶円即ち生前の御語に依り念仏百余遍を唱へ訖んぬ。其の後登遐さる。十善の業に依り万乗の位に感ず。往昔五百佛事、今生霜露の罪、最後の念仏此の如く往生せむ乎。

(注1)不動火界呪「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク

サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」

参考1。

『権記』寛弘八年(1011)にも一条上皇は崩御直前、慶円の加持によって一時的に蘇生したことを藤原行成が証言しています。

(「権記 寛弘八年(1011年) 六月二十二日」「二十二日、甲子。卯剋、院に参る。近く床下に候ず。御悩、危急に依りて、心中、竊かに弥陀仏、極楽に廻向し奉るを念じ奉る。上皇、時々、又、念仏す。権僧正并びに僧都深覚・明救・隆円・院源・尋光、律師尋円等、又、近く候じ、念仏す。僧正、魔障を追はんが為、只、加持を奉仕するなり。辰剋、臨終の御気有り。仍りて左大臣、右大臣以下に示し、皆、殿を下らしむ。「暫くして、蘇生せしめ給ふ」と云々。即ち諸卿等、参上す。午剋、上皇の気色、絶ゆ。左丞相の命に依り、下官、初め穢あらず。倩ら思慮を廻らすに、穢あらずして出仕すべき理無し。即ち触穢を案内し申す。」)

 

参考2.

「神皇正統記」の一条天皇の記録にも一条天皇はすばらしい賢者に囲まれていたとあります。「第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁(かねひと)、円融第一の子。御母皇后藤原詮子〈後には東三条院と申す。后宮(=皇后)院号の始なり〉、摂政太政大臣兼家の女なり。花山の御門、神器をすてて宮を出給ひしかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀を行なはれき。 新主も幼くましまししかば、摂政の儀、古きがごとし。丙戌の年即位、丁亥(ひのとい)に改元。その後摂政(=兼家)、病により嫡子内大臣道隆に譲りて出家、猶ほ准三宮の宣を蒙る。〈執政の人出家の始なり。その頃は出家の人なかりしかば、入道殿となん申す。仍りて源満仲(=頼朝の祖先)出家したりしを、(=入道殿を)はばかりて新発(しんぼち)とぞ云ひける〉。この道隆はじめて大臣を辞して前官(=前大臣)にて関白せられき〈前官の摂政もこれを始とす〉。病ひありてその子内大臣伊周(これかた)しばらく相代はりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆隠れて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。(=道兼は)七日と云ひしにあへなく失せられにき。その弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣まで至られしかど、延喜・天暦の昔を思し召しけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初め、外祖にて摂政せらる。兄弟多くおはせしに、この大臣のながれ一つに摂政関白はし給ふぞかし。 昔もいかなる故にか、昭宣公(=基経)の三男にて貞信公(=忠平)、貞信公の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条の大臣(=兼家)、東三条の三男にて〈道綱の大将は一男か。されど三弟に越されたり。仍りて道長を三男と記す〉この大臣、みな父の立てたる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈いづれも兄にこえて家を伝へらるべき故ありと申すことのあれど、ことしげければ記さず〉。この御代(=一条院)にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までも優れたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり」とぞ自から歎ぜさせ給ひける。天下を治め給ふこと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給ふ。三十三歳おましましき。」

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