1、お大師様の『性霊集「故贈正勤操大徳影讃」』に勤操大徳までの法のながれについて記述されています。
「・・・ここに一の薪を伝ふるものあり。法のいみな、勤操。俗姓は秦氏なり。母は嶋の史、大和州の武市のひとなり。はじめ母氏嗣なし。中心にこれをうれふ。しばし駕龍寺の玉像の前にもうでて香花をもてまことを表し、精勤して息をいのる。夜の夢に、明星懐にいる。遂にすなわちはらむことあり。法師うまれていまだいくばくもならざるに、耶(ちち)はやく棄背しき。孤露にして帰なし。母氏鞠養す。年はじめて十二にして大安寺信霊大徳についてわが師となす。景雲四年の秋、勅あって宮中および山階寺にして千の僧を度す。法師千勤の一なり。十六にして閑寂を渇望し、きょう塵(うるさいところ、俗なところ)を厭悪す。ついに忘帰のおもいをいだいて南嶽の窟にのぼる。弱冠におよぶころ、親教(大安寺の信霊大徳数)しば召して具足(具足戒、沙弥から比丘になるとき授かる二百五十戒)を受けしむ。入壇ののち、おなじき寺の三論の名匠善議大徳について三論の幽蹟をうけしむ。つとめ十年をへたり。かの大徳は故入唐学法沙門道慈律師の入室なり。・・」
2、これに関して私が行のたびにご指導願っている伝燈大阿闍梨浅井證善師(求聞持6回(と記憶しています)徒歩遍路も6回、独身の行者です)が以前高野山時報につぎのような文を載せておられて、求聞持法は善無畏、道慈、善議、勤操、空海と伝承されているとかかれています。以下長いですが引用します。
「虚空蔵菩薩求聞持法は奈良時代から既に行われていた。大師に至るまでの伝承では善無畏、道慈、善議、勤操、空海とされる。これは主に『性霊集』、「故贈正勤操大徳影讃」の序文に基づいている。ここで奈良朝から平安初期にかけて虚空蔵求聞持法が流布していたことについて一言。道慈律師の法脈は極めて重要であるが、真実に法が広まるのはその秘法に通達した瑜伽行者、即ち悉地成就者の存在あってのことと思われる。一般にはまのあたり、成就者の想像を絶する能力を認めた場合、はじめて儀軌の説く意味を理解できる。それは記憶力というより悉地成就者としての境涯から滲みでる人格、心理の言葉、乃至それに伴なう諸の神通力においてである。顧みて道慈の場合、道慈十七年(七0一~七一八)の在唐にあって、善無畏より求聞持法を受け、帰朝後、専ら求聞持法を修行した。その法を大安寺の善議、慶俊に授け、善議は勤操と安澄に付している。これ等の大徳において、道慈は単に求聞持法の儀軌を請来したばかりでなく、おそらくは求聞持法の悉地を成就したと思われる。道慈が単に高僧の立場にて付法したとは考えにくい。その成就者いますが故にこの法が流布し、山岳寺院にて修せられるに至った。又、慶俊も専ら真言を修習していたことから、求聞持法に通達していたと思われる。そのほかに弘法大師より以前、求聞持の成就者はいたかどうか知るべくもないが、中国から来朝してきた僧の中に存在していた証があった(唐僧、比蘇寺の神叡も成就者と思われる。他にも存在した)。そういった僧の求道に徹した精神よりほとばしる言葉は何よりも修行への熱を駆りたてたものと思われる。」
3、勤操大徳その人についてもうすこしのいべます。師は弘仁四年(813年)には伝灯大法師位として律師に任ぜられ、嵯峨天皇は勤操律師に大極殿において最勝王経を講ぜしめられました。また紫宸殿の宗論では勤操は推されて座主になりました。天皇は嘉して少僧都に任じ、京に造営中だった東寺の別当に任じています。さらに後に大僧都に任じ、造西寺の別当も兼ねました。元亨釈書には岩渕八講の逸話が伝えられます。勤操の隣室にいた栄好と言う僧は母親思いで、つねに支給される自分の食を母親の元に届けていましたが本人が病死をします。知らずにいた母は栄好が来なくて食事だけくるのを不思議がりますが勤操が憐れんで代わりに食事を童子に運ばせていたことがわかります。やがて母親も亡くなり、勤操は親子のために岩渕寺で法華経を講じたのが法華八講の起こりと言われてます。
4、勤操大徳は若き日のお大師様を和泉の槙尾山で出家させ虚空蔵菩薩求聞持法を授けた人物と言われ、さらにはお大師様が入唐することができたのも、勤操大徳の力によるところが大きかったとも言われています。そして大徳はお大師様が高野山をお開きになったときみずから大師のもとにいたいと普門院を開創されたといわれているのです。
「・・・ここに一の薪を伝ふるものあり。法のいみな、勤操。俗姓は秦氏なり。母は嶋の史、大和州の武市のひとなり。はじめ母氏嗣なし。中心にこれをうれふ。しばし駕龍寺の玉像の前にもうでて香花をもてまことを表し、精勤して息をいのる。夜の夢に、明星懐にいる。遂にすなわちはらむことあり。法師うまれていまだいくばくもならざるに、耶(ちち)はやく棄背しき。孤露にして帰なし。母氏鞠養す。年はじめて十二にして大安寺信霊大徳についてわが師となす。景雲四年の秋、勅あって宮中および山階寺にして千の僧を度す。法師千勤の一なり。十六にして閑寂を渇望し、きょう塵(うるさいところ、俗なところ)を厭悪す。ついに忘帰のおもいをいだいて南嶽の窟にのぼる。弱冠におよぶころ、親教(大安寺の信霊大徳数)しば召して具足(具足戒、沙弥から比丘になるとき授かる二百五十戒)を受けしむ。入壇ののち、おなじき寺の三論の名匠善議大徳について三論の幽蹟をうけしむ。つとめ十年をへたり。かの大徳は故入唐学法沙門道慈律師の入室なり。・・」
2、これに関して私が行のたびにご指導願っている伝燈大阿闍梨浅井證善師(求聞持6回(と記憶しています)徒歩遍路も6回、独身の行者です)が以前高野山時報につぎのような文を載せておられて、求聞持法は善無畏、道慈、善議、勤操、空海と伝承されているとかかれています。以下長いですが引用します。
「虚空蔵菩薩求聞持法は奈良時代から既に行われていた。大師に至るまでの伝承では善無畏、道慈、善議、勤操、空海とされる。これは主に『性霊集』、「故贈正勤操大徳影讃」の序文に基づいている。ここで奈良朝から平安初期にかけて虚空蔵求聞持法が流布していたことについて一言。道慈律師の法脈は極めて重要であるが、真実に法が広まるのはその秘法に通達した瑜伽行者、即ち悉地成就者の存在あってのことと思われる。一般にはまのあたり、成就者の想像を絶する能力を認めた場合、はじめて儀軌の説く意味を理解できる。それは記憶力というより悉地成就者としての境涯から滲みでる人格、心理の言葉、乃至それに伴なう諸の神通力においてである。顧みて道慈の場合、道慈十七年(七0一~七一八)の在唐にあって、善無畏より求聞持法を受け、帰朝後、専ら求聞持法を修行した。その法を大安寺の善議、慶俊に授け、善議は勤操と安澄に付している。これ等の大徳において、道慈は単に求聞持法の儀軌を請来したばかりでなく、おそらくは求聞持法の悉地を成就したと思われる。道慈が単に高僧の立場にて付法したとは考えにくい。その成就者いますが故にこの法が流布し、山岳寺院にて修せられるに至った。又、慶俊も専ら真言を修習していたことから、求聞持法に通達していたと思われる。そのほかに弘法大師より以前、求聞持の成就者はいたかどうか知るべくもないが、中国から来朝してきた僧の中に存在していた証があった(唐僧、比蘇寺の神叡も成就者と思われる。他にも存在した)。そういった僧の求道に徹した精神よりほとばしる言葉は何よりも修行への熱を駆りたてたものと思われる。」
3、勤操大徳その人についてもうすこしのいべます。師は弘仁四年(813年)には伝灯大法師位として律師に任ぜられ、嵯峨天皇は勤操律師に大極殿において最勝王経を講ぜしめられました。また紫宸殿の宗論では勤操は推されて座主になりました。天皇は嘉して少僧都に任じ、京に造営中だった東寺の別当に任じています。さらに後に大僧都に任じ、造西寺の別当も兼ねました。元亨釈書には岩渕八講の逸話が伝えられます。勤操の隣室にいた栄好と言う僧は母親思いで、つねに支給される自分の食を母親の元に届けていましたが本人が病死をします。知らずにいた母は栄好が来なくて食事だけくるのを不思議がりますが勤操が憐れんで代わりに食事を童子に運ばせていたことがわかります。やがて母親も亡くなり、勤操は親子のために岩渕寺で法華経を講じたのが法華八講の起こりと言われてます。
4、勤操大徳は若き日のお大師様を和泉の槙尾山で出家させ虚空蔵菩薩求聞持法を授けた人物と言われ、さらにはお大師様が入唐することができたのも、勤操大徳の力によるところが大きかったとも言われています。そして大徳はお大師様が高野山をお開きになったときみずから大師のもとにいたいと普門院を開創されたといわれているのです。