福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その119

2014-08-27 | 四国八十八所の霊験
中に三人の老婦人がいて「お接待させていただけるでしょうか」といいます。丁度同じ80番81番82番と廻ることにしているが、良ければどこまででも乗せます、というのです。
好意に甘えて途中まで、乗せてもらいました。

 中にいたのは80才というおばあさんとその娘さんです。
地元の人ですが折りを見て車で廻っているということです。
元気なものです。
80才でお四国参りができればこんな有難いことはありません。
おばあさんは単刀直入に聞いてきます。「僧侶の方とおみうけしたので乗っていただきました。
なにを拝んでおられますか?」。
 「一言でいえないんですが要はお大師様にお礼にきたんです。
私のようなものが今日までやってこれたのはお大師様のお蔭なんです。
でも途中でいろいろな人に出会い多くの縁のあった人の幸せも祈ることにしました。
でもあまり願い事がありすぎて、今ではただ拝むだけになっています。」と答えました。
さらにいえば仏道成就が願いなのですがなかなかそういうことまでいえません。
 
 実は60になり(平成17年当時)あせりも感じていますがそういう時はいつも年取ってから修行に励んだ先人のことを思って自らを励ましています。
「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず 未だ覚めやらず 池塘の春草の夢 階前の梧葉 すでに秋声」 朱熹の「偶成」です。まさにこのとおりで還暦を迎えるまで俗世間でいかにうかうかと人生を過ごしてきたことかと悔悟の日々です。唯一の頼みは古来老いて修行に励んだ人も多かったということが分かったことです。そういう例をあつめて自らなぐさめています。

「老いて惑いなきは少壮勤学の功による。臨末にも心みだれざるは平生修善の力なり。」(慈雲尊者「人となる道」)
これは老いても平生から修行してないといざというとき心乱れるということです。
これに関して辛らつな言葉がお経にでてきます。増支部五集第六蓋品五十九です。
「一 比丘衆よ、老年に出家せる人にして五法を成就せるものは得難し、何をか五とす。
二 比丘衆よ、老年に出家せる人にして聡敏なる(頭が冴えていること)は得難し、行儀の円足せる(行儀がしっかりしていること)は得難し、多聞なる(博識であること)は得難し、説法者なるは得難し、持律者なるは得難し。
 比丘衆よ、老年に出家せる人にして是等の五法を成就せるものは得難し、と。」
要は年取って出家してもものにならないというのです。
徒然草 第四十九には 「老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ」という文がでてきます。「老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。 人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り(永観の著『往生十因』にある)。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける(「心戒」は、人生はいつ何時どのように死の迎えが来ないと限らないから、膝を着けて座ることはせず、普段はうずくまるだけで人生を終えた、という (『一言芳談』)。」

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